第一話のような序章
妖精。天使。悪魔。堕天使――――
貴方はどこまで信じられますか。
このお伽噺のような、幻のように儚いストーリーを。
誰もいない。空っぽな教室。最初にその空気を揺らしたのは―――Aだった。彼はのそのそと、窓際の一番後ろにある自分の席へ行き、大きな欠伸をひとつして、椅子に腰をおろした。
かばんを机の上に乱暴に置き、暫くぼうっとしていたAは、英語の宿題をしていないことに気づき、ロッカールームに入っていった。
それとすれ違うように、形の整ったかばんを背負い、教室に入っていく女の子がひとり。
彼女は教室の真ん中の席にかばんを置き、テキパキと荷物を整理して本を読み始めた。
『睡蓮』
黒一色のシンプルな表紙に、紫色で書かれた文字。気分がいいのか、鼻歌を歌いながら、すいすいとページをめくっていく。
Bは読むの早いなあ、さすが図書委員長。
突然聞こえてきた声に驚いたBは、顔をあげた。Bはこの本を静かな場所で読みたいと考え、朝早くから学校に来たので(今日午前の授業はない)、他にも人がいるとは思っていなかったのだ。目の前にはAがいた。天使のように微笑みながら、優しく話しかける。
そうかなあ。斜め読みしているからだよ。
そう答えるBも、彼の笑顔につられて自然と頬の筋肉が緩む。
俺、斜め読みできないんだよね……
そんなの出来なくても大丈夫だよ。じっくり読んで内容をちゃんと理解する事が大切なんだから。
そっか。まっそうだな。気にする事でもないか。
そう言って、Aは自分の席に戻る。ふう。彼の深い溜め息が自然とBの耳に入る。ようやくやる気が出たのか、彼は英語の教科書を広げ、すらすらとプリントの空欄を埋めていく。
そういえば、今日はスピーチコンテストだっけ? 確か、Bは出るよな。
Aが思い出したように聞いた。
うん。今日は午後授業で、そのときに発表でしょう。本当に緊張するよ。
子供の時(今もまだ子供だけど)、緊張を解すおまじないを2つ教えてもらった。
ひとつは手の平に"人"という字を書いて、それを食べること。そしてもうひとつは、心臓に近い(直接繋がってる)と云われる左手の薬指を右手で握ること。正に今やっている。彼女の握られている方の指にはペンダコと思われる、出っ張りがいくつかあった。
そんな強張るなよ。リラックス、リラックス。応援してるから。
それがプレッシャーなんだって。
思わず苦笑してしまう。でも少し落ち着いた。不思議。
……ありがとう。
紙のめくれる音とシャープペンが紙を擦る音、この2つが見事なハーモニーを奏でる。
何を思いたったのか、Aがいきなり立ち上がった。そして教室を出ようと、ドアの方へ歩いてゆく。
空気の流れが止まった。暫くの沈黙。そして、悲鳴。
悲鳴? いや違う。そんな柔らかい響きじゃない。これは、耳を身体を劈くような、
“金切り声”―――
Cはゆっくりと階段を上がっていた。暑い。教室に冷房が効いていればいいなあと淡い期待を抱く彼女の顔は、赤く染まり始めていた。そういえば、今朝S通りで誰も見かけ無かった。いつもは誰かいるのに。校舎内だってもっと騒がしいのに。もしかして、此処は異世界?
小さい頃おばあちゃんから聞いた、学校に関する怪談が蘇って来る。あの涼しい声と共に。
結局、あの女の子は学校に着いたのだろうか。静寂に包まれた真っ暗闇を歩く小さな背中。どんなに歩いても、自分の教室が見つからない……
……って、ちょっと怖くなってきたじゃん。
暑さによる汗と冷や汗、両方をかきながら、階段をゆっくりと上がっていく。Cがあとちょっとで2階へ着くという刹那―――不気味に感じられていた静寂が、叫び声によって切り裂かれた。
Cは急いで残りの階段を駆け上がり、声の聞こえた1組の教室に入った。
真っ赤だった。画面が、目に映る景色が、全て“あか”だった。
鮮やかで、真っ赤な液体が飛び散っている。鉄のような、生臭い臭いが鼻をつく。赤い部屋の真ん中に立っているのは、A君だった。白かったはずのワイシャツは朱に染まり、横顔しか伺えないが、満面の笑みを浮かべるその頬にも紅の斑点が飛んでいた。彼はゆっくりとこちらを向いた。
ひぃっ。
思わず、後ずさりした。なぜなら彼の両目は、黄金色に輝いていたから。とても美しくて、その瞳に吸い込まれそうになる。でもそんな甘美なものでは無いことはわかる。まるで獲物を見つけた野獣のように鋭い瞳。数秒程見つめ合い、先に口を開いたのは、意外な事に私だった。
どうしたの? 何なのこれは一体。
彼の返事はワンテンポ遅かった。まるで私が話し掛けたことに、いや私が同じ空間にいることにたった今気づかされたようだった。
……やあ、おはようC。ねぇ、この景色、綺麗に思わないかい? 美しいだろう。
うっとりとした口調で穏やかに話すA。もし此処が学校じゃなくて、こんな真っ赤な教室でもなくて、広い大海原だったりしたらどんなに今の台詞が似合っていた事だろう。
はあ? な、何言ってるの? 美しいって……。それよりも、この血はどうしたの。
血。改めて口にしてみると、残酷さが実感できた。怖い。息苦しい。ふと思ったのだが、彼が怪我している場所は見当たらない。痛そうでも無いし、苦しそうな素振さえ見せない。
じゃあ誰の血だ?
実際、私の心情を読んだのかは分からない。でも彼は、的確にそして分かりやすく私の疑問に答えてくれた。 汗が、引いてゆく。
ああ、この血?これはね……
なせか胸の警鐘が激しく鳴り響く。怖い。Aの口から紡ぎ出されるその言葉が、恐い。
Bの血さ。
あっさりと答えた彼の目からは、何の感情も読み取れない。嘘だ。私は、こんな答えを求めていた訳じゃない。訳がわからない。朝、学校へ行ったらいきなり血で服を染めた人が教室に立っていて、しかもその血が友達の血だと? 求めていた訳じゃないけど、心の何処かではこんな答えだろうと思っていた。そんな愚かな想像をした自分にも腹が立った。
じゃあBは?
声が掠れる。
……もういない。
たった5文字の言葉が重くのしかかる。よりによってBだなんて。私の一番の友達といっても過言ではない、Bが死んだ? 信じられない。
信じられないよねぇ。でも本当だよ?
どうして! どうして……。
罪悪感の欠片も感じていなさそうな、無責任なその台詞に怒りが込み上げた。
どうしてって言われても……。うーん。一時のテンションに身を任せたから?
ふざけるなっ!
愉しそうにしていたAの表情が固くなった。
……確かにふざけてるよな、俺。でもそんなに怒られるとは思ってなかったよ。
はっ。人殺しが赦されるとでも思ってるの? 私、Aがそんな浅はかな人だとは思っていなかった。
そう、人殺し。“人殺し”が今私の目の前にいる。
人殺しか。確かに人を殺せば人殺しになるさ。たとえ殺した側の者が人であってもなくても。
何が言いたいのよ。
いいや、別に。
信じられない。意味が分からない。理解したくない。嫌だ。全てをわかってしまうことが恐ろしい。
ねえ、本当に殺めてしまったの?
ああ。
一瞬だが、彼の口角が上がったような気がした。きっと見間違えだ。
本当に?
そうだよ。
じゃあBは? Bは何処にいるの?
今度こそはっきりと見た。彼の口角が上がるのを。
えっとね……
彼が口を動かした、その時、
此処だよ!
えっ。後ろを振り向けば、其処にはBがいた。満面の笑みを浮かべて。何、これ。どうなっているの。
えへへ。ドッキリ大成功っ!
ドッキリ? どういうこと? 頭が全くついていかない。全て嘘だったのか。AとBが楽しそうに笑う姿を見て、私は恥ずかしくなった。
勝手に驚いて、勝手に怒って、勝手に泣いて……。さっきまでの自分の言動に呆れた。でも、いきなりすぎて、頭の中を整理しきれていない。
ごめんね、C。驚かせちゃって。ちょっと面白そうでさあ。
そういいながら彼女は右手で髪の毛をかきあげる。
面白そうって……。本当にびっくりしたんだから。Bが死んだって聞いた時はもう……。怖くて。訳がわからなくて。
思わず泣いてしまった。この涙は、全て偽りだったという安堵によるもの。
泣くなよー。俺もびっくりしたわ。すっげー恐い形相で睨んできたもんだから。
うるさい!
でも良かった。Bはちゃんと生きていたんだ。安心したよ。これは全て嘘だったんだ……。
アハハ。次回は誰を騙そうか。彼等は共犯者めいた笑みを浮かべた。ターゲットは
ねえ。
私だって黙ってはいられない。嵌められて終わりだなんて、すっきりしない。
今度は私も入れてよね。騙されるだけ騙されて放置なんて嫌だもの。
快く仲間に入れてくれると思っていた。単なる遊びだと考えていた。でも違ったのだ。私が考える程、簡単なゲームではなかった。Bが困ったような顔をする。そしてAが、Bの代わりにこう言った。
それは出来ない。
どうして?
これは俺達のゲームだから。悪いけど、Cを入れる事は出来ない。
貴方たちのゲーム?
ええ。そうなの。Aとの約束だから。2人で始めて、2人で終わらせる。
Bが悲しそうに言った。その口調はひどく真剣に感じられた。
随分と重い約束なのね。じゃあ、次騙された人と組んで、何時か貴方たちを嵌める。
お前、腹黒いなあ。
やられっぱなしは嫌だもん。
まあ、それはそれで楽しみにしているよ。さてと、皆が来る前に片付けなきゃな。
私、雑巾取ってくるね。結構派手にやっちゃったから。
じゃあ俺は着替えてくるわ。
そう言ってAとBは右手を上げて去ってゆく。あれ? 何かが引っ掛かった。何だろう。さっきから何かが違う。まあいいか。私も雑巾取ってきて教室を綺麗にしなきゃ。急がないと、宿題をやる時間がなくなる。それに皆が来てしまう。
ドッキリのターゲットという役はとても疲れた。今思えばあれは本当に何だったのだろう。一瞬の出来事。でも何か、余韻が残ってる。不協和音の響き。Aの瞳、黄金色のあれはコンタクトだったのだろうか。他にもあの赤・朱・紅―――。何故か分からないけど、これは皆に知らせてはならないような気がした。勿論先生にも。教室を汚して怒られるのが恐い訳じゃない。何してたんだと罵られるのが恥ずかしい訳じゃない。ただ―――彼等の為にも、彼等の約束を果たす為にも、私は今日の出来事を守っていなければならないような気がした。ただ何となく。それだけだ。
私も雑巾を取りに行かなきゃ。