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頽廃ヒロイズム  作者: 御影 十
恋恋スターティング
2/3

恋壱

* * 


「あたし、恋をしたのよ」

 

 * * * 



 雪が降っている。

 十二月の初め。比較的暖かい気候のこの地域では、雪が降るには若干早い時期である。

 故に、俺の心に一抹の油断が生じていたのは間違いないと思う。

 ただ、俺自身のつまらない名誉の為に、一つだけ弁解しておきたい。

 つい二十分程前まで(つまり彼が家を出るまで)は、曇ってこそいたものの、雪が降る気配なんてものは微塵も見られなかったのだ。毎朝のお決まりである天気予報で、美人のニュースキャスターが「本日は雲ひとつ無い晴天になるでしょう」などと言っていたからという先入観もあるかもしれないが、そんな予報などに惑わされなくとも、体感気温が初夏並に高かったら誰でも雪が降るなんて思いもしないだろう。


 そういう訳で、傘さえ持たずに身一つで家から出たその瞬間、気温が断崖絶壁並に下がり始め、この様だ。予知能力のような超人的スペックなど持ち合わせていない俺には、予測のしようもなかった。

 空を覆った分厚い雲から一定の間隔で降り続けるそれの所為で、生まれつき色の明るい猫っ毛が頬にべったりと張り付き、全身くまなく濡れそぼっている。

 白のカッターシャツに黒の細いパンツだけという自殺行為に近い自分の格好を酷く恨みながら、俺――真哀遥は老朽化し始めたアパートメントの扉の前に立ってシャツと同じ色の息を吐き出していた。


「寒っ……」


 いつの間にか肩に薄く積もっていた雪を払い、愚痴を零しつつ髪を掻き上げる。

 俺がこの扉の前に立ち始めてから――時間を確認する術が何もないので体内時計だが――優に十五分以上経過していた。『彼女』の気まぐれは承知の上なので、今更詰め寄って不平を漏らしたりはしないが、いい加減隣人のおばさん(四十三歳、独身。趣味、健康ランド通い)に通報されかねないので早く開けてほしいというのが本音である。

 そんなことを悶々と考え始めてしばらく。指先の感覚が大分怪しくなってきた頃、漸くチェーンを弄る金属音がして、扉が開いた。

 冷気を遮るように薄く開いた扉から首だけを突き出した彼女は、俺を視界に捕らえると露骨に眉を潜めた。


「……まだいたの」


 若い女性にしては若干低めのアルト。こんな寒空の下、凍えながら文句も言わず健気に待っていた俺に対してあまりにも無慈悲な言い草だが、俺はそれには答えず、というか唇が震えて答えられず、引き攣った笑いを返した。

 彼女はその様子に気付いたのか、じろりと俺の格好を上から下まで眺め回すと、ほんの微かに目を見張った。


「ばかね。そんな薄着していたら風邪引くわよ」


 さして関心もないような淡々とした声音だったが、俺はそれが彼女の性分だと割り切っている。いや、本音を言えば、風邪を引くとするなら確実に自身の不注意よりも寒中での待ちぼうけの所為だろうから、彼女にも責があるだろうと思うのだが。まあ、しかしながら、実際に彼女が眉を下げて自分を心配などするようなことがあれば、俺としてはこれ以上気味が悪いことはないのも確かなのだった。


「そう思うなら、一刻も早く中に入れてくれ。冗談抜きで死にそうだ」


 カタカタと鳴る顎の隙間から何とかこれだけ搾り出すと、彼女は呆れたように溜息を溢した。


「分かった。このままだとあたしのほうが寒いしね。早く入って」


 なんとも横柄な許し方である。だが、一刻も早く外界から離脱したかった俺は、それには触れずに彼女と扉の間の僅かな隙間から中に身体を捻じ込んだ。

 通い慣れているとはいえ一応他人の家であるから、自分自身でも律儀だと思いながら、俺は靴を揃えて一部屋しかない彼女の自室に足を踏み入れた。部屋に充満する暖房の暖かさよりも、彼女独特のひんやりとした匂いにほっと息を吐き出す。相変わらず、女の子らしいとは言い難い――寧ろ仕事に疲れた独り身のサラリーマンのそれのような――物が雑多に散乱した部屋である。記憶が正しければ、何日か前に俺が掃除した筈だが。毎度のことながら、どうしてこうも片付けることが出来ないのだろうか。赤いシンプルなソファーに無造作に脱ぎ捨てられた下着を見て乾いた笑いを漏らした俺は、いきなり後ろから勢いよく頭を叩かれて思わず振り返った。


「なに」


 玄関とリビングを繋ぐ扉を後ろ手に閉めつつ、不遜な態度で俺を仰いでいた彼女は、顎で部屋の隅の扉を示す。


「風呂」


「は?」


「風呂よ。まずシャワーを浴びなさい。そんな汚らしい濡れ鼠のままで、あたしの部屋に入らないで」


 汚らしい濡れ鼠。反論したいが、実際そう言われても仕方の無い格好だ。俺は頭一つ分低い位置にあるつり気味の目をじとっと見下ろすだけに留まった。彼女は女性の平均身長なのだが、俺が無駄に大きいのである。彼女はそれが気に食わないらしく、エキゾチックな顔立ちに色濃い不満を滲ませた。


「何よ。文句があるなら帰れば」


「……いや。悪い。シャワー借りる」


 肩をすくめて了解の意を伝えると、彼女は「ふん、」と鼻を鳴らした。家にお邪魔させてもらっている身分としては、文句など言えない。それに、この申し出は実際のところかなり有り難かった。


「タオルと着替えは、いつもの所よ」


「ああ。ありがとう」


 彼女に背を向けてバスルームに向かいながら、適当に返事をする。言われた通りにタオルと着替えを部屋の隅の小さなクローゼットから取り出し、ついでに彼女の下着を拾うと、狭いバスルームに続く扉を開いた。





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