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後日談その3 平然の崩壊

 朝。王子の執務室。窓から差し込む光は穏やかで、何事もなかったかのように静かだ――外から見れば。


 アシュレイは、書類に目を落としている。背筋は伸び、姿勢は完璧。ペンを走らせる手も、淀みがない。


 いつも通りの王子――の、はずだった。


(……集中しろ)


 自分に言い聞かせるが、紙の上の文字が頭に入らない。理由は分かっている。


 昨夜、それ以上でもそれ以下でもない。


「……っ」


 ペン先が、わずかに止まる。


 思い出すな。そう命じても触れられた場所。離れなかった距離。抑えきれなかった熱。全部が鮮明すぎた。


(……本当に、やりすぎたな)


 珍しく、反省がよぎる。だが同時に後悔はない。まったく。


「殿下」


 目の前から声がかかる。書記官だ、反射的に顔を上げる。


「何だ」


 声は平静、問題ない。完璧に戻れている――。


「次の会議の資料ですが――」


 説明が続き、頷く。話を聞いて理解もしているが、ふとした拍子に椅子に座ったときの違和感が、身体をよぎる。


「……っ」


 一瞬だけ、言葉が止まる。


「殿下?」

「……続けろ」


 何とか繋ぐ。危ない、これは危ない。


(……顔に出ていないか)


 自分でも分かる。普段なら、絶対に起こらない揺らぎ。それでも何とか保つ。


 そのとき、扉が静かにノックされた。


「失礼いたします」


 聞き慣れた声に、反応が一拍遅れる。


「入れ」


 レオンが入ってくる。いつも通りの装い。いつも通りの歩幅――そして何事もなかったかのような顔。


(……おい)


 内心で、思わず突っ込む。


(――なぜだ。なぜそんなに、平然としていられる。あれだけのことがあって)


 レオンは書類を受け取り、机に置く。


「本日の護衛配置を報告します」


 声は安定していて、視線も揺れない。完璧だ――腹立たしいほどに。


「……ご苦労」


 アシュレイは短く返したものの、視線がほんの一瞬だけ逸れる。レオンの首元。わずかに見える、自分が残した痕跡。


(……見える位置だったか)


 それを意識した途端に、思考が飛ぶ。レオンは気づいていない――それとも気づいていて、何も言わないだけか。どちらにしても質が悪い。


「以上です」


 報告が終わる。本来なら、ここで退出するがレオンは動かない。


「……どうした」


 先に口を開いたのは、アシュレイだった。レオンが、ほんの僅かに視線を上げる。


 そしてごく小さく笑った――珍しく。


「いえ」


 短く、それだけ。その一瞬で確信する。


(……分かっているな)


 全部。この状況もこちらの状態も。そして昨夜の続きが、まだ終わっていないことも。


「……用がないなら下がれ」


 少しだけ強めに言う。余裕が削れている証拠だった。


「承知しました」


 礼をして背を向ける。そのまま扉へ向かう――直前で足が止まる。


「殿下」


 振り向かないまま、低く落ちる声。


「無理はなさらない方がいい」


 一瞬、言葉の意味を測りかねる。だがすぐに理解する――分かって言っている。


 アシュレイの眉が、ぴくりと動く。


「……誰のせいだ」


 小さく返す。レオンは、ほんの僅かに肩を揺らす。笑っている、確実に。


「心当たりがありません」


 平然と言い切る。


(……この男、昨夜はあれだけ理性を飛ばしておいて、朝はこれか――)


 怒るべきか、呆れるべきか――いや、どちらでもない。これはただの仕返しだ。


 アシュレイは息を吐く。そして静かに言う。


「……今夜、覚えていろ」


 短い宣戦布告。レオンが、わずかに振り向き、目が合う。その瞳の奥に確かな熱が戻る。


「望むところです」


 何の躊躇もない即答後、扉が閉まる。


 アシュレイは椅子に深く座り直し、額に手を当てる。


(……平然など、無理だな)


 苦く笑う。だがその表情は、どこか楽しそうだった。


***

 夜。約束通り、すべての公務は終わっている。アシュレイは私室に入ると同時に、ふっと息を吐いた。


(……今夜は、こちらが主導権だ)


 朝の一言。


『今夜、覚えていろ』


 あれは宣言だ。揺さぶられた分、揺さぶり返して均衡を取り戻す。そのつもりでいた――いたのに。


「お帰りなさい、殿下」


 先に声がして視線を上げる。そこに、レオンがいた。すでに待っていたように。


(……早いな)


 ほんの一瞬、違和感が走る。だがそれ以上にその立ち方。距離・視線――すべてが、妙に落ち着きすぎている。


「お前……随分と余裕だな」


 昼と同じ言葉を返す。今度は、こちらが試す番。レオンは静かに一礼する。


「準備しておりましたので」

「準備?」


 聞き返したその瞬間。カチ、と背後で小さな音がした。


 振り向く――扉が、閉まっている。いや違う。閉まった、ではない。閉められた。


(……外からではない)


 内側、つまりレオンが。慌てて視線を戻す。レオンが、ゆっくりと一歩踏み出す。逃げ場がない。物理的にではなく空気として。


 完全に、囲まれている。


「……これは」


 アシュレイが口を開くが、言葉が続かない。レオンが静かに言う。


「本日は、殿下の“ご命令”を優先いたします」


 低い声。その中にあるものは、昼とは違う明確な意志があった。


「耐えなくていい、と」


 その言葉で、一気に思い出す。昨夜、自分が与えた許可。そして――。


(……そういうことか)


 理解した瞬間、レオンの手が伸びてアシュレイの手首を取る。強くはない。だが逃げられない。


 距離が、一気に詰まる。


「……待て」


 制止の言葉を口にしたのに、レオンは止まらない。


「命令でしたので」


 淡々と答える。その目は、完全に熱を帯びていた。


「本日は、最後まで従います」


(……まずいな)


 主導権を取るはずだった。揺さぶるはずだった。なのに、完全に逆転している。しかも理屈で自分の言葉で、逃げ場を塞がれている状況に置かれてしまった。


「……ずるいぞ、それは!」


 アシュレイの呟きに、レオンはわずかに笑う。


「殿下に教わりました」


 返しが正確すぎる。そのままさらに一歩、距離が消える。背が壁に触れる。完全に退路はない。レオンに捕まっている。


「……っ」


 それだけで呼吸が乱れる。今度はアシュレイの上半身に、レオンの手がゆっくりと触れる。感じるように胸元に触れてから、指先がなぞるように下に降りていく。


 でもあえて焦らすように、いいところで止まった。


「……続けても?」


 アシュレイの耳元で低く問う。選択権を残しているようで実際には、もう答えは決まっていた。


 アシュレイは、わずかに息を吐く。


「……許す」


 短く返答したその瞬間、レオンの表情が変わる。完全に抑えていたものが、解放される。


 距離が消えて触れられる。今度は迷いがない――だが粗暴ではない。あくまで確実に、逃がさないように。


「……これが、“覚えていろ”の答えです」


 低く囁かれたことでアシュレイの耳元に息がかかり、思わずレオンの服を強く掴む。


「くそっ……想定外だ」


 息の合間に、かすれる声。レオンが、わずかに笑う。


「それは光栄です」


 完全に上を行かれた。主導権も流れも全部。でもそれが、悔しいかと言われれば。


「……悪くない」


 正直な感想を告げると、レオンの瞳が柔らかくなる。


 そのままさらに引き寄せる。もう遠慮はない。均衡は崩れた。崩れたままでもいい――この関係なら。


 逃げ場はない。だがそれは閉じ込められているのではなく、互いに離さないだけだった。

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