第2章 離れないという嘘2
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足音が止まったのを、アシュレイは知っていた。
祈祷棟最上階の部屋は、夜になると風の音だけが残る。高窓の外で枝が擦れ、かすかな影が石壁を横切る。
扉一枚を隔てて、気配がある。しかも離れていない。それだけで、胸が軋む。
(――なぜだ)
来るなと言った。任務を果たせと言った。冷たく正しく理性的に――王族として、恥じぬ言葉を選んだはずだった。なのに、どうしてまだそこにいる。
「……任務、か」
低くなった声が、静かな室内に落ちる。あの誕生日の夜よりも、ずっと落ち着いた声。
レオンは、そう言った。任務だから離れないと。それでいい、それでいいはずだ。これは私情ではない。ただの義務、だから安心して突き放せる……そう思ったのに。
胸の奥が熱い。寝台の上に落ちた影がわずかに揺らぐだけで、紋様がじわりと浮かび上がり、黒がゆっくりと肌を這う。穢れが脈打つのが嫌でも分かった。
(抑えろ、何とか抑えなければいけない。感情に引きずられるな――)
私が「来るな」と言ったとき、本当は逆だった。そんなことを望む資格はない。だって私は器で、国の礎だ。誰かに縋っていい存在ではない。
「くっ……それでも――」
来てほしい、触れてほしい。あの夜のように、笑ってほしい。
――平気でしょう? あの時の石の寝台の冷たさ。差し出された温かい手と迷いのない笑顔。今よりずっと幼い顔なのに、あの夜の彼は強かった。
「……卑怯だ」
喉が震える。扉の向こうにいるだけで、安心してしまう。守られていると思ってしまう。そんな資格はないのに。
両手で寝台の縁をぎゅっと握りしめる。成長した指は、あの頃より骨ばっている。爪が白くなるくらい握っているのに、それでも震えは止まらない。
胸の紋様が濃くなるにつれ、黒が広がる。それだけで息が苦しくて心臓が軋む。
耳に聞こえてくる高窓の外の様子は、先ほどよりも風が強まったらしい。灯された魔導灯がかすかに揺れる。
(――いなくなれ、いなくなれば楽になる)
レオンがいなければ、こんなにも欲しくならない。こんなにも救われない。
目を閉じて願った瞬間、外の風の音に混じって、扉越しに微かな衣擦れの音が聞こえた。
動いた、まだ、近くにいる。そこから離れていない――それだけで荒れていた穢れが、波打ちながらもゆっくりと沈み始める。胸の熱がわずかに和らぎ、呼吸が随分と楽になる。
不意に、魔導灯の揺れが静まった。
「……ずるい」
涙が頬を伝う。一滴、二滴――石床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
いなくなれと願いながら、いなくならないことに救われている矛盾。それは己の弱さの証だけれど。
「……そばにいるな」
命令ではない。願いでもない。ただの本音。小さな声は、扉までは届かない。触れれば崩れる。だから触れない。それでも耳を澄ませる。向こう側の気配を確かめる。
レオンは監視者で、任務を果たしているだけ。でもいい、そこにいるのなら。
アシュレイは、ゆっくりと目を開けた。ずっと涙は止まらない。けれど、呼吸は穏やかになっている。穢れも、深く沈んでいく。
高窓の向こうで、夜風が静まる。扉一枚の触れられない距離。今夜は、それでいいと思ってしまった。




