第3章 27歩の外側 4
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神殿はあれから、レオンハルトとアシュレイの分離距離100歩を厳格に維持した。地下水盤は緩やかに波打っていることに、老神官は安堵する。
「依存度、減少傾向」
「距離拡大は有効です」
適宜に告げられる観測結果に、老神官は満足げに頷く。
100歩の距離――それは、王太子と聖騎士の心を切り離すための処置だった。穢れは感情に呼応する。ならば感情を遠ざければいい。
神殿の理屈は単純だった。だが彼らは知らない。王太子の私室で、アシュレイがひとり静かに目を閉じていることを。
窓からは王都の夜景が見える。灯火の連なりが、静かな海のように揺れていた。
(……穢れは制御できる)
ゆっくり息を吸い、深く吐く。身体の中に渦巻く黒を、アシュレイは強く意識した。
(こうして丁寧に呼吸を整え、思考をどんどん沈めればいい――)
そうすれば穢れは静まる。そして――。
(――レオンを思い出さなければ……)
胸の奥が、嫌な感じで軋んだ。鎖で厳重に繋がれ、切ない表情でここから連れられた彼の姿が浮かびかけるのを、アシュレイは無理やり押し込める。
神殿が奪った。彼を罰という名目で。
「……神殿が彼を、安全装置扱いするのなら」
それは静かな声だった。感情は抑え込まれている。その奥には、確かな意志があった。
アシュレイは、ゆっくりと目を開く。そして胸の奥に沈めていた黒へ、先ほどよりも強い意識を向けた。
穢れは王の感情に呼応し、地下深く眠るものや、外の世界に影響を及ぼす力を持っている。だからこそ、これまでは必死に抑えてきた。だが今、アシュレイは自分の内側にある蓋を――ほんの少しだけ外す。
黒が外に滲む次の瞬間、地下水盤の水面が激しく揺れた。
「波形上昇!」
地下にいる神官の声が響く。アシュレイはさらに解放するために、胸の奥にある蓋を少しずつ開いていった。そこから黒が滲み出て、窓から穢れが飛び出していく。そのせいで王城の空気が重くなり、遠くで悲鳴が上がりはじめた。
燭台の火が揺らぎ、庭園に咲き乱れていた花が瞬く間に萎れる。王都の上空を覆っていた夜空が、ゆっくりと曇りはじめた。
瞬いていた星が消え、空が黒く沈む。穢れは王の感情に呼応し、人々に不安と苦痛を与える。
それは災厄だった。だが暴走ではない。アシュレイは冷静だった。これは意図的な拡散であり、神殿への明確な反抗を示す。
「王太子殿下、どうか制御を!」
扉の向こうで神官が叫ぶ。アシュレイはゆっくりと振り返った。瞳の奥が、深い黒に澱んでいる。
「私は、制御“しない”と決めただけだ」
淡々と答えるのみ。地下にある水盤が警報を鳴らすと、祈祷棟全体に響き渡った。減衰率ゼロ、増幅率がさらに急上昇していく。
「埒が明かない。聖騎士を呼べ!」
慌てふためいた老神官の声が震える。
「拘束中でも構わぬ! このままでは王都に影響が出る!」
だが既に王都では、影響が出ていた。城壁の上で兵が膝をつき、市井で人々が悪寒に震える。穢れは広がっていくが、ごく一部のみで暴走ではない。そこに理性はあった。
制御を願う神官の声を無視したアシュレイは立ち上がり、窓を開ける。部屋の中に重い風が吹き込む。
「……レオン」
小さく、しかし確かに呼ぶ。それは祈りではない。命令でもない。ただ、彼を求める声が室内に落ちた。
地下牢で鎖に繋がれたレオンが、ハッとして顔を上げる。胸が熱を帯び、穢れの波動が皮膚を刺す。
「……殿下」
彼は理解する。これは事故ではない、意図的だということを。
地下牢に、焦った表情の神官が駆け込む。
「聖騎士レオンハルト! 即時出動! 王都への被害が拡大している!」
レオンの鎖がすぐに解かれたことで、急いで立ち上がる。そして地下牢から一目散に祈禱棟の最上階を目指した。階段を駆け上がるたび、穢れの圧が強くなる。
やって来る聖騎士を招き入れるため、私室の扉が破られる。室内に満ちた濃い穢れに、神官たちが膝をつく。アシュレイの周囲で黒が渦を巻くが、中心は静かだった。
神官たちが呻き苦しむ中、足音が近づいてレオンが現れる。アシュレイの視線が彼を捉えた瞬間、穢れが揺らぐ。
穢れを纏うアシュレイにレオンが手を伸ばして触れ、自身が穢れに汚染されるのもかまわず、ぎゅっと抱き締める。それだけで、穢れが崩れるように沈静した。
瞬く間に夜空が晴れ渡り、遠くの悲鳴が止む。けたたましく鳴り響いていた警報が止み、水盤が安定を示す。そのことに神官たちは、安堵で沈黙する。
数字が証明している。分離は失敗だった。これは依存ではなく、王太子には聖騎士が必要だということを。
アシュレイはレオンの胸元で、静かに言う。
「……私は国を脅した。レオン、あなたを呼ぶために」
レオンは腕の力を強くする。
「俺は来る、殿下が呼べば何度でも」
神官たちの間に、さらに沈黙が落ちる。
王太子は穢れを制御することができるのに、あえてしなかった。それは意思であり、彼の持つ力だった。
そしてそれは、神殿への明確な警告だった。




