第2章 離れないという嘘
祈祷棟の回廊は、夜になると音が消える。石床は昼の熱を失い、冷えきっている。魔導灯の淡い光が、長く伸びた影を揺らしていた。
かつて少年だった聖騎士は、今では鎧がよく似合う背丈になっている。レオンハルト・ヴァイス・グランディアは、扉の外に立っていた。
中にいるのは――アシュレイ・エヴァルド・ヴァレシア。12の誕生日の夜、穢れを引き受けた王子。あれから、いくつかの冬が過ぎた。
かつて守るべき王子。今は、国の厄災を封じる“器”。そして自分は、聖騎士であり監視役。
(――監視、か)
神殿で告げられた言葉が蘇る。
「加護は完全ではない」
「穢れは年を重ねるごとに濃くなる」
「近づきすぎるな」
「管理せよ」
管理――あの夜、決して使われなかった言葉。
小さな手が、震えながら伸びてきた夜。まだ声変わりも終えていない声で――平気でしょう? と、強がった夜。
レオンは目を閉じる。今、扉の向こうにいる彼の声は、もう低い。あの頃よりも、よく通る。それが、ひどく遠く感じられた。
扉越しに気配を探る。穢れの脈動。かつては荒れ狂う波のようだったそれは、今は深海の潮流のように重く、静かに沈んでいる。
以前より確実に強いが、暴れてはいない。
(――殿下は、耐えている)
叫ばず、縋らず。王にも運命にも、声を荒げない。
あの夜とは違う。もう泣かない。それが、いちばん痛い。
衣擦れの音がした。きっと気づいている、自分がここに立っていることを。だが、呼ばない。数年前なら、名を呼んだはずだ。「……レオン」と。
レオンは小さく息を吐く。
「……殿下」
声は、以前よりも低くなった。だが、胸の奥の衝動は変わらない。もちろん返事はない。ただ、穢れがわずかに揺れる。
(俺は監視者だ、感情で動くな――)
そう言い聞かせる。
だからこそ思い出す。あの夜の石の寝台。震える指先。触れても、と問いかけた時に見た驚きの瞳。守らなければと思ったのは、任務ではなかった。
扉にそっと手を当てる。木越しに伝わる熱は、昔より強い。だが、制御されている。それは努力の跡だ。
「……起きておられますか」
沈黙のあと、低い声が返る。
「当然だ」
あの頃より落ち着いた響き。王族としての理性をまとった声から、わずかな息の乱れをレオンは聞き逃さない。
「監視なら、扉越しで十分だろう」
告げられた理屈は正しい。
「穢れは強くなっている。お前の加護がいつまで保つか分からない」
かつては守られる側だった少年が、今は守ろうとしている。それが胸を締めつける。
「来るな」
短い拒絶。魔導灯がわずかに揺れ、影が歪む。
「私は、もう王子ではない」
静かな声が胸に響く。
「国の厄災だ」
違うと叫びたい衝動を、レオンは飲み込む。あの夜なら、扉を開けていた。だが今は、踏みとどまる。成長したのは、彼だけではない。
「……俺は監視者です」
あえて、その言葉を選ぶ。扉の向こうで、穢れがひときわ強く脈打つ。
「命じられています。離れるな、と」
嘘ではない。ただ、理由の半分しか言っていない。
しばらく沈黙が続く。やがて、かすかな笑いが聞こえてきた。
「そうか」
どこか諦めたような、乾いた口調が耳に落ちた。
「ならば、好きにしろ」
距離を築く音がしたその瞬間、穢れがわずかに波打つ。感情に呼応するように。
(――まだ、揺れている)
完全には、閉じていない。レオンは扉に額をつける。かつて少年だった自分には、できなかった距離。それでも――。
「……離れません」
静かに告げる。
「任務ですから」
本当は違う、あの夜の誓い。だがそれを言えば彼は、もっと遠ざかるのが分かる。
穢れはしばらく荒れ、やがて沈む。深い海の底のように。
回廊の灯りが、ゆっくりと弱まっていく。数年前は、同じ夜を越えるたびに震えていた。今は違う。立ち続けることを選んでいる。
扉一枚の距離。それでも、あの誕生日の夜から続く誓いは、まだ終わっていない。




