罰ゲームの嘘告は断ったのに、放課後の図書室で彼女を本気で好きになりました
「好きです。付き合ってください」
十七年間で人に正面から好きだと言われたのは生まれて初めてだった。
嬉しかったが返事をする前に廊下の奥を確かめた。
階段へ曲がる壁の向こうに白い上履きが二足見える。放課後の三階は人が少ない。
そんな場所に同級生の香坂紬がわざわざ俺を呼び出した理由はあそこにありそうだった。
窓ガラスにスマホを横向きに構えた手が映っていた。
「……北原くん?」
紬は俺を見上げた。制服の袖を握っている。耳まで赤い。
それが全部演技に見えてしまうのが嫌だった。
「録画をやめてくれないかな」
「え?」
「階段の陰。見えてるから」
壁の向こうで誰かが靴底を擦った。
紬の目が壁の方へ動いてすぐに戻る。それだけで十分だった。
「どうせ罰ゲームなんだろ?」
口にしてみると声は思ったより落ち着いていた。
紬は口を開きかけた。けれど何も言わずに閉じる。
「違う、あの……」
「わかってるから無理に説明しなくていい」
俺は手提げ袋を持ち直した。中で図書室から借りた二冊がぶつかり、こつんと音を立てた。
「その告白には応えられない」
紬の視線が足元へ落ちた。廊下の向こうから堪えきれない笑い声が聞こえる。
笑い声を聞いて初めて腹が立った。
「それと、人が言われて嬉しい言葉を遊びに使わないで」
紬が顔を上げる頃にはもう歩き出していた。
階段の踊り場にいたのは、同じクラスの浅見莉央と大槻だった。莉央の手にはスマホ。大槻は俺を見るなり「お、見抜かれた」と妙な感心の仕方をした。
「今撮った動画を消して」
足を止めると、莉央の笑顔が固まった。
「いや、内輪のノリじゃん。外には出さないって」
「消して」
二度言っても動かない莉央を正面から見た。そこへ追いついてきた紬が、莉央の手首をつかんだ。
「消して。今すぐ」
「紬、あんたも乗ったじゃん」
「乗った。だから私も悪い。でも、それと消すかどうかは別」
莉央の指が画面を滑った。動画が本当に消えたか、俺には確かめようがなかった。他人のスマホを見せろと迫るのも嫌だった。
紬が俺に向き直る。
「北原くん。ごめん」
俺は頷かなかった。
そのまま階段を下りた。
図書室の返却期限は来週の月曜日だ。そんなことだけがやけにはっきり頭に残っていた。
*
翌朝教室に入ると話し声がぴたりと途切れた。
笑われるより気まずそうにされる方がつらい。
窓際の席で鞄を下ろすと、隣の坂本陸が椅子を後ろ向きにして座った。陸とは一年生のときから同じクラスで、模試の間違いを笑い合えるくらいには仲がいい。
「昨日のこと聞いた」
「早いな」
「大槻がしゃべった。動画は消したって言ってるけど、俺は見てない」
「そう」
「大丈夫か」
大丈夫と答えるのは簡単だった。
でも昨夜は歯磨きの途中で何度も紬の声を思い出した。あの「好きです」を嘘だと知らずに聞いていたら。どんな顔をして、何と答えただろう。
「腹は立ってる」
「だよな」
「……それより昨日の化学の小テストっていつ返ってくるんだっけ」
「今日だろ。現実逃避の方向がおかしい」
陸は笑ったが、そこから先を聞いてこなかった。
朝のホームルーム前に紬が教室へ入ってきた。友達の輪へは行かずにまっすぐ莉央の机に向かう。
「昨日の話は誰かにした?」
特別大きな声ではなかった。ただ、みんなが聞き耳を立てていた。
「大槻が言っただけ。私、広めてないし」
「じゃあ広めないでって言って。私からも言う」
「なんでそんな大ごとにすんの? 北原だって断ったんだから、もう終わりでしょ」
「終わってない。私が人を傷つけた話で本人が断ったら帳消しになるわけない」
莉央は椅子を引いて立った。
「いい子ぶらないでよ。あんたが一番楽しそうに引き受けたじゃん」
「うん。そこもちゃんと私が言う」
紬は逃げなかった。それでも俺が許せたわけじゃない。
担任が来て朝の号令がかかった。紬は自分の席に戻った。斜め前の席にいる彼女の背中を見ないようにした。
四時間目が終わると担任に別室へ呼ばれた。
動画を撮ったことを紬自身が先生に申し出たらしい。担任は「当人同士で仲直りしろ」とは言わなかった。学校として動画が残っていないか確かめ、勝手に話を広めないよう関係者に指導すると説明した。
「どうしたいか、北原の意見を聞いておきたい」
「大きな話にはしたくないです。でも、俺が笑って許したことにするのは嫌です」
「分かった」
先生は俺の希望をメモに残した。
帰り際に職員室の前で紬に会った。彼女は俺を見つけると立ち止まり、すぐには近づかなかった。
「先生に話した。勝手に先に言ってごめん。北原くんが困るなら……」
「困ってるよ。もう十分」
「そう、だよね」
「でも先生に話したことは別に怒ってない」
紬は俺の言葉を待った。
「謝ってくれたのは分かった。今は普通に話せない」
「うん」
「しばらく必要なことだけにしてほしい」
「分かった。守る」
返事を聞いて階段へ向かった。
紬は追いかけてこなかった。
追ってきてほしくなかったはずなのに、足音が一人分しかないことに気づいてしまった。
*
俺と紬は二年生の図書委員だった。
四月のくじ引きで同じ曜日になり、毎週水曜日の放課後に図書室の当番をしてきた。騒がしい教室と違って紬は返却本の背表紙を丁寧に揃える。利用カードの字も読みやすい。困っている一年生には急に目線を合わせて説明する癖があった。
そんな彼女を少し好きになりかけていた。
だからあの日の告白があんなに嫌だった。
「当番を代えようか」
告白の翌週の水曜日。図書担当の西森先生が、当番を始める俺と紬に小声で尋ねた。
西森先生は三十代の国語教師で、図書室の貸し出し数より、生徒が自分で本を選べた回数を大切にする人だ。
「困るなら先生が入る。今月だけでも」
「……少し考えます」
紬は先生の隣で本棚を見ていた。
俺の当番は五時から六時までの一時間だ。受験はまだ先だけど、ここは人に話しかけられず勉強できる場所でもあった。
紬を避けるためだけにこの場所まで手放すのは悔しい。
「今日はいつもどおりやります。ただ、二人きりにしないでもらえますか」
「分かった。私は奥の机にいるから、扉は開けておこう」
紬が深く頭を下げた。誰に向けたものかは分からなかった。
最初の三十分は業務連絡しか交わさなかった。
「返却本は三段目の棚に戻しました」
「分かった」
「来月の読み聞かせ会は申し込みが十八人だそうです」
「掲示を直しておく」
読み聞かせ会は図書室が毎年開く近所の小学生向けの催しだ。今年は十二月第一土曜日。二年生が図書委員として中心になって運営を手伝う行事でもある。去年の参加者は二十人だった。
俺が数字を修正した掲示を貼ろうとすると、画鋲の先が曲がっていた。別の箱へ手を伸ばす前に紬が新しい画鋲を差し出した。
「ありがとう」
「……うん」
彼女はそれ以上話さなかった。
西森先生が奥から声をかけた。
「香坂さん、お願いしていた絵本の飾り、進んでる?」
「下絵までは。来週までに持ってきます」
「無理のない範囲でね」
大きな森の絵を壁に貼り、子どもたちが好きな紙の鳥を枝に留めて一枚の作品を完成させる企画だった。四月に紬が提案し、夏には既に図案を作っていた。
俺はそこで初めて彼女が当番を代わろうとしなかった理由を考えた。
次の水曜日にはあの木がどこまで伸びているだろう。
気にする資格があるのか分からないまま帰り際に壁の空白を振り返った。
*
十一月第二週の水曜日。図書室の壁に大きな木が現れた。
茶色い包装紙を幾重にも重ねた幹は、遠目には一本なのに、近づくと節ごとに違う模様がついている。木の根元には葉の落ちた地面が広がり、小さな足跡が二つ描かれていた。
近くで見ると細かな切り貼りの跡まで分かった。
紬は踏み台に乗り、枝の端をテープで固定していた。西森先生が下から紙を押さえている。
「北原くん、ここの曲がり具合、変じゃない?」
先生に尋ねられたので少し離れた位置から見た。
「変じゃないです。ただ鳥を貼る場所が足りなくなるかも」
「そうなの。十八人参加なら、余裕だと思ったんだけど」
「申し込みは二十四人に増えてます。昨日の集計です」
紬の足が止まった。
「じゃあ枝をもう一本増やさなきゃ」
「私がやるよ」と先生が言う前に、彼女は首を振った。
「切った紙があるので。今日中に足せます」
腕を伸ばした途端に踏み台がきしんだ。
「その踏み台、揺れてる。いったん降りて」
自分でも驚くほど強い声が出た。紬がこちらを見る。
先生が踏み台を押さえ、彼女を下ろした。
「ありがとう、北原くん。やっぱり古いね、これ」
紙を胸に抱えたまま紬が言った。
「ごめん。ちゃんと見てなかった」
「謝るなら台じゃなくて先生に」
我ながら意地の悪い返し方だった。彼女は少しだけ困った顔をし、それでも先生に「危なくてすみません」と言った。
西森先生が俺と紬を交互に見た。
「枝は床でつなぎましょう。貼るのは私がやる。二人は鳥の札をお願いできる?」
二十四枚の色紙を子どもの名前が書ける大きさの鳥に切る仕事だ。
紬はテーブルの端に座った。俺は向かい側へ座り、赤と青の画用紙を分けた。先生は奥の机に戻ったまま、こちらが見えるところにいた。
「羽の長さはこれで揃うかな」
紬が質問してきた。俺は先に先生を見てから、型紙を受け取った。
「二ミリくらい違うけど同じ形にしなくてもよくない?」
「子どもがけんかしないかなって」
「それぞれ好きな形を選べる方がいいと思う」
「……そうか。そうだね」
彼女は型紙を二つ作った。片方の尾は短く、もう片方は長い。両方を並べて見せてくる。
「どっちが好き?」
「長い方」
「前もそう言ってたよね。文化祭の鳥のとき」
覚えていたのかと聞きかけてやめた。
「俺の意見は採用しなかったけど」
「うん。文化祭のときは案内板の文字と重なるから、尾の短い方にしたかったの」
「そういう理由だったのか」
「言ったつもりだった」
「聞いてなかったのかも」
会話はそこで終わった。
紬はまた紙を切り始めた。小さく笑って許したわけでも元の関係に戻ったわけでもない。二人で切った鳥が机の上に増えていった。
青い紙を揃える彼女の親指に目が止まった。そこには白い絆創膏が貼られていた。先週はなかった。
声はかけなかった。
*
次の水曜日は紬が西森先生に紙の相談をしていた。
「黄色だけ近所では見つからなくて。ほかの色に変更してもいいですか」
「予算は残ってるから取り寄せでもいいよ」
「間に合うかな……」
返却本を机に置いて声をかけた。
「駅南口の画材店ならあると思う。前に弟の文具を買いに行ったとき、黄色の画用紙があったから」
紬は手を止めた。
「そうなの?」
「うん。でも今もあるかは分からない」
「ありがとう。電話してみる」
紬は先生にスマホを借りて店へ確認した。在庫はあった。店員が明日の夕方まで取り置きしてくれるという。
「よかった。ありがとう、北原くん」
「店を教えただけだよ」
俺は返却本を背の高さで揃えた。
「それでも助かった」
今度はそのまま黙っている方が不自然だった。
「……どういたしまして」
紬は笑った。誰かに見せるための大きな笑顔とは違った。口元だけ緩んで目は在庫表に向いたままだ。
その顔を見られたことに彼女は気づいていなかった。
*
読み聞かせ会のリハーサルは思った以上に難しかった。
申し込みは二十四人から二十七人に増えていた。会場の椅子を増やし、机を端へ運び、少しでも見やすい場所を作る。西森先生だけでは手が回らず、俺と紬のほかに一年生の図書委員が二人手伝いに来た。
「声はここまで届くかな」
教壇の代わりに置いた低い椅子に紬が腰掛ける。膝に広げたのは町の小さな出版社が作った絵本だった。雪の降る日に、靴屋の子が片方だけの長靴を拾う話だ。
紬はすらすら読み出した。よく通る明るい声。けれど、長靴をなくした子どもが泣く場面まで、楽しい宣伝のような調子が続く。
「……どう?」
読み終わった紬が尋ねた。
「聞こえる」と俺は答えた。
「それだけ?」
「声はよく通る」
一年生が顔を見合わせる。俺は言うべきか迷ったが紬が本を閉じずに待っていた。
「登場人物が困ってるところも全部元気に聞こえる」
「えっ」
「声の大きさじゃなくて。聞いてる方はいつ笑っていいのか分からないかも」
「……そうか」
紬はページを戻した。
「じゃあ、ここは暗い声にした方がいい?」
「暗い声にしようとすると、わざとらしくなるかも。拾った子は、まず何を心配すると思う?」
「持ち主が寒いんじゃないかって」
「そこ読んでみたら」
彼女は膝の上の本を見つめた。しばらくして、同じ一文を読み直す。声の高さはほとんど変わらない。ただ、言葉と言葉の間に、靴を失くした誰かを思う時間ができた。
一年生の委員が「さっきより好きです」と言った。
紬は本を伏せ、椅子から立ち上がった。
「もう一回最初からやっていい?」
「いいよ。時間あるし」
俺が答えると彼女は両手で絵本を抱えた。
「北原くんはそういうのどこで覚えたの?」
「覚えたっていうか……弟に読むから」
「弟さん?」
「小五。今は一人で本読むけど、昔は毎晩。俺が途中で声を変えると、違うって怒られてた」
「お兄ちゃんなんだ」
「一応」
「似合う」
不意打ちだった。
紬はそれを口にした直後、こちらの顔を見て戸惑った。
「あ、ごめん。変な意味じゃなくて」
「……分かってる」
俺は折り畳み椅子の数を数え直した。一度数えたばかりなのに、二十六なのか二十七なのか分からなくなった。
*
家に帰ると、弟の悠斗がリビングで算数の宿題をしていた。
「兄ちゃん、図書室の人って何でも知ってんの?」
「知ってたらテストで満点取れる」
「俺さ、今日先生に本読んだら、最後の方で息が足りなくなった」
「長いところで一回止まればいいんだよ」
「止まったら変じゃん」
「聞いてる人は案外待ってくれるよ」
悠斗はノートを閉じて俺を見る。
「兄ちゃん、昔みたいに読んで」
「小五が?」
「たまにはいいだろ」
本棚から昔の絵本を取り出した。背の角が擦り切れていて、小学生の頃に折ったページの端もそのままだった。
読み始めて少しすると、母が台所から顔を出した。
「懐かしい。悠真が緊張して眠れない日に、よくそれ読んだね」
「それ言わなくていい」
「中学の入学式の前なんて、三回も」
「母さん」
悠斗が面白がって笑う。
母は鍋の火を弱めて俺の顔を見た。数日前、学校から撮影について連絡があったときも、詰め寄らず、話したくなったら聞くと言ってくれた。
「この前のこと、まだしんどい?」
「……少し」
「そっか」
「でも、いま俺、その子と図書委員やってる」
「嫌ならやめていいんだよ」
「やめたいときは、俺が言う」
母は頷いた。
「そうだね。自分で決めたらいい」
悠斗が絵本のページを指で叩いた。
「続き。靴屋の子、どうなるの」
「これは靴屋の話じゃない」
「なんか似てるんだよ。本の話って」
ずいぶん大ざっぱな感想だ。
図書室で紬が読む絵本も片方の長靴から始まる。読み終えたら、借りてみようかと思った。
*
十一月の三連休初日に届いたメッセージで目が覚めた。
『例の動画、見てないよな?』
陸だった。画面の上部に、七時十二分と出ている。
『消したんじゃないの』
『誰かが最初の動画の画面を保存してたらしい。大槻がまた騒いでる』
続けて届いた画像は、校内の掲示板アプリに載った投稿のスクリーンショットだった。名前は伏せられていたが、「二年の嘘告事件」と書かれている。本文は笑い話のつもりなのだろう。俺が断ったことを、妙に格好いい台詞として扱っていた。
胃のあたりが重くなった。
俺はスマホを裏返した。知らない人が俺を褒めようがからかおうが、勝手に誰かの見世物にされる点は変わらない。
昼過ぎには学校から投稿削除と関係者への指導について連絡が来た。俺自身も嫌な内容だったことは伝えた。大槻は担任に呼ばれ、掲示板の投稿は消されたという。
それだけで収まる気分ではなかった。
連休明けの火曜日に紬が廊下で声をかけてきた。
「北原くん。今少しだけいい?」
「……何」
「投稿のこと。私、週末に見つけて先生に話した。最初の動画は消してあったけど、画像まで保存されてたのは知らなくて」
「謝りたいだけならもういい」
「分かった。でも一つだけ、聞いてほしい」
俺は立ち止まった。
「私がしたことを、北原くんの面白い話みたいにしたくない。勝手に『格好よかった』とか言うのも違うと思う。だから見つけたら止める。それは、あなたに私を許してほしいからじゃない」
「……」
「前に私が笑ったから、みんなも笑っていいって思った。そこは私が直さなきゃいけない」
正しい言葉だとは思う。
それでも、無性に腹が立った。
「直したら、なかったことになるの?」
紬の肩が動いた。
「ならない」
「じゃあなんで毎回俺に報告するの。やったことを知らせて俺がありがとうって言えば安心する?」
紬は口を閉じた。
周りを通る生徒の足音が大きくなる。俺は自分がもう少し大声を出せば、また話題になることに気づいた。
「……ごめん。言いすぎた」
「ううん。言われるまで考えてなかった」
「俺、今は誰にも説明したくない」
「分かった。これからは先生にだけ報告する」
「頼む」
俺は図書室へ向かった。
さっき謝った言葉は取り消せない。
紬に腹を立てたのも本当だった。でも彼女がまた何かを言い訳すると思い込んで、その言葉が出てくる前から攻撃する準備をしていた。
校舎の角を曲がってから、壁に背中をつけた。
俺だっていつも感じよくしていられるわけじゃない。
*
次の当番の日、西森先生が職員室に呼ばれて、十分ほど席を外すことになった。
「二人になるけど大丈夫? 別の委員を呼んでもいいよ」
先生に聞かれて俺は少し考えた。
「今日は大丈夫です。扉だけ開けておいてください」
先生は頷き、「話しづらかったら別々の作業をして」と言い残した。
紬は奥で画用紙を切り俺はカウンターで貸出カードを整理した。
紙を切る音だけがする。何度か時計を見た頃に紬が言った。
「北原くん。この前のことを一つ訂正させて」
俺は顔を上げた。
「報告はしなくていいって言った」
「それじゃなくて。最初の告白のこと」
紬はハサミを置き、両手を膝の上に揃えた。
「私、莉央たちに言われたから断れなかった、って昨日まで考えてた。でも違う。ちゃんと断る機会があったのに面白がって引き受けた。北原くんなら怒らない、って勝手に決めた」
俺は黙っていた。
「断るにしても優しく断ってくれそうだったから。そういう人だって分かってたから」
「……結構ひどい理由だね」
「うん」
普段なら笑ってごまかせそうなところで紬は笑わなかった。
「好きでもないのに、好きって言った。あのときは本当に嘘だった。……そのことを、きちんと伝えておきたかった」
「俺にとっては、聞かなくても分かってたよ」
「分かってる。でも、自分の方から言わないまま、誰かのせいにしたくなかった」
廊下から足音がした。西森先生が戻ってきたのかと思ったが、そのまま通り過ぎていった。
俺は机の端を指でなぞった。
「そこまで言うならもう一個教えて」
「うん」
「なんで俺なの」
「……何?」
「笑いものにするなら、誰でもよかったんだろ。なんで俺を選んだの」
紬は窓の外を見た。校庭では陸たちが遅い時間の部活動をしている。サッカーのボールが一つ、ラインを越えて転がった。
「四月から図書委員で一緒だったから。話しかけやすかった。北原くん、誰かの失敗を笑わないし」
「それが理由?」
「うん。ひどいよね。優しくされたのを何してもいいって意味に取り違えた」
返事が出なかった。
昔から人に怒っている顔を見せるのが苦手だった。怒ると自分も落ち着かなくなるし、相手にも面倒をかける。そう思って、教室ではたいてい笑って済ませてきた。
その積み重ねの先にあったのが、あの階段だったのかもしれない。
「これからは違う、って言いたいけど」
紬が口を開いた。
「言葉だけなら私がまた都合よく使えるから。今は何も答えてもらおうと思ってない」
彼女はハサミを持ち直し、目の前の黄色い画用紙に線を引いた。
「作業を続けるね」
それきり、その日は謝罪の話をしなかった。
帰る頃には二十七羽のうち二十二羽ができていた。俺は残りの五枚を自分の鞄に入れ、「家で切って持ってくる」と先生に伝えた。
紬が驚いた顔をしたが、何も言わなかった。
それでよかった。
*
読み聞かせ会の一週間前に雨が降った。
午後四時を過ぎても校舎の窓は暗く、図書室の蛍光灯が昼間から全部点いている。西森先生は保護者会議で早めに職員室へ戻り、一年生の委員がカウンターに二人残ってくれた。
俺と紬は大きな木の前で、鳥を貼る位置を決めていた。
「これを左の枝に置いたらバランスいいかな」
「全部左に飛ぶの、好きだね」
「右から風が吹いてる設定だから」
「設定あったの?」
「あるよ。木の右側を見て」
言われてみると、根元の草が左へ傾いていた。細い線で何本も描かれている。
「そんな小さいところに子どもたちが気づくかな」
「気づかなくてもいいの」
紬は赤い鳥を枝に重ねた。
「よく見た子が『これ、風が吹いてる』って気づくかもしれないでしょ。そのとき、見つけてくれてありがとうって言いたい」
俺は何も言えなかった。
紬が顔をしかめる。
「今の変だった?」
「いや。いいと思う」
「……そっか」
「ちゃんと考えて描いてるんだなって」
「ちゃんと考えてるよ!」
久しぶりに大きな声が出た。カウンターの一年生がこちらを向く。紬は口元を押さえ、俺もつい笑ってしまった。
「そういう顔するの初めて見た」
「どんな顔」
「変な質問した人を見る顔」
「北原くんが、すごく失礼なこと言ったから」
「ごめん」
「謝らなくていいって。ほんとに」
ふたりで鳥を貼り直した。気づくと、距離を取ることばかり考えていた先月より、ずっと作業が進んでいた。
雨脚が強まったので、先生の判断で図書室を早めに閉めることになった。
昇降口まで来て俺は傘を忘れたことに気づいた。普段は鞄に折り畳みを入れているのに、朝、弟が借りていったのだ。
「北原くん、傘ないの?」
紬は紺色の長傘を持っていた。
「うん。コンビニで買う」
「駅までなら、入る?」
彼女は言いかけて、傘を引っ込めた。
「ごめん。嫌だったら断って」
迷った。
紬はこの数週間ずっと決めた距離を守っていた。どんなに話が弾んでも、仕事が終われば俺の帰りを待ったりしない。俺が先に帰ろうとすると、短く挨拶して、そのまま残る。
だから今、差し出された傘を断ったとしても彼女は俺を責めないだろう。
「駅までお願いしてもいい?」
「……うん。もちろん」
傘の柄を持つ紬に合わせ俺は肩をすぼめて歩いた。舗道の端を車が通るたび、細かい水が跳ねる。
「もうちょっとこっち来て。濡れるよ」
「香坂もそっちの肩が出てる」
「私の制服だけ撥水加工なのかも」
「同じ学校の制服だから俺もそうだろ」
「そうだった」
笑ってしまう。紬もつられて笑った。
駅前の屋根へ入ると、彼女の左肩が濡れていた。俺はポケットからハンカチを出した。
「よかったら」
紬は一瞬ためらい、受け取った。
「ありがとう。洗って返すね」
「そのまま返してくれればいいよ」
「私が気になるから」
その言い方があまりに真面目で俺は頷いた。
「じゃあお願いします」
改札の前で別れるまで、あの日の話は一度も出なかった。
電車の窓に映る自分は、ずいぶん気の抜けた顔をしている。
人を好きになるとき、こんなふうに始まることもあるのだろうか。
答えを急ぐのはやめた。
*
土曜日は弟の悠斗を連れて読み聞かせ会の準備をした。
参加対象は小学一年生から四年生までの予定だったが、定員に余裕があるため五年生も参加していいと先生が言ってくれたからだ。悠斗は受付で「俺、赤ちゃん扱いされるの嫌なんだけど」と言いつつ、一番早く会場へ来た。
「兄ちゃん。あれ作ったの?」
大きな木を見るなり、弟が尋ねる。
「俺は鳥を切っただけ。絵を描いたのはあそこにいる香坂さん」
紬は子どもの名前を書いた札を並べていた。悠斗が駆け寄る。
「すげえ。これ、ほんとの木みたい」
「ありがとう。葉っぱがないけどね」
「冬だからでしょ」
「正解。じゃあ鳥を一つ選んでみる?」
悠斗は黄色い鳥を手に取り、枝の先に置いた。
「もっと高いとこ」
紬が言われた位置に貼る。悠斗は腕を組んで眺め、「うん」と満足そうに頷いた。
この十日ほど、俺と紬は図書室の外ではほとんど話していなかった。鞄に戻ってきた洗いたてのハンカチを見たときも紬は「ありがとう」とだけ書いた小さなメモを添え、授業中にこちらを振り返らなかった。
その配慮がありがたかった。
でも、今の彼女を見ていると、あとで話したいことが次々浮かんでくる。
「北原くん。受付をお願いできる?」
「わかった。任せて」
紬が無言で親指を立てた。
俺は名簿を持って入口へ向かい、そこで一つ気づいた。
彼女を見て笑うのに、もう努力が要らなくなっていた。
*
読み聞かせ会の開始五分前、来場予定の二十七人のうち二十六人が揃った。
最後の一人は小学二年生の女の子だった。母親が入口で何度も頭を下げている。女の子は泣いてはいなかったが、母親のコートの袖を放そうとしない。
「大丈夫ですよ。最初は見ているだけでもいいんです」
西森先生が声をかける。それでも女の子は動かなかった。
紬は正面から覗き込まず、女の子の少し横にしゃがんだ。
「ねえ、この鳥、まだ一羽だけ場所が決まってないの」
彼女が出したのは薄い灰色の鳥だった。
「ここにいるみんなは、好きな色を選んで木に留めるんだ。でも、この鳥はまだどこにも行きたくないみたい」
女の子が鳥を見た。
「行かなくてもいいの?」
「いいよ。今日は持って帰ってもいい」
「……飛ばない鳥?」
「うん。飛びたい日が来るまで待つ鳥」
女の子は小さな手を伸ばし、紬から鳥を受け取った。母親の袖はまだつかんだままだ。
「ここで一緒に聞こうか」と西森先生が椅子を持ってきた。
紬は母親に向かって頷き、ほかの子の列へ戻った。
俺は受付票に最後の一人の名前を記した。
あの子に無理に笑ってもらおうとはせず、必要な言葉だけをかけて持ち場に戻った。
その姿を見て初めて紬のことを好きだとはっきり思った。
それでも好きになったからといってされたことを忘れられるわけじゃない。
紙に名前を書く俺の手元で、ボールペンの先が少し止まった。
*
読み聞かせは成功した。
紬は靴屋の子が長靴を拾う話を読み進めた。途中で泣く子を見つけても、急いで明るい声を作らず、その子が顔を上げるまで一拍待ってから次のページをめくった。絵本を閉じたあと、子どもたちはそれぞれ紙の鳥を選んだ。二十七人全員が同じ場所へ集まると混雑するため、六人ずつ案内して木に貼っていく。
悠斗は率先して低学年の子の椅子を戻し、「あっちに糊があるよ」と教えていた。普段は洗濯物を畳むのを嫌がるくせに他人の前では妙に頼もしい。
最後に、さっきの灰色の鳥を持った女の子が、母親と手をつないで木へ近づいた。
紬が「どこにする?」と聞くと、女の子はしばらく迷ってから、いちばん低い枝を指さした。
「ここ。まだ飛ばなくてもいいから」
「うん。ここなら、ほかの鳥も見えるね」
紬はその位置に貼った。
灰色の鳥は黄色い鳥の真下に収まり、二羽だけ少し離れた枝に並ぶことになった。
会が終わり、保護者と子どもたちが帰ると、図書室が急に広く感じられた。
「お疲れ!」
紬が一年生の委員とハイタッチをして回る。俺の前に来たところで手を上げたが途中で止めた。
「あ、えっと。お疲れさま」
俺は彼女の手を見た。
気を遣ってくれているのは分かる。それでも、今なら自分から手を上げてもいいと思った。
それでも。
「お疲れ」
俺は自分から手を上げた。
軽く触れた掌の音が、思ったより大きく響く。紬の目が丸くなり、それから、嬉しさを隠せない顔になった。
「……ありがとう」
「頑張ったのはみんなでしょ」
「うん。そうだけど」
その先の言葉は聞かなかった。
片づけの途中で、悠斗が「兄ちゃん、その人のこと好きなの?」と大声で尋ねてきたからだ。
「お前は椅子を運んで」
「えっ。図星?」
「二脚。頼む」
弟はにやにやしながら椅子を運んだ。
紬は聞こえないふりをしていた。けれど、受け取った画用紙の色を二回間違えたので、たぶん聞こえていた。
俺が「青」と言うと彼女は赤を差し出した。
「それ赤」
「知ってる!」
「じゃあ、なんで」
「分かんない!」
今度こそ、二人で声を出して笑った。
*
十二月最初の月曜日。紬はいつもと違う色のマフラーをしていた。
紺でも白でもなく、焼いたパンのような茶色。教室に入ってくるなり、陸が「今日から冬装備?」と声をかけた。
「うん。駅前の店で一目惚れした」
「似合うじゃん」
「ありがと」
紬は今も誰とでも話せる。莉央たちと以前のように弁当を食べることはなくなったが、別の子にノートを貸したり、文化祭の写真を渡したりしている。
同じ明るい声なのに、今はその後に続く言葉をちゃんと聞きたいと思えた。
放課後、図書室へ行く途中で莉央に呼び止められた。
「北原、ちょっといい」
大槻は一緒にいなかった。莉央は鞄の持ち手を握り、すぐにこちらを見ようとしない。
「この前の投稿、先生に全部話した。大槻に止めてって言えなかったのも私。ごめん」
「……うん」
「最初の動画、撮らなかったらよかった。あのとき私、紬が止めると思ってたんだよね。紬も、私が止めると思ってたって」
「それで、誰も止めなかったんだ」
「そう」
俺は廊下の時計を見た。図書室の当番まではあと四分。
「謝ってくれたのは分かった。だけど俺、今後もあのことを冗談にされるのは嫌だ」
「もうしない」
「香坂とも、あの話を面白がってしないでほしい」
莉央が目を上げた。
「……北原、紬のこと許したの?」
「それは俺たちの間のこと」
「そっか」
莉央は一歩退き、通路を空けた。
彼女が悪い人間かどうか、俺には全部分からない。あの一件をいつか忘れたとしても、無理に仲良くする必要はない。
俺は「じゃあ」とだけ言って歩いた。
図書室へ着くと紬が返却本を積み上げていた。俺に気づくと、茶色いマフラーを外して畳んだ。
「お疲れさま。今日、早いね」
「チャイム鳴ってから来たよ」
「私が遅かったのか」
「そういうこと」
ふと、尋ねたいことができた。
「香坂。進路は決まった?」
「え?」
「もう十二月だし、そろそろ将来のこと考えてるのかなって」
紬は返却本を二冊抱えたまま、俺の顔を見た。
「私、デザインの専門学校に行きたいんだ。来年からデッサンの実技対策も始めなきゃいけないから、そろそろ本格的に準備しないとって思って」
「そっか。あの絵だったら、いいんじゃないかな」
「そんな簡単じゃないよ。デッサンの先生、厳しいし」
「でも好きなんだろ」
紬は本をカウンターへ戻した。
「好き。ずっと。中学のときから」
小声になった。
「前はね、絵が好きって言うと、何描いてるの、見せて、ってなるのが嫌だった。下手だと思われたくなくて。だから、みんなの前では『趣味だよ』ってごまかしてた」
「今は?」
「応募する作品、自分で選んだ。見せてって言われたら、見せようと思う」
「怖くない?」
「怖い。でも、見せたい」
俺は頷いた。
「俺も教育学部に行きたいと思ってる。一般受験にするつもりだ」
「前に言ってたところ?」
「覚えてたんだ」
「そりゃ覚えてる。子どもの本のこと勉強したい、って。四月の当番のとき言ったでしょ」
覚えていたことが嬉しくて、思わず笑った。
「……うん。言った」
「受かるといいね」
「お互いに」
その日の当番はいつになく早く終わった。
俺は彼女の目指す学校が遠くにあることを知っている。卒業したら、お互い同じ図書室へ来ることもなくなる。
そう思うと、胸のあたりがすうっと冷えた。
あの日の嘘がなかったら俺たちはどうなっていたのだろう。
たぶん、もっと簡単に仲良くなれていた。けれど、そのときの俺は、断ることが苦手なままだったかもしれない。紬も、場の空気に合わせるために自分の気持ちを隠していただろう。
そんな仮定をいくら並べても、過去は変わらない。
今の紬ともっと話したい。
それだけははっきりしていた。
*
水曜日の当番が終わったあと、紬から声をかけられた。
「駅まで一緒に帰らない?」
言った直後彼女は慌てて付け足す。
「予定がなければでいい。無理なら、全然」
「いいよ。俺も駅」
紬は一瞬、顔を上げた。手に持っていた鍵を落としそうになり、両手でつかみ直す。
昇降口を出ると、道端の銀杏はほとんど葉を落としていた。学校の前のパン屋から甘い匂いが漂う。紬はいつもより歩くのが遅かった。
「何か話したいことある?」
「……ある」
「じゃあ、聞く」
紬は歩道の隅へ寄った。横断歩道の手前で止まり、信号を待ちながら話し始める。
「この一か月、何回も考えた。最初の告白で、本当にひどいことをしたって。それは、謝ったから終わりにはできない」
「うん」
「でも、最近、別のことも考えてる。北原くんと図書室にいるの、楽しい。読み聞かせのとき、私がうまくできなかったところを一緒に考えてくれたのも嬉しかった」
風が吹き、マフラーの先が揺れる。
「自分がしたことの埋め合わせで仲良くしてるのかって、最初は何度も考えた。でも、北原くんが好きな本の話とか、弟さんの話とか、もっと聞きたいって思うのは、たぶん違う」
彼女は指先でマフラーの端を握った。
「私、北原くんのことが好き」
今度は壁の陰に誰もいない。
スマホを構えた手も笑い声もない。車が信号で止まり、パン屋の店員が店先の黒板を片づけている。あまりに普通の夕方だった。
「答えは、今、言わなくていい。……言わないでほしいとか、そういう意味じゃなくて、私は自分の気持ちを知ってほしかっただけ」
紬の言葉が少し速くなった。
「北原くんがどう思ってても、絵の準備は最後までやるし、学校でも変にしない。だから」
「香坂」
呼ぶと彼女は口を閉じた。
「嘘じゃないって分かるよ」
紬は目を瞬いた。
「でも、今、俺の気持ちは簡単に整理できない。香坂といるのは楽しいし、好きだと思う瞬間もある。だけど、最初のことを急に思い出して、怖くなる」
「……うん」
「だからもう少し時間をもらえる?」
「もちろん」
即答だった。
そこで俺は少しだけ意地悪になった。
「また人前で罰ゲームにされたら、さすがに立ち直れない」
紬は苦しそうに顔をゆがめた。
「絶対しない。もう、誰に対しても」
「分かった。嫌な言い方した。ごめん」
「嫌だったら、嫌って言っていいよ」
歩行者信号が青になった。
俺たちはそれぞれの歩幅で渡った。紬の方が少しだけ早い。向こう側で俺が追いつくのを待ち、それから並んで駅まで歩いた。
改札の手前で彼女が言った。
「今日、話せてよかった」
「俺も」
その返事だけは迷わず言えた。
*
家に帰ると、悠斗がダイニングの椅子を逆向きにまたいでいた。
「兄ちゃん。顔が変」
「お前の宿題は」
「終わった。顔が変なのは?」
相手にするのが面倒で、冷蔵庫から麦茶を出した。冬でも悠斗は麦茶ばかり飲む。俺もその癖が移った。
「この前の図書室の人がさ、俺のこと好きだって」
「知ってる」
「なんで」
「この前、俺が言ったじゃん。兄ちゃん、その人のこと好きなの、って」
「弟が先に決めるな」
悠斗は笑い、すぐに真顔になった。
「兄ちゃんは?」
「好きだと思う。たぶん、ずっと前から少しずつ」
「じゃあ、よかったじゃん」
「そう簡単でもない」
水を一杯飲みたい気分だった。麦茶を戻して、水道の蛇口をひねる。
「その子、最初に俺のこと騙したんだ」
「えー。最悪」
「だろ」
「でも、この前、俺に鳥くれた人?」
「そう」
「俺がもっと高い所に貼りたいって言ったら、子ども扱いしないで、ちゃんとそこに貼ってくれた」
「うん」
「兄ちゃんは今も最悪だと思ってるの?」
コップを持ったまま黙ってしまった。悠斗は空の弁当箱を洗い始めた。頼まれもしないのに、珍しい。
「最初のことは、今でも嫌だよ」
「じゃあ、それも言えば」
「もう言った」
「その人はなんて?」
「待つって」
「じゃ、兄ちゃんが考える番だね」
弟に相談するつもりはなかった。むしろ、俺が何か教える側だと思っていた。
悠斗は洗った皿を裏返し、水を切った。
「ねえ兄ちゃん。好きな本って一回読み間違えたら嫌いになる?」
「……なるやつもある」
「俺はページ飛ばして読んじゃって後から面白いところがあったって気づくときある」
「読み飛ばしたのは自分だろ」
「うん。だから戻る」
そう言って宿題のノートに戻った。答えを出すつもりで聞いたわけじゃないのだろう。
俺はスマホを取り出し、金曜の放課後の予定を確かめた。模試の復習は土曜日でも間に合う。
駅南口の画材店の隣に、絵本を多く扱う小さな本屋がある。いつか紬に見せたかった場所だ。
*
金曜日の昼休みに紬の机へ行った。
「香坂。今日の帰り時間ある?」
紬がペンを落とした。
隣で話していた女子が「あ、ごめん」と立ち上がり、少し離れた席へ移る。そういう気遣いに慣れていない俺は、かえって顔が熱くなった。
「ある。えっと、図書室?」
「いや。駅の向こうの本屋に行かない?」
「本屋?」
「絵本の専門店。香坂が好きそうな本が、たくさんあるんだ」
「……北原くんと?」
「一人で行ってもいいけど、俺が誘ってる」
紬は口元を隠した。椅子の背からずり落ちそうになったマフラーを、慌てて両手で受け止める。
「行く。行きたい」
「じゃあ放課後に下駄箱で」
「うん」
席へ戻る途中、陸に腕を引かれた。
「やるじゃん」
「聞いてたのか」
「お前、聞こえる声で言ってた」
「そういうとこだけ耳いいよな」
陸は笑って、俺の肩を一度だけ叩いた。
「よかったな」
「まだ、何も決まってない」
「決まってないから、楽しいんだろ」
陸にしては珍しく、からかい抜きの顔だった。
放課後、下駄箱で紬を待っていると彼女は五分早く来た。
「お待たせ」
「まだ時間前」
「だって、遅れたくなくて」
紬は茶色いマフラーに鼻先を埋めた。
「……あの、今日って」
「うん」
「デートだと思ってもいい?」
俺は靴ひもを結び直すふりをした。ほどけていないのに。
「俺はそのつもりで誘った」
「……そっか」
しばらく下駄箱から動けなかったのは、どちらも同じだった。
*
本屋は駅の裏通りにあった。間口は狭いけれど、奥行きが深い。棚の上には古い仕掛け絵本が並び、天井から紙の星が吊られている。
紬は店に入るなり、商品の札を一枚ずつ見始めた。
「かわいい。これ手で切ってるのかな」
「店長さん、紙工作も好きなんだって」
「知り合い?」
「悠斗が小さい頃、よく来たから」
俺が指さしたのは、窓際に並ぶ小さな本。絵よりも余白が多く、読み手が続きを想像する種類のものだ。
「こういうの、香坂が好きそうだなと思って」
紬は一冊を手に取り、表紙を何度も撫でた。開くと、片隅に青い鳥が一羽描かれている。向かいのページには何もない。
「ここ、空けてあるんだ」
「うん」
「きっとこの鳥が飛んだ先を読む人に考えてほしいんだね」
「香坂ならどこに飛ばす?」
「今までの私なら、左」
「今は?」
「どっちでもいい。たぶん、選んだ方に理由があれば」
紬はページの空白を指でなぞった。
「北原くんは?」
「俺は少し遠くに飛ばすかな。そこまで行ったら何が見えるか知りたい」
「じゃあ、私もそこへ飛ばしてみようかな」
「真似?」
「一緒に見たいって意味」
棚の向こうでレジのベルが鳴った。俺たちは何もなかったように、本を戻した。
次に紬が見つけたのは、猫の絵が入った小さなポストカードだった。
「これ、北原くんの弟さん好きそう」
「悠斗は猫より犬派」
「そうなの? じゃあ、こっちは?」
「カエルも好き」
「選択肢が広い!」
紬は笑い、カエルのカードを二枚手に取った。
「二枚?」
「うん。悠斗くんと、私」
「香坂も好きなの?」
「今日から」
意味を尋ねる前に彼女は会計へ向かってしまった。
店を出ると、空にはまだ明るさが残っていた。帰りの電車を一本見送って、駅前のベンチで温かいココアを飲んだ。
「最初はさ」
紬が紙コップを両手で包んで言った。
「北原くんが私の絵を褒めてくれるのが怖かった。嘘をついたくせに褒めてほしいなんて勝手だと思ったから」
「好きな絵だから褒めたんだよ」
「うん。今は分かる。……私、嬉しいって言ってもいいんだよね」
「もちろん」
「嬉しかった。すごく」
紬はカップのふちを見た。
「それから、楽しかった。傘に入った日とか、図書室で鳥を貼った日とか。帰ってから、次の水曜日が待ち遠しかった」
「俺も。雨の日から、香坂と帰れないかなって考えるようになった」
「えっ」
「笑うところ?」
「違う。嬉しすぎて何言ったらいいか分かんない」
彼女はココアを飲もうとして、熱さに驚いてカップを離した。
「猫舌?」
「今日はたぶん、何を飲んでも熱い」
「それ、どういう意味」
「聞かないで」
横顔が赤い。俺の方も、耳だけ妙に温かかった。
*
帰りの電車が来るまで、あと十分。
紬は時計を見て、立ち上がった。
「北原くん。今日は誘ってくれてありがとう」
「俺も楽しかった」
「私、今日みたいな日が来ると思ってなかった」
彼女が笑ったあと、少しだけ目を伏せる。
「あのときのことを忘れてほしいとは思わない。忘れられなくてもこれから私と過ごす時間が嫌じゃなければ嬉しい。……でも、それってずるい言い方かな」
「ずるくないよ」
俺は一つだけ確かめたかった。
「最初に告白したとき香坂は俺が断ると思ってた?」
「うん。誰だって困ると思ってた。でも、断っても怒らないと思った。そこがひどかった」
「俺さ。あのときちょっと嬉しかったんだ。嘘だって気づく前のほんの一瞬だけど」
紬の指が紙袋の取っ手を強くつかむ。
「だからあの言葉が苦手になった。でもこの前香坂に好きだって言われたときは本当に嬉しかった」
「……ほんとに?」
「うん。嬉しくて、怖かった。二つとも本当」
言ってから、紬の顔を見た。
「最初の嘘をなかったことにはできない。けど今の香坂と付き合いたいって思った」
「北原くん……」
「もう一度、告白してもらってもいい?」
紬は目を丸くした。
「それって、今?」
「嫌なら、俺から言う」
「嫌じゃない。待って。……ちょっと、待って」
彼女は一歩離れ、マフラーを直して戻ってきた。両手は空いている。スマホを構える手も、こちらをのぞく誰かもいなかった。
「北原悠真くん」
名前を呼ばれただけで胸が鳴った。
「好きです。付き合ってください」
今度の声は少し掠れていた。制服の袖を握る手も震えている。
返事をする前に一度だけ周りを見た。誰も隠れていないか確かめるためじゃない。帰り道を歩く人、駅員の声、電車の音。聞きたいのは目の前にいる彼女の言葉だけだった。
「俺も紬が好きです。俺と付き合ってください」
紬は息を止めたような顔をした。
「……返事も告白になってるじゃん」
「どっちも告白したかったんだよ」
「じゃあ、私も答える。よろしくお願いします」
「こちらこそ」
改札に向かうアナウンスが流れた。紬は慌てて一歩踏み出し、すぐ戻ってきた。
「ねえ。手をつないでもいい?」
「うん」
差し出した手に、彼女の指が触れる。冷たいと思ったのは最初だけだった。少しずつ指の位置を合わせるうちに、どちらも笑ってしまう。
「紬。手袋は?」
「持ってる」
「つけないの?」
「今つけたら、もったいない」
何がもったいないのか聞かなかった。答えを聞いたら、また電車を一本見送る気がしたからだ。
*
翌週の水曜日、図書室の木にはまだ二十七羽の鳥が留まっていた。
行事が終われば飾りを外す予定だったけれど、後輩の委員たちが学年末まで残してほしいと言い、先生が許可したらしい。
俺と紬はカウンターで返却本を並べていた。何度も作業した同じ机なのに、手が触れるたびに順番を忘れそうになる。
「北原くん。この本はどこの棚だっけ」
「そっちの児童書の棚」
「了解」
「……学校では、今までどおりでいい?」
俺が聞くと紬が本を置いた。
「うん。でも二人のときだけ悠真って呼んでもいい?」
「いいよ。俺も紬って呼びたい」
「昨日もう呼んだよ」
「忘れて」
「無理。大事に覚えとく」
紬は嬉しそうに返却本を抱えた。俺は奥の棚から落ちてきた紙の鳥を拾う。
先月、二人で作った青い鳥だった。留めていたテープが弱くなったらしい。踏み台を使わず届く枝に貼り直していると紬が隣へ来た。
「それ、右に向けてもいい?」
「左がいいんじゃなかった?」
「前はね」
紬は青い鳥の隣に、黄色い鳥を一羽だけ貼った。黄色い鳥は左を、青い鳥は右を向いている。二羽の尾がほんの少し重なった。
「これなら、どっちの景色も見える」
「……うん」
俺が返すと彼女は俺の制服の袖をつまんだ。
「悠真。今日一緒に帰ろうね」
「もちろん」
彼女はもう袖を握って顔を隠さなかった。




