保健室には秘密がある
雨の日の保健室は、いつもより静かだった。
窓を叩く雨音と、古いエアコンの低い唸り声だけが響いている。
「……失礼します」
二年三組の結衣は、少し震える声で扉を開けた。
「どうした?」
白衣姿の養護教諭・高瀬先生が、本から顔を上げる。
三十代半ば。
無精髭もない清潔な顔立ちで、生徒から妙に人気があった。
「ちょっと、頭痛くて……」
「熱は?」
「たぶんないです」
先生は立ち上がり、結衣の額にそっと手を当てた。
その距離の近さに、結衣の心臓が跳ねる。
「……熱はないな。疲れてるんじゃないか?」
「かもです」
先生は小さく笑って、ベッドを指差した。
「少し休んでいけ」
カーテンの閉まった簡易ベッドに横になると、雨音がさらに近く聞こえた。
スマホが震える。
《今日どうする?》
“パパ”からの連絡だった。
結衣は画面を伏せる。
大学生になったら都会に出たい。
可愛い服も欲しい。
配信者みたいな生活もしたい。
でも現実は、コンビニバイトだけじゃ全然足りない。
だから始めた。
食事だけ。
そう思っていたのに、少しずつ感覚が麻痺していった。
「……暗い顔してるな」
いつの間にか、先生が椅子に座っていた。
「別に」
「悩みあるなら聞くぞ」
優しい声だった。
だからこそ、余計に苦しかった。
「先生って、生徒のことどこまで助けるんですか」
「できる範囲なら」
「じゃあ、お金貸してくれます?」
冗談っぽく笑って言ったつもりだった。
でも先生は笑わなかった。
「何があった」
結衣は黙る。
沈黙が痛かった。
「……パパ活、してます」
言った瞬間、終わったと思った。
軽蔑される。
説教される。
そう身構えたのに。
先生はしばらく黙ったあと、静かに息を吐いただけだった。
「危ない男じゃないのか」
「……今の人は平気です」
「今の、ってことは他にもいたのか」
「別に普通ですよ。みんなやってるし」
強がりだった。
先生は机に肘をつき、疲れたように目を閉じる。
「“みんなやってる”は、自分を壊す理由にならない」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
結衣は笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「先生にはわかんないですよ」
「分からないな」
即答だった。
「でも、分からないから聞いてる」
雨音だけが続く。
やがて先生は財布から一万円札を出して、机に置いた。
「今日の約束、断れ」
「……え?」
「返さなくていいとは言わない。だが今は帰れ」
結衣は固まった。
「先生、それヤバくないですか」
「ヤバいな」
「問題になるよ」
「だろうな」
なのに先生は、少しだけ笑った。
「それでも、生徒を売るよりマシだ」
その瞬間、結衣の中で何かが崩れた。
張っていた意地も、強がりも。
気づけば、ぽろぽろ涙が落ちていた。
先生は何も言わなかった。
ただ保健室の外で鳴るチャイムを聞きながら、静かにティッシュ箱を差し出した。
それから結衣は、理由をつけて保健室へ行く回数が増えた。
頭痛。
寝不足。
生理痛。
本当の日もあれば、嘘の日もある。
高瀬先生は、たぶん気づいていた。
それでも何も言わず、いつも通りの距離感で接してくれた。
「また来たのか」
「ダメですか?」
「サボりすぎると担任に怒られるぞ」
そんな会話をして、結衣は保健室の丸椅子に座る。
それだけで安心した。
パパ活の連絡は、少しずつ減っていった。
最初は断るたびに罪悪感があった。
せっかく“必要とされてる”と思っていたから。
でも先生と話している時間のほうが、ずっと満たされた。
「先生って彼女いるんですか」
ある日の放課後、結衣は何気ないふりで聞いた。
先生はカルテを書きながら答える。
「いない」
「へえ」
「なんだその反応」
「モテそうなのに」
「面倒なんだよ、人付き合い」
結衣は少し笑った。
その横顔を見ながら、胸がじわっと熱くなる。
最初は“優しい先生”だった。
でも違った。
結衣はもう、先生に会いたくて保健室へ来ていた。
冬が近づいた頃。
結衣はまたスマホを伏せた。
通知画面には、《久しぶり。会わない?》というメッセージ。
昔のパパ活相手だった。
「断ればいいだろ」
先生は温かいココアを差し出しながら言う。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないのは分かってる」
先生は椅子に座り直し、少しだけ真面目な顔をした。
「でも、お前は“誰かに必要とされたい”だけだろ」
結衣の心臓が止まりそうになる。
図星だった。
可愛いって言われたい。
求められたい。
特別になりたい。
そのためなら、少しくらい嫌なことも我慢できると思っていた。
「……先生には分かるんですね」
「分かるよ。そういう顔してる」
結衣は俯く。
すると先生は、ぽつりと言った。
「でもな、“大事にされる”と、“都合よく使われる”は違うぞ」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
結衣は涙をごまかすように笑う。
「先生って、ズルい」
「なんで」
「そういうこと自然に言うから」
先生は困ったように眉を下げた。
その顔を見た瞬間、結衣は確信してしまった。
もう戻れない。
たぶん自分は、この人にハマっている。
──
十二月の終わり。
外は冷たい雨だった。
放課後の校舎にはほとんど人がいなくて、保健室の時計の音だけがやけに大きく響いている。
「先生、まだ帰らないんですか」
結衣はベッドに腰掛けたまま聞いた。
「仕事残ってる」
「真面目」
「教師だからな」
いつもの軽口。
でも最近、その空気が少しずつ変わっていることを、二人とも気づいていた。
目が合う時間。
沈黙の長さ。
ふと近づく距離。
全部が前より危うい。
先生は書類を閉じ、深く息を吐いた。
「結衣」
「ん?」
「最近、ちゃんと寝れてるか」
「まあまあ」
「嘘だな」
結衣は笑う。
「先生って、すぐ分かるよね」
「分かりやすいんだよ、お前」
その言い方が少しだけ優しくて、結衣の胸が苦しくなる。
気づけば、言葉が零れていた。
「……先生のせいですよ」
「何が」
「先生といると、他の人無理になる」
空気が止まった。
雨音だけが静かに続く。
先生は何も言わない。
結衣は誤魔化すように笑った。
「冗談です」
「そういう冗談、言うな」
低い声だった。
怒っているようにも、困っているようにも聞こえる。
結衣は立ち上がる。
「じゃあ帰ります」
その瞬間。
手首を掴まれた。
弱い力だった。
振り払おうと思えば簡単にできるくらい。
でも結衣は動けなかった。
先生は俯いたまま、苦しそうに言う。
「……これ以上はダメなんだよ」
「じゃあ離してください」
「……」
「先生」
沈黙。
やがて先生は、諦めたように目を閉じた。
「お前が来るたび、嬉しかった」
結衣の呼吸が止まる。
「来なくなるのが嫌だった」
掴む手に、少しだけ力が入る。
「教師失格だ」
結衣はゆっくり先生に近づいた。
逃げるなら今だった。
でも先生は逃げなかった。
近くで見る横顔は、思っていたよりずっと苦しそうだった。
「先生」
結衣が名前を呼ぶ。
その瞬間、先生は堪えるように目を逸らした。
なのに次の瞬間には、結衣を強く抱き寄せていた。
白衣越しに伝わる体温が熱い。
「……一回だけだ」
自分に言い聞かせるみたいな声。
結衣は胸元を掴み、小さく笑った。
「絶対、一回で終わらないくせに」
先生は何も答えなかった。
代わりに、静かに結衣へ口づけた。
窓の外では、冬の雨が降り続いていた。
──
卒業式の日。
校庭の桜はまだ咲いていなくて、冷たい風だけが春の匂いを運んでいた。
「結衣ー! 写真撮ろ!」
友達に呼ばれ、結衣は笑って駆け寄る。
制服姿も今日で最後だった。
式が終わって、みんな泣いたり笑ったりしながら校舎を歩いている。
結衣は一人になったタイミングで、静かに保健室へ向かった。
扉の前で、一度立ち止まる。
あの日から、先生とは何度も話した。
何度もぶつかった。
“このままじゃダメだ”と先生は言った。
結衣も分かっていた。
だから二人は、あの日以降、一線は越えなかった。
好きだと認めた上で、距離を戻した。
苦しかったけれど、それが正しかった。
コンコン。
「失礼します」
扉を開けると、高瀬先生がいつもの席に座っていた。
「……卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
少しだけ沈黙が落ちる。
保健室の匂い。
白いカーテン。
窓際の観葉植物。
全部、もう終わる。
結衣は笑った。
「先生、私もうパパ活してないですよ」
「知ってる」
「偉くないですか?」
「偉いな」
先生も少し笑う。
その顔を見て、結衣は思う。
この人に出会わなかったら、自分はたぶんもっと、自分を雑に扱っていた。
誰かに必要とされることばかり求めて、自分を大事にできなかった。
でも先生は違った。
ちゃんと叱ってくれた。
ちゃんと止めてくれた。
“好き”だけじゃ壊してしまうものがあることを、教えてくれた。
「先生」
「ん?」
「私、大人になったらまた会いに来ます」
先生は少し困ったように笑う。
「……その時、お前がまだ俺を好きだったらな」
「絶対好きですよ」
即答すると、先生は呆れたように息を吐いた。
「お前はほんと真っ直ぐだな」
結衣は最後に保健室を見渡した。
そして、小さく頭を下げる。
「ありがとうございました」
先生は何も言わなかった。
ただ、いつもみたいに穏やかに笑っていた。
結衣は扉を閉める。
廊下の先には、春の光が差していた。
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