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保健室には秘密がある

作者: 熊猫ぱんだ
掲載日:2026/05/11

雨の日の保健室は、いつもより静かだった。

窓を叩く雨音と、古いエアコンの低い唸り声だけが響いている。


「……失礼します」

二年三組の結衣は、少し震える声で扉を開けた。


「どうした?」

白衣姿の養護教諭・高瀬先生が、本から顔を上げる。


三十代半ば。

無精髭もない清潔な顔立ちで、生徒から妙に人気があった。


「ちょっと、頭痛くて……」

「熱は?」

「たぶんないです」


先生は立ち上がり、結衣の額にそっと手を当てた。

その距離の近さに、結衣の心臓が跳ねる。


「……熱はないな。疲れてるんじゃないか?」

「かもです」

先生は小さく笑って、ベッドを指差した。

「少し休んでいけ」


カーテンの閉まった簡易ベッドに横になると、雨音がさらに近く聞こえた。

スマホが震える。


《今日どうする?》

“パパ”からの連絡だった。

結衣は画面を伏せる。


大学生になったら都会に出たい。

可愛い服も欲しい。

配信者みたいな生活もしたい。

でも現実は、コンビニバイトだけじゃ全然足りない。

だから始めた。


食事だけ。

そう思っていたのに、少しずつ感覚が麻痺していった。


「……暗い顔してるな」

いつの間にか、先生が椅子に座っていた。

「別に」

「悩みあるなら聞くぞ」


優しい声だった。

だからこそ、余計に苦しかった。


「先生って、生徒のことどこまで助けるんですか」

「できる範囲なら」

「じゃあ、お金貸してくれます?」


冗談っぽく笑って言ったつもりだった。

でも先生は笑わなかった。


「何があった」

結衣は黙る。

沈黙が痛かった。

「……パパ活、してます」

言った瞬間、終わったと思った。


軽蔑される。

説教される。


そう身構えたのに。

先生はしばらく黙ったあと、静かに息を吐いただけだった。


「危ない男じゃないのか」

「……今の人は平気です」

「今の、ってことは他にもいたのか」

「別に普通ですよ。みんなやってるし」


強がりだった。

先生は机に肘をつき、疲れたように目を閉じる。


「“みんなやってる”は、自分を壊す理由にならない」


その言葉が、妙に胸に刺さった。

結衣は笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。


「先生にはわかんないですよ」

「分からないな」

即答だった。

「でも、分からないから聞いてる」

雨音だけが続く。


やがて先生は財布から一万円札を出して、机に置いた。

「今日の約束、断れ」

「……え?」

「返さなくていいとは言わない。だが今は帰れ」

結衣は固まった。


「先生、それヤバくないですか」

「ヤバいな」

「問題になるよ」

「だろうな」

なのに先生は、少しだけ笑った。


「それでも、生徒を売るよりマシだ」


その瞬間、結衣の中で何かが崩れた。

張っていた意地も、強がりも。

気づけば、ぽろぽろ涙が落ちていた。

先生は何も言わなかった。


ただ保健室の外で鳴るチャイムを聞きながら、静かにティッシュ箱を差し出した。

それから結衣は、理由をつけて保健室へ行く回数が増えた。


頭痛。

寝不足。

生理痛。

本当の日もあれば、嘘の日もある。


高瀬先生は、たぶん気づいていた。

それでも何も言わず、いつも通りの距離感で接してくれた。


「また来たのか」

「ダメですか?」

「サボりすぎると担任に怒られるぞ」

そんな会話をして、結衣は保健室の丸椅子に座る。

それだけで安心した。


パパ活の連絡は、少しずつ減っていった。

最初は断るたびに罪悪感があった。

せっかく“必要とされてる”と思っていたから。

でも先生と話している時間のほうが、ずっと満たされた。


「先生って彼女いるんですか」

ある日の放課後、結衣は何気ないふりで聞いた。

先生はカルテを書きながら答える。

「いない」

「へえ」

「なんだその反応」

「モテそうなのに」

「面倒なんだよ、人付き合い」

結衣は少し笑った。

その横顔を見ながら、胸がじわっと熱くなる。


最初は“優しい先生”だった。

でも違った。

結衣はもう、先生に会いたくて保健室へ来ていた。


冬が近づいた頃。

結衣はまたスマホを伏せた。

通知画面には、《久しぶり。会わない?》というメッセージ。

昔のパパ活相手だった。


「断ればいいだろ」

先生は温かいココアを差し出しながら言う。

「簡単に言いますね」

「簡単じゃないのは分かってる」

先生は椅子に座り直し、少しだけ真面目な顔をした。


「でも、お前は“誰かに必要とされたい”だけだろ」

結衣の心臓が止まりそうになる。

図星だった。


可愛いって言われたい。

求められたい。

特別になりたい。

そのためなら、少しくらい嫌なことも我慢できると思っていた。


「……先生には分かるんですね」

「分かるよ。そういう顔してる」

結衣は俯く。

すると先生は、ぽつりと言った。

「でもな、“大事にされる”と、“都合よく使われる”は違うぞ」


その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。

結衣は涙をごまかすように笑う。

「先生って、ズルい」

「なんで」

「そういうこと自然に言うから」


先生は困ったように眉を下げた。

その顔を見た瞬間、結衣は確信してしまった。

もう戻れない。

たぶん自分は、この人にハマっている。


──


十二月の終わり。

外は冷たい雨だった。

放課後の校舎にはほとんど人がいなくて、保健室の時計の音だけがやけに大きく響いている。


「先生、まだ帰らないんですか」

結衣はベッドに腰掛けたまま聞いた。

「仕事残ってる」

「真面目」

「教師だからな」

いつもの軽口。


でも最近、その空気が少しずつ変わっていることを、二人とも気づいていた。


目が合う時間。

沈黙の長さ。

ふと近づく距離。

全部が前より危うい。


先生は書類を閉じ、深く息を吐いた。

「結衣」

「ん?」

「最近、ちゃんと寝れてるか」

「まあまあ」

「嘘だな」


結衣は笑う。

「先生って、すぐ分かるよね」

「分かりやすいんだよ、お前」

その言い方が少しだけ優しくて、結衣の胸が苦しくなる。


気づけば、言葉が零れていた。

「……先生のせいですよ」

「何が」

「先生といると、他の人無理になる」


空気が止まった。

雨音だけが静かに続く。

先生は何も言わない。

結衣は誤魔化すように笑った。


「冗談です」

「そういう冗談、言うな」

低い声だった。

怒っているようにも、困っているようにも聞こえる。


結衣は立ち上がる。

「じゃあ帰ります」

その瞬間。

手首を掴まれた。

弱い力だった。

振り払おうと思えば簡単にできるくらい。

でも結衣は動けなかった。


先生は俯いたまま、苦しそうに言う。

「……これ以上はダメなんだよ」

「じゃあ離してください」

「……」

「先生」


沈黙。


やがて先生は、諦めたように目を閉じた。

「お前が来るたび、嬉しかった」

結衣の呼吸が止まる。

「来なくなるのが嫌だった」

掴む手に、少しだけ力が入る。


「教師失格だ」


結衣はゆっくり先生に近づいた。

逃げるなら今だった。

でも先生は逃げなかった。

近くで見る横顔は、思っていたよりずっと苦しそうだった。


「先生」

結衣が名前を呼ぶ。

その瞬間、先生は堪えるように目を逸らした。

なのに次の瞬間には、結衣を強く抱き寄せていた。

白衣越しに伝わる体温が熱い。


「……一回だけだ」


自分に言い聞かせるみたいな声。

結衣は胸元を掴み、小さく笑った。

「絶対、一回で終わらないくせに」

先生は何も答えなかった。


代わりに、静かに結衣へ口づけた。

窓の外では、冬の雨が降り続いていた。


──


卒業式の日。

校庭の桜はまだ咲いていなくて、冷たい風だけが春の匂いを運んでいた。


「結衣ー! 写真撮ろ!」


友達に呼ばれ、結衣は笑って駆け寄る。

制服姿も今日で最後だった。

式が終わって、みんな泣いたり笑ったりしながら校舎を歩いている。


結衣は一人になったタイミングで、静かに保健室へ向かった。

扉の前で、一度立ち止まる。

あの日から、先生とは何度も話した。

何度もぶつかった。


“このままじゃダメだ”と先生は言った。

結衣も分かっていた。

だから二人は、あの日以降、一線は越えなかった。

好きだと認めた上で、距離を戻した。

苦しかったけれど、それが正しかった。


コンコン。

「失礼します」

扉を開けると、高瀬先生がいつもの席に座っていた。


「……卒業、おめでとう」

「ありがとうございます」

少しだけ沈黙が落ちる。


保健室の匂い。

白いカーテン。

窓際の観葉植物。

全部、もう終わる。


結衣は笑った。

「先生、私もうパパ活してないですよ」

「知ってる」

「偉くないですか?」

「偉いな」

先生も少し笑う。


その顔を見て、結衣は思う。

この人に出会わなかったら、自分はたぶんもっと、自分を雑に扱っていた。

誰かに必要とされることばかり求めて、自分を大事にできなかった。

でも先生は違った。


ちゃんと叱ってくれた。

ちゃんと止めてくれた。

“好き”だけじゃ壊してしまうものがあることを、教えてくれた。


「先生」

「ん?」

「私、大人になったらまた会いに来ます」


先生は少し困ったように笑う。

「……その時、お前がまだ俺を好きだったらな」

「絶対好きですよ」

即答すると、先生は呆れたように息を吐いた。

「お前はほんと真っ直ぐだな」


結衣は最後に保健室を見渡した。

そして、小さく頭を下げる。

「ありがとうございました」

先生は何も言わなかった。

ただ、いつもみたいに穏やかに笑っていた。

結衣は扉を閉める。


廊下の先には、春の光が差していた。

ここまで読んでくださってありがとうございました!

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