第1章 静かな穢れ
塔の最上階からは、神殿の庭がよく見えた。その景色に、穢れを纏う自分が属せないこともよく分かる。空は青くて風は穏やか。その下で人々は祈りを捧げている。
見下ろす景色の中に、ひとりの銀がある――レオンハルト・ヴァイス・グランディア。神殿直属の聖騎士。そして王子アシュレイが唯一、名前を呼ぶことを許された存在だった。
地上は遠いが、あの騎士の姿だけははっきりと見える。それだけで胸の奥で、静かに穢れが揺れる。
恐ろしい感情ではない。怒りでも、悲しみでもない。ただ何かを求めるような、静かな波。
アシュレイは知っている。それが自分の役目だと――。
第三王子という立場は、絶妙だった。王位継承の最前列ではないが、無視もできない。“何かを背負わせるにはちょうどいい”と、誰かが決めた立場。
だから、大切に育てられた。過不足なく丁寧に。
「あなたは、この国の希望ですから」
幼い頃から、そう言われてきた。意味は教えられなかったけれど、役目があることだけは知っていた。
目を閉じて振り返る、あれは12歳の誕生日だった。誕生日の庭は、陽光に満ちていた。白薔薇が咲き誇り、侍女たちが祝福の言葉を並べる。
その少し後ろに、少年が立っていた。レオンハルト、同じ日に生まれた子。“穢れを祓う聖騎士になる”と神殿が告げた存在。王子の護衛であり、世話係であり遊び相手。
「おめでとうございます、殿下」
硬い言葉を告げた口の端が上がり、王子を見つめる目は柔らかい。つられるように王子は笑う。
「レオンもだろう? 今日は」
レオンは、一瞬だけ口元を緩める。
「俺は、祝われる立場ではありません」
「うそだ。今日は半分、君の誕生日だ」
その無邪気さに、侍女たちは微笑む。
それまでは平穏だった、そのはずだった。レオンに声をかけようと口を開いた刹那、身体の内側が突然熱くなった。
「つっ!」
胸のあたりの違和感にシャツを開いてみたら、皮膚の下に黒い模様が浮かび上がり、細い亀裂のように脈打ちながら、どんどん広がっていく。
「いっ……!」
皮膚の下で、何かが這っていくにしたがって呼吸が浅くなり、肺が内側から圧迫された。見る間に、禍々しい紋様が広がる。それは祝福の庭に似つかわしくない、闇のようだった。
侍女たちの悲鳴が上がる。
「きゃああっ!」
花束が落ちて一人が後退り、二人目が走る。
「触れてはなりません!」
誰かが叫ぶ。これは穢れだ、と。
その悲鳴を聞きながら、王子は膝をつく。何が起きているのか分からない。だが分かることが一つある――これが、自分の役目だ。
(そうか、今日からなのだ――)
12の誕生日・祝福の日。そして“はじまりの日”。
視界の端で、皆が離れていく。誰も近づかない、誰も触れない。王子は一人になる。
その時、王子に向かってくる足音がした。レオンハルトが、迷いなく駆け寄る。
「レオン、来るな……!」
王子の叫びは悲鳴に近いものだったのに、レオンは止まらない。
「俺は殿下の騎士になります」
まだ正式な叙任も受けていない少年が、はっきりと言い切る。
「ならば、ここで退く理由はありません」
言いながら、王子の胸に触れるレオン。黒い紋様がレオンの手に侵食する。焼けるような痛みを伴う黒に、薄くて淡い光が覆う。それは、神に予言された加護だった。王子の皮膚に張り巡らされた穢れが、一瞬だけ揺らぐ。
レオンは王子の手を取った。それは熱くて人の体温ではなかった。国の罪の熱や怒り、嘆きと怨嗟。それがレオンの中に流れ込む。息は詰まるが、手を強く握って離さないように耐える。
「殿下……落ち着いてください」
震える声で、強く言いきる。
「俺はここにいます」
加護が強く脈打つと黒が薄れる。完全ではないものの、一時的に鎮まる。それだけで王子の呼吸が戻り、紋様の動きが鎮まった。
そして王子が目を開ける。涙に濡れた瞳。だがそこに浮かんだのは、恐怖ではない。
安堵と小さな笑みが、レオンの目に映る。
「……レオンハルト」
その声は、震えていた。
「怖く、なかった?」
レオンは、焼ける手を握り返す。
「殿下が一人になる方が、俺は怖いです」
王子は泣きながら笑った。その笑顔が祝福の庭に落ちた、唯一の光だった。
その日から、王子は“器”になった。そしてレオンは、常に傍らに立つようになる。触れられるのは、神に選ばれた聖騎士の彼だけ。近づけるのも彼のみ。呪いが暴れれば、彼が鎮める。
それは浄化ではない。ただ押さえ込むことと痛みを減らすだけなのに、それでも王子は笑う。
「ありがとう」
何度も笑いながら礼を言う。その笑顔が、レオンの胸に残った。
祝福の庭で見た笑顔。あの日、孤独の中で咲いた笑顔が、彼の原点になる。




