第3章 27歩の外へ
地下神殿は傍から見ると、地の奥深くで脈打つ巨大な臓腑のようだった。
天井は高く、黒曜石の柱が円環状に並ぶ。中央に据えられた水盤は、王城のどの玉座よりも巨大で、冷たく青白い光を放っている。水面に浮かぶのは、王子の穢れを数値化した黒のみ。
「距離27歩、安定維持」
神官が淡々と刻印板に記録する。
「心拍補正値、正常範囲」
「呼吸補助結界、作動中」
老神官の視線は、水面から一瞬も離れない――監視を続けている間に、その黒がぶつりと断ち切れた。
「座標消失」
即座に声が飛ぶ。
「対象は移動していると思われます。結界反応なし。自発行動と推測」
祈祷棟にいる王子を消失したせいで、水盤が激しく波立つ。それだけで黒が水面に薄く広がり、観測式が乱れた。
「理論値から逸脱、許容誤差を超過」
観測する神官たちの声に感情はない。いついかなる時でも冷静に対処するために、訓練を受けている。
老神官が渋い表情を維持したまま、ゆっくり告げる。
「原因を排除せよ」
理由は問わぬ、結果のみが管理対象だった。
***
回廊は夜に沈んでいた。高い石壁に灯る魔導灯が、淡く青い影を落とす。磨かれた石床は冷えきり、氷のように輝いている。
外の風がどこかの小窓から吹き込み、身につけている銀の鎧を揺らす。レオンハルトは、その中央に立っていた。
扉との距離27歩、神殿が正確に計測したもの――だが今夜は、どこか空気が違う。やけに静かすぎた。まるで、棟全体が息を潜めているみたいに。
ひたひた……石床に響く微かな音。裸足が触れるような掠れた足音が、レオンの耳に聞こえた。
一歩。
二歩。
音の原因に視線を向けたら、冷えた床に白い足が目に留まった。細い足首が、かすかに震えている。レオンは、見覚えのあるそれに声をかける。
「……殿下?」
闇の向こうから現れたのは白衣の青年、アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシア。夜気に晒された肌は青白く、黒髪が頬に貼りついている。
呼吸がやけに浅く、胸が小刻みに上下していた。
「……息が」
風が、彼の言葉を攫いかける。
「息が、できない」
回廊の石壁が、そのか細い声を反響させる。それは王子の声ではない。地下では“対象”だが、ここでは震える体温を纏う王国の贄だった。
***
地下神殿では、穢れの探索が続いていた。
「距離25歩、穢れ増幅傾向――いや、違う。振動パターン変化」
「分析不能!」
水面に映る黒が縦横微塵に乱れる。それは、今まで見たことのないものだった。
「接触禁止距離を突破」
老神官が即座に命じる。
「武装神官、出動準備。対象と聖騎士を分離。必要なら拘束」
告げられた声は、いつも以上に冷たいものだった。
「対象の精神依存兆候を確認」
「排除対象、聖騎士レオンハルト・ヴァイス・グランディア」
一瞬の沈黙。
「聖騎士を……排除?」
「均衡維持を阻害する要素は、身分に関わらず排除する。それが王命だ」
それは国家が最初から決めた掟で、神殿は忠実にそれに従うのみ――。
***
体温を奪うには十分すぎる冷えた床の上を、裸足が進む。白衣の裾が石に擦れ、微かな音を立てる。
「レオン……そこに、いるのか?」
か細い声を聞いているだけで、レオンの胸が軋む。
「……います」
反響した声が石壁に溶ける。アシュレイの肩が、わずかに落ちた。安堵したおかげで穢れが揺らぎ、そして薄まる。
あと数歩、夜風が二人の間を通り抜ける。それは冷たいはずなのに、なぜか温く感じた。
「どうしても……我慢できなかった」
アシュレイの内なる告白を聞き、レオンの中で何かが音を立てて崩れる。
あと一歩の距離までアシュレイが近づく。このまま触れてはいけない。それが命令であり、均衡であり正解だった。
聖騎士としての仕事を考えている間に、距離が消える。一瞬だけ宙で止まった腕の向こう、アシュレイの額が胸にぶつかった。鈍い音が鎧の奥で響く。冷えきっていたはずの銀の胸当てに、確かな熱が触れる。
白衣越しの体温は思ったよりも高くて震えを含んだまま、じわりと金属を温めていく。鎧は本来、刃を弾くためのもの。感情を通すためのものではない。それなのに薄い布越しに伝わる鼓動が、金属を介してレオンの胸へ届く。
とく、とく、とく――とても速い鼓動を感じる。それは、不安と恐怖に追い立てられた心臓の音だった。その震えが鎧を伝い、肋骨の内側をかすかに叩く。穢れに満ちているはずの体温は、熱を持ちながらもどこか頼りなく、失われる寸前の灯火のよう。
細い腕がやんわりと回る。白衣の袖が鎧に擦れ、かすかな布音を立てる。抱き締められているのは自分のはずなのに、守られているのはこちらではないかと錯覚するほど必死な力だった。
「……レオン、少しだけでいい」
胸元に押しつけられた声が、金属を震わせる。吐息が鎧の隙間から入り込み、冷えた内部を温める。氷のようだった回廊の空気の中で、そこだけが異様に熱い。
レオンは息を吸う。鉄の匂いと、微かに混じる体温の匂い。冷たい夜気の中で、はっきりと“生きている”匂いを吸い込み、頭がクラクラした。
腕が、ゆっくりと下りる。今度は止まらない。鎧越しにその熱を強く抱き込むと、金属が軋む。それ以上に、胸の奥で何かが確かに溶けた。
「……レオン、もっと強く抱きしめてくれ」
その言葉に、夜気が揺れる。纏わりつく両腕に力が込められ、レオンの身体を包み込んだ。
***
地下神殿――祈禱棟から抜け出した王太子の観測を続ける神官の声が、次々となされる。
「接触確認、距離ゼロと思われます!」
「穢れ急変」
神官たちが息を詰める。黒が音もなく薄れていく。それは暴走ではない。明らかな“鎮静”だった。
「減衰……だと?」
あれだけ乱れていた数値が、見る間に落ちていく。しかも急激な安定を目の当たりにして、観測していた神官たちは沈黙する。
「理論外、観測地点から外れているからだ」
こめかみに手を当てた老神官の目が細くなる。
「これ以上の接触は危険因子になる。武装神官、即時介入。必要であれば聖騎士を拘束せよ」
神殿は国の器の安定より、秩序が優先する習わしに従う。
***
遠くからたくさんの鎧の音が迫る。冷たい金属音が石壁に反響するだけで、その数を知らせた。だがレオンは腕を離さない。
「お前たち、私に触れるな」
その一言だけは、王族としての威圧を含んだ王太子の声だった。それだけで武装神官たちが気圧され躊躇したのが、空気の乗って伝わってくる。
「……彼は安定している」
ふたりを囲うように配置している武装神官に、レオンから事実を告げた。抱きしめる腕の中で、アシュレイの呼吸が徐々に整っていく。さっきよりも穢れは静かで、安堵しているかのように。
「これは命令違反だ!」
「処分なら、この俺を!」
強く言い放った瞬間、冷たい風が吹き抜けてアシュレイの白衣が揺れる。
「レオン……私を離すな」
自分にしがみつく細い両腕の力を感じてレオンは息を吸い、アシュレイの腰に添えている片手に力を込めた。彼を守るため、しっかりと抱き寄せる。
「責任は俺にある。見てわかるだろう、俺が抱き締めた。処分なら俺を――」
「聖騎士レオンハルト、貴殿は国の剣だ」
「だからこそ、俺が引き受ける」
神殿側とレオンの譲れないやり取りが続いた。
「贄を維持する責任があるのなら、俺が担う!」
それは反抗ではない、従順でもない。自らを装置に差し出す宣言だった。それを間近で聞いたアシュレイは、レオンの腕の中で呼吸が整う。
「……レオン」
震えは、もう恐怖ではない。安堵に満ちたものに変化する。
「前から言ってるだろ。お前の傍にいるって」
武装神官の間から老神官が登場し、ゆっくりと息を吐く。
「ならば、条件付きで接触を許可する」
「構いません。何かあれば俺が責任を持つ」
腰に添えているレオンの腕にさらに力が入っただけで、アシュレイの心は満たされていく。それだけで穢れは静まった。この行為は均衡ではなく、選ばれた依存であり公認された接触だったが、アシュレイは満足していた。
「……私を、置いていくな」
「行かない」
短くて強い言葉を発したレオン。その約束は神の誓いより重く、迷いのないものだった。
「俺はアシュレイを置いて行かない」
石造りの回廊が、その言葉を抱き込む。神殿の理論よりも重く。




