第2章 離れないという嘘3
***
神殿の地下は、祈りの場ではない。湿り気を帯びた石の匂いと、水音だけが満ちる記録の場になっている。円形の観測陣が床一面に刻まれ、祈祷棟と連動した仕組みだ――陣の溝には、古い魔力の残滓が黒ずんで沈む。
中央の水盤に映るのは、黒く揺らぐ光。それはアシュレイ・エヴァルド・ヴァレシアの穢れ。脈動は不安定で、規則性はない。
「本日、第三刻より上昇」
白衣の神官が淡々と告げる。
「感情波と連動。抑圧時に急騰」
水面がざわりと荒れ、黒が一気に濃くなる。
「……接近反応」
その直後、数値が滑らかに落ち始めた。まるで、荒波が岸に触れて静まるように。
「聖騎士レオンハルト・ヴァイス・グランディア、回廊位置確認」
記録板に刻まれる文字がそれを示す。
「距離、扉一枚」
水盤の黒は、明らかに薄くなった。老神官が目を細める。
「これは偶然ではないな」
静かな地下で、水音だけが反響する。
「ここ最近、この兆候が目立っている」
すべて、同一人物の接近時のみ減衰。
「加護による抑制と推定すべきでしょうか?」
「いや……加護の波長とは一致しない」
水面に映る黒が、ゆっくりと呼吸する。
「どちらかと言えば……依存の可能性が高い」
余計な感情を含まぬ、ただの分析結果だった。
「聖騎士を呼べ」
レオンは神殿の間に立っていた。冷えた石床に柱の影が反射して、彼を檻の中に立たせる。
「観測結果を共有する」
神官たちとレオンの目に、水盤の黒が映る。
「ここ一ヶ月、穢れは不安定だ」
レオンは知っていた。扉越しでも、そのことを感じ取れた。
「だが、貴殿の接近時のみ減衰が確認された」
これまでなかった兆候に、一瞬だけ呼吸が止まる。
「偶然です」
老神官は動かない。
「聖騎士が近づく度に減衰するのを、偶然とは呼ばん」
減衰率と波長の変化を示す明確な差が、記録板に事細かく刻まれていた。
「これは加護か?」
違う、と本能が告げる。あの夜、「離れません」と告げたとき。あれは加護ではない。
「……分かりません」
老神官の声が落ちる。
「聖騎士レオンハルトは、贄の維持装置として有効である」
その瞬間、手のひらに爪が食い込んだ。維持装置――あの夜、口にしなかった言葉を耳にするだけで、何とも言えない気持ちが沸き上がる。
「……違います」
自然と低くなる声に、老神官の眉間にシワが刻まれた。
「余計な感情は排除せよ。近づきすぎるな。だが離れるな」
矛盾した命令が続くことに、レオンの苛立ちが募った。
「均衡を保て」
(――俺でなければならない)
その事実が突きつけられる。
「今後、接触制限を設ける」
接触を控えるように命令を受けた直後のセリフで、空気がさらに冷える。それなのに、レオンの胸の奥に熱が灯った。
「期間は七日」
扉の前に立てない7日は、レオンにとっては短いようで長い。
「距離27歩を基準とする」
レオンは、無意識にその歩数を頭の中で刻む。石床を踏む足音の数、27歩。
「……承知しました」
***
回廊の最奥。扉は、角を二つ曲がった先。穢れの気配は、距離がいつもより遠いせいか薄く感じた。
(――たぶん、落ち着いている)
きっと水盤は、安定を示すだろう。だが静まりすぎている。柔らかな沈静ではない。無理に均された水面のような硬い静寂に、レオンは感じ取った。
***
祈祷棟。アシュレイは、すぐに気づいた。近くない。扉の向こうに温度がない。それだけで、紋様がざわつく。
(――来るなと、レオンに言ったのは私だ)
分かっているのに、もの足りない。欲しい――レオンの声や気配、その存在が……。そう思うだけで穢れが波打つ。暴走はしないが、ぎりぎりの均衡を保った。
「……ずるい」
涙は出ない。ただ胸に空洞が広がる。その空洞を埋めるものが、たった一人だと知ってしまったから。
***
地下にある中央の水盤が、それを示した。
「成功だ、距離27歩が適正」
老神官は、嬉々として記録する。
「聖騎士は有効、だが接触は不要」
冷たい結論がなされる。人の心は、数値に含まれない。
***
回廊の最奥で、レオンは遠い脈動を感じた。安定しているが、明らかに削れている。
(殿下……無理をしている)
削れているのは、加護だけではない。欲も、声も、感情も。均衡は保たれている。だがそれは――嵐の前に張りつめた、あまりにも静かな水面だった。




