第4章 求めるということ 4
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深夜。規定距離の100歩の距離で、現在は接触禁止時間だった。当然、記録監視強化中。すべて整っているはずだった。だが、レオンは眠れなかった。胸の奥が熱いせいで。
殿下……いやアシュレイを思い出すたびに、鼓動が強くなる。あの穏やかな瞳、柔らかな唇の感触、抱きしめた時の温もり――すべてが、心を甘く溶かす。穢れを安定させるための接触だったはずなのに、今はただ、彼の存在が恋しくてたまらない。
聖騎士として守るべき対象ではなく、愛おしい一人の人として求めずにはいられなかった。
あの問い――「私が、お前を求めたら」あれは確認ではない。きっと告白だ、自分も同じだと。
もう誤魔化せない。優しく微笑みながら見つめるアシュレイの眼差し、耳元で囁かれた言葉が、胸を甘く締めつける。任務を超えたこの感情――純粋な愛の炎が、レオンの中で静かに燃え広がる。
「……俺は」
聖騎士ではなく一人の男として、アシュレイを求めている。彼の傍にいたい、触れたい、永遠に守りたい。その想いが、理性の壁を穏やかに溶かしていく。
一歩――理性が止める前に、足が自然と前に出た。もう止まれない、理性より先に100歩の距離を越える。監視結界がわずかに震え、警告灯が淡く灯る。だが止まらない。アシュレイの顔を思い浮かべるだけで、心が急いて駆り立てられる。
同じ頃、王子の私室。アシュレイもまた、立ち上がっていた。不思議と、穢れは静かだった。あえて意図的に抑えている。今日は呼ばない。脅さない。ただ――会いに行くために扉をそっと開ける。
回廊から足音が聞こえた。それに導かれるように角を曲がった瞬間、その人と目が合う。そこに、レオンがいた。100歩を越えて、互いに同じことを考えていた。
数秒、何も言わない。穢れは揺れない。水盤も反応しない。これは安定のためではない。
「……殿下」
「アシュレイだ」
小さく訂正しただけで、レオンの喉が鳴る。心が揺さぶられるように震えた。
「今だけ……夜だけは、名前で呼んでほしい」
「……アシュレイ」
初めて呼ぶ名だった。レオンがその名を呼ぶだけで、アシュレイの胸が温かく満ちる。
互いに距離を詰める。今度はゆっくり。27歩から10歩。そして目の前へ。触れる前に、視線が絡む。穏やかで甘く、ふたりの想いが交錯する。
「俺は――」
低く、震えない声でレオンが告げた。
「あなたを求めている」
任務ではない。責任でもない。アシュレイを愛する選択。それは自分の心を捧げる選択だった。
アシュレイの瞳が柔らかくなる。
「私もだ」
手が伸びる。今度は同時に抱きしめ合った。穢れは反応しない。波形は安定していたが、ふたりの呼吸は乱れている。
レオンの胸にアシュレイの体温が染み込み、心が甘く溶け合う。この瞬間、すべてが完璧だった。愛おしい温もり、穏やかな息遣い――恋の喜びが、ふたりの胸を穏やかに満たす。これは制御ではない、恋だ。穢れを超えた、純粋な恋。
そしてその瞬間。地下の監視水盤に、別の反応が出る。
「感情波動増幅を検知」
神官が顔を上げる。
「穢れではない……これは別の波長?」
老神官が水盤を見ながら思考する。
「やはり――」
そして、確信した呟きで告げた。
「聖騎士の情動が媒介化している」
これは依存ではない。相互感情であり、制御不能のもの。
「実験を前倒しする」
静かな決定がすぐさま下された。
「感情抑制術の適用対象を、聖騎士に!」
老神官の命令で、地下の空気が一瞬にして凍る。
「……強制施術ですか」
「必要だ」
老神官が冷たい声で命じた。
「王子が制御不能になる前に、何としてでも情を断つ」
地下の祭壇に、準備が始まる。封印陣と精神干渉式。感情の振幅を削る術式。対象――聖騎士レオンハルト・ヴァイス・グランディア。
その頃、回廊の闇の中。レオンがアシュレイの額に触れる。
「後悔していない」
レオンは甘く囁く。アシュレイの肌の柔らかさ、甘い香りがレオンの心を穏やかに包む。この瞬間を永遠に味わいたいたくて、アシュレイも答える。
「私もだ」
二人はまだ知らない。この“自覚”が、神殿にとって最も危険な兆候だということを。夜の回廊、100歩を越えた場所。誰もいないはずの闇の中。アシュレイの指が、レオンの頰に触れていた。
「レオン」
呼ぶ声が柔らかい。心が穏やかに響く。レオンの手が、彼の腰を引き寄せた。今度は迷いがない。任務ではない。責任でもない。ただ――欲しい。アシュレイのすべてを、深く愛したい。
ゆっくり唇が重なる。最初は確かめるように。穏やかな触れ合いから次第に深く。甘く、熱く。呼吸が絡み、体温が混ざる。
レオンの心が、甘い喜びに満ちる。アシュレイの唇の柔らかさ、穏やかな味が恋の炎をさらに燃やす。穢れは揺れない。水盤は安定したまま。レオンの手が、アシュレイの背を強く抱き締める。
「……離したくない」
掠れた声。初めて、剥き出しの本音をレオンは告げた。アシュレイを永遠に抱きしめていたい、この温もりを失いたくない――甘い想いが、言葉に溢れる。それだけで、アシュレイの心臓が跳ねる。
「私もお前を離したくない」
言葉と同時に、もう一度、強く口付ける。互いの恋心が甘く溶け合う。その瞬間、地下祭壇で封印陣が起動する。老神官が低く詠唱する。
「情動振幅、遮断。精神干渉、開始!」
水盤が、別の波形を描く。それは聖騎士の精神波。魔法陣が光り輝いて干渉した刹那、レオンの背筋が凍りついた。びくりと大きく体が震える。
「……っ」
その反動で唇が離れたことにより、アシュレイが目を見開いた。
「レオン?」
レオンの頭の奥に、冷たい何かが侵入する。それは感情の熱に、水を浴びせるような感覚だった。
「干渉成功」
地下で声が響く。術式がレオンの精神に絡みつく。愛おしい。求めたい。守りたい。その振幅が、強制的に削られる。記憶は消えないが、心に灯った“熱”だけが無情にも奪われる。
見る間に、レオンの瞳から光が引く。しかも、ほんの一瞬で。アシュレイを抱いていた腕の力が緩む。
「……殿下」
声が平坦になる。明らかに、さっきまでの温度がなかった。突然すぎる異変に、アシュレイの胸が凍る。
「どうした?」
問いかけるとレオンはまっすぐ立ち、距離を一歩取る。それは神殿に命令された規定通りだった。
「今は、接触時間外です」
淡々と、機械のように告げる。
「私に触れていたのは、お前だろう」
震える声を聞いても、レオンは瞬きすら少ない。
「規定違反でした。以後、遵守します」
地下で神官が安堵する。
「情動振幅、基準値以下。精神干渉成功です」
アシュレイは理解する。これは穢れの影響ではなく、自分のせいでもない。間違いなく神殿に奪われた。
「レオン」
一歩近づくが、彼は反応しない。
「私を求めると言ったじゃないか」
切実に問いかけても、レオンは真顔で口を開く。
「記録にありません」
その言葉が、刃になった。その刃で胸を刺されたせいで、アシュレイの喉が詰まる。
目の前にいるのは、レオンハルト・ヴァイス・グランディア。姿も声も同じ。だが“灯”がない。抱き締めたときの熱も。離れたくないと言った震えさえも、全て消えている。
「……返せ」
小さな声を発したら、穢れが揺れた。怒りで地下水盤がざわついたのに、レオンはなぜか動じない。彼の感情が削がれている。それは聖騎士として、最適化された状態。完璧な盾で完璧な装置と化した。
目の前の状況に、アシュレイの拳がぶるぶる震える。
これは心の殺害だと思った刹那、レオンがその場で静かに膝をつく。
「王子殿下」
その呼称が決定的だった。夜だけの名も互いに呼び合った温度も、今この瞬間切断された。地下で老神官が告げる。
「これで王子は安定する。情動依存は排除された」
だが彼らは知らない。穢れは制御できても失った怒りは、制御できない。アシュレイの瞳が、ゆっくりと黒く染まる。今、初めて神殿を滅ぼしたいと、強く思った。




