恋弐
「……あきら」
シャワーを浴び終え、水の滴る髪を拭きながら呼びかけると、彼女――威はいかにも怠そうに遥を見上げた。
「何よ」
「その格好は止めろ」
隣接したキッチンに向かいつつ威を横目で睨む。彼女は赤いソファーに寝転び、大きく開いた片足を背もたれに乗せるという年頃の娘らしからぬ体制でテレビを見ていた。しかも、今気が付いたのだが上下共にくたびれたジャージ姿である。しかも、色落ち具合が非常に無残な臙脂色の。
「あたしの勝手でしょう」
威は煩いとでも言いたげに顔を背ける。俺は、冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをぷらぷらと往復させつつ露骨に呆れの溜息をついて見せた。
「いい加減自分が女だという自覚を持て」
威の向かいの、これまた真っ赤なソファーに腰を下ろす。ちらり、と彼女が遥に視線を投げたのが分かった。
「あら、いいの? あたしが相応の女としての恥じらいを持ったら、一人暮らしの家にあんたみたいな飢えてそうな男、絶対に入れないわよ?」
その言葉に、がくりと肩が下がる。手に持ったままの水が揺れた。
「飢えてそうなって……。それはいくらなんでも酷すぎる。別に女に不自由はしてない」
「そう? 最近めっきりあんたが女と歩いているところなんて見てないんだけれど」
「まあ、その必要がないからな。元来、俺は他人と馴れ合うのは嫌いだし」
「負け犬男の見苦しい言い訳ね」
「……もう何とでも言え」
これ以上何を言っても無駄だと判断した俺は、のどを逸らして水を嚥下した。冷たいものが身体の中を伝っていく。
ふと視線を落とすと、威が器用にだらけ切った姿勢のまま、俺を穴が開きそうなほど凝視していた。思わず身を引き、手で顔に触れる。
「何か付いてるか?」
眉を下げて問いかけると、威の眉間に皺が寄った。
「あんた、相変わらず癖毛よね」
「……だからなんだよ」
コンプレックスの一つである緩い螺旋を指摘され、無意識に横髪を撫で付けながら、憮然とした風体で返す。
「別に。その長くてくるくるした前髪が鬱陶しいとか、その所為で余計に女に持てはやされないのよとか思ってないわよ」
「っ、余計なお世話だ!」
水の滴る髪をタオル越しに掻き回して、俺は肘を支柱に項垂れた。どうしてこうも、彼女は自分の神経を逆撫でするのだろう。会話すればするほど気力が削がれてゆくようだ。
――それでも離れられないのだから、仕様がない。
「それより、遥――」
俺が己の薄幸を嘆いて息をついたその時、彼女はまるで「道端で猫を見たのよ」とでも言うような気安さで、こう宣った。
「あたし、恋をしたのよ」
* *
「……は?」
数秒――いや、もしかしたら数分だったかもしれないが――の間を置いて、俺は声を搾り出すようにそれだけを返した。ぽかん、と絵に描いたように開いた口が塞がらない。
「こい……? ――ま、まさか、学校の池の鯉を食ったなんて話じゃないよな……?」
「魚なんて生臭いもの食べるわけないじゃない。大体うちの高校に池なんてないでしょう? ばーか」
自身の想像に若干青くなりながら問うた俺を、威は小学生並に陳腐な言葉で嘲った。
「好き嫌いは駄目だぞ――って、じゃあ……」
「なに。あたしだって華の女子高生なのよ? 恋のひとつやふたつしたっていいじゃないの」
ソファーから半分はみ出た体勢で凄まれても説得力の欠片もない。
「え……、本気で言ってるのかそれ? 威が恋愛!? 相手誰だよ。ヒトラー? ムッソリーニ?」
「何で候補がどっちも独裁者なのよ! ばかにしてんの!?」
威は眉根を寄せて身体を起こすと、大仰に嘆息した。
「同じ学校。一年生よ」
「実在すんのか」
神妙な顔をして呟いた俺をテーブルの上に散乱していた雑誌で叩き、威は足を組んだ。
俺は知らず前のめりになっていた身体を脱力させ、目を眇める。
「――それで? 何がどう狂って惚れたんだ?」
「一目惚れ」
即答した目の前の女の言葉に、俺はファミレスのドリンクコーナーのジュースを全て混ぜている人間を見た時の様な、なんとも言えない気持ちになった。
「初めて目にした瞬間、全身をプレス機で押し潰されて、シュレッダーにかけられて、丸めて焼却炉に放り込まれた様な衝撃を受けたわ」
「確実に死んでんぞソレ」
思わず突っ込んだ俺は、威が『見たことのある』表情をしているのに気が付いて、ふぅと鼻から息を吐き出した。
「――で?」
主語も述語もなく接続語だけで問うと、よれたジャージ姿の彼女はニタリと笑った。
「あたしの想い人を、――してほしいの」