第3章 27歩の外へ 2
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「接触時間は1日3回、各10分間」
老神官の声は抑揚がない。それは祈りの声ではなく、報告書を読み上げる役人の声だった。
「間隔は最低3時間以上。超過すれば強制分離。必要と判断した場合、鎮静処置を施す」
――鎮静処置。それは薬品名や祈祷じゃなく、“手順”として扱われる言葉だった。
アシュレイは気難しい面持ちで、老神官から渡された書面を見つめる。彼の目に映った黒いインクが、鎖の輪のように連なって見えた。
黙ったままでいるアシュレイの隣で、レオンが真顔のまま頷く。
「了承した」
迷いがないことが、アシュレイの胸をさらに痛ませた。
地下水盤の波形は安定している。27歩以内、10分間抱擁で減衰率最大。神殿はそれを“最適解”と呼んだ。だが最適化とは、切り捨ての別名だった。
「……私のために、あなたを安全装置にするのか」
静かに告げれた言葉に、レオンが振り向く。
「それは違う」
「違わない」
穢れが感情に呼応して、胸の奥で微かに脈打つ。
「時間を区切られた挙句に回数を数えられ、外部で記録される。私の中にある穢れのせいで、触れることが義務になっている。それを安定させるために、あなたを“利用”しているに過ぎない」
レオンは数歩近づく。27歩の内側だが触れない。
「俺は選んでいる。命令だからじゃない。殿下が安定するなら、それでいい」
その真っ直ぐさが、アシュレイにとって刃になった。
「……だから嫌なんだ」
アシュレイは、俯きながら呟いた。抑え込もうとしている感情が、声の震えになって表れる。
「あなたがそう言うから甘えるしかない。あなたが背負うと言うから頼るしかない。それでは私は――」
王太子でも贄でもない、ただの依存者だと言おうとしたその瞬間、鐘が鳴る。
「第一回、開始」
扉の向こうで、羽根ペンが走る音が微かに聞こえた。水盤の水がわずかに揺れ、本格的な観測が始まる。
レオンが一歩踏み出したのに、今度はアシュレイが動かない。
「……命令だから、抱き締めるのか?」
静かな問いにレオンの眉がわずかに寄るが、アシュレイに向かって両腕が伸びる。
「違う」
やんわりと触れる。白衣越しの体温が、レオンが身に着けている鎧に伝わった。本来なら冷たいはずの金属が、じわりと内側から熱を孕む。まるで自分の体温が、鎧の隙間から侵食していくようだった。
鼓動が速い。それは、穢れに侵された熱ではなく、必死に生きている体の熱だった。それが鎧を介して、レオンの胸に届く。
外で観測している神官が言う。
「減衰率、上昇。安定傾向」
その言葉と同時に、レオンの腕がわずかに強まった。観測値に合わせた力ではない。“離したくない”と無意識に出た圧だった。
アシュレイは気づく。鎧の内側――レオンの鼓動も、同じ速さで打っている。
「数字になるな……」
無意識に額を押しつけ、目を閉じる。ふたりきりでいる、この時間に集中するために。
「私とあなたの距離を、数式にしてほしくない」
レオンの息が、鎧の隙間でかすかに乱れた。
「俺は数字じゃない。殿下もだ」
互いの腕に力が込められた瞬間、外から呼びかけられる。
「残り1分」
早すぎる。アシュレイの指が鎧を掴む。その瞬間、穢れが一瞬だけざわめいた――離れたくないという感情が波形を乱す。
水盤の波形が揺れ動いたことで、外がざわつく。
「変動確認」
レオンの腕がさらに強まる。規定を超えそうな力で鎧が軋む。
「殿下……落ち着いて」
囁きは命令ではない、懇願だった。それだけで波形が戻る。そのタイミングで鐘が鳴った。
「終了」
腕が解かれる。だが一瞬だけ、ほんの一瞬だけレオンの指が白衣を離せなかった。それを、アシュレイは垣間見る。
「レオン……あなたを奪っている」
「違う」
今度は、少しだけ声が掠れる。
扉の向こうで神官が囁く。
「減衰率、過去最高値。依存度、上昇傾向」
――依存で何が悪い。そう叫びたい衝動を、アシュレイは喉の奥で噛み潰す。
その夜、穢れは静かだった。数値は安定しているが、心は荒れている。
「……私は、レオンを失いたくない」
だから縛りたくない。だが神殿は、縛ることでしか安定を保てない。数値では測れないものが、ゆっくりと燃え始めていることを彼らはまだ知らない。




