第9話:騎士の休息と、聖域の晩餐
死の森を抜けた先に広がる豊村の、さらに奥まった場所。そこには、ロルフが等価交換によって毒素を浄化し、地熱を安定させた「村の温泉」があった。
「――っ、おお……あああ……っ!」
湯船に浸かった瞬間、アルベルトは野太い声を漏らし、天を仰いだ。それは単なる熱さへの反応ではない。お湯に触れた瞬間、全身の細胞が歓喜の叫びを上げているような、暴力的なまでの「癒やし」が彼を襲ったのだ。
「隊長……これ、おかしいですよ。体が、軽すぎます」
部下の騎士たちも、呆然とした顔で自分の手足を見つめている。特にアルベルトの衝撃は、他の比ではなかった。彼の右肩には、かつて王都防衛戦で受けた呪詛攻撃の後遺症――魔力が常に漏れ出し、冬場にはナイフで抉られるような痛みを伴う「古傷」があった。王都の聖法師たちが数年かけても「一生付き合うしかない」と匙を投げたその部位が、今、劇的な変化を起こしていた。
「馬鹿な……痛みが消えた?それだけじゃない。強固に固着していた魔力のしこりが、雪解けのように溶けていく……!」
アルベルトが右肩を回すと、数年ぶりに、何の引っ掛かりもなく腕が上がった。ただの温泉ではない。ロルフが等価交換によって「毒」を「高密度の浄化エネルギー」に書き換えたこの湯は、王都の最高級ポーションを薄めて浴びるよりも、はるかに高い治療効果を持っていた。
「……あり得ん。王宮の最高級治癒魔法でさえ、この古傷には届かなかったのだぞ。それを、この男は……村人の『風呂』として提供しているというのか」
アルベルトは、湯気に煙る天井を見つめ、戦慄した。彼らが命懸けで守ってきた王都の権威や技術が、この辺境の村の「日常」に、完膚なきまでに敗北したことを、その体が何よりも雄弁に語っていた。
温泉で身も心もほぐされたアルベルトたちが案内されたのは、ロルフの家の広々としたリビングだった。そこには、食欲をそそる香ばしい匂いと、色鮮やかな料理が並んでいた。
「お待たせしました。今日はお客様がいるので、シオン君が張り切って腕を振るったんですよ」
リゼットがにこやかに大皿を運んでくる。その様子は、まるで自慢の兄(あるいは婚約者)を誇る妹のように誇らしげだ。
「……別に。旦那様が『おもてなしを』と言ったから、その通りにしただけです」
シオンは少しツンとした態度で、けれど完璧な手際で料理を並べていく。出されたのは、あの「肥料」に変わった魔獣の魔力残滓から育った黄金野菜のグリルや、毒素を旨味に変換した特製スープだ。
アルベルトが一口、スープを口に運んだ。その瞬間、彼の背筋に電撃が走った。
「ッ――!?」
言葉が出なかった。ただのスープではない。口に含んだ瞬間に、王都では嗅いだこともない芳醇な香りが鼻を抜け、喉を通った瞬間に、温泉で浄化された体に新たな活力が爆発的に充填されていく。
「な……なんだ、これは。王宮晩餐会のスープよりも味が濃く、それでいて魔力の不純物が一切ない。これ一杯で、魔導師の一日分の魔力が回復してしまうのではないか!?」
「あ、それ美味しいですよね。シオン君の作るご飯を食べ始めてから、私、全然疲れなくなったんです!」
リゼットが、自慢げに胸を張る。シオンは、アルベルトたちの驚きぶりを横目で見ながら、ロルフの隣にちょこんと座った。
「……旦那様。あの方たち、あまりにも美味しそうに食べるので、少し作りすぎちゃいましたか?」
「いや、いいことだよ、シオン。……アルベルトさん、遠慮せずに食べてください。都では今、まともな食事が難しいんでしょう?」
ロルフの穏やかな言葉に、アルベルトは不意に視界が滲むのを感じた。王都では、貴族たちが少ない物資を奪い合い、虚勢を張って「まだ大丈夫だ」と嘘をつき続けている。しかし、この辺境の地では、かつて無能と蔑まれた男が、神のような少年と心優しい少女と共に、真の豊かさを享受している。
「……ロルフ殿。情けない話だが、我々はこの数年、何を信じて剣を振るってきたのか分からなくなった。……あんたの創り出したこの『日常』こそが、我々が守るべきだった理想だ」
アルベルトは、溢れる涙を拭おうともせず、無心に料理を口に運び続けた。部下たちもまた、言葉を失い、ただひたすらに「本物の豊かさ」を噛み締めていた。
深夜。アルベルトは、ガラムから借りた通信用の魔導具を使い、王都のメビウス監査官へ緊急通信を繋いだ。
「――アルベルトか。ロルフの確保状況はどうだ。無理やりでも連れてくる準備は整っているか」
メビウスの冷徹な声が響く。だが、アルベルトの返答は、メビウスの予想を遥かに超えるものだった。
「監査官閣下……不可能です。彼を『連れ戻す』など、今の王都にはその資格すらありません」
「……何だと? Aランクの君がいて、失敗したというのか」
「戦いにすらなっていません。……閣下、ロルフ殿は、我々が全滅を覚悟したカラミティ・ベアを一瞬で『肥料』に変えました。そして彼の創った村では、王都の最高技術を嘲笑うかのような奇跡が、日常として溢れています。……我々の古傷を治したのは、彼の淹れたお茶と、ただの温泉です」
通信の向こうで、メビウスが絶句するのが伝わってきた。
「……君は、何を言っている」
「ありのままを報告しています。閣下、公式に『謝罪と懇願』の準備を。バルトロ主任のような小物を庇っている場合ではありません。今すぐ、国として最上級の礼を以て彼を迎えなければ……王都は、本当に終わります」
通信を切ったアルベルトは、窓の外に広がる豊村の静かな夜景を眺めた。そこには、王都が失って久しい、確かな安らぎがあった。
一方、その頃の王都。バルトロは、ロルフがガラムに渡した『金冠草』の残り香を頼りに、自室で必死に偽造工作を行っていた。
「ひひっ……。これをすり潰して、私が保管していた秘蔵の霊水と混ぜれば……私だけの新薬『バルトロ・ソリューション』の完成だ! これさえあれば、あの監査官も黙るしかあるまい!」
バルトロは、ロルフが編み出した高度な術式の意味をこれっぽっちも理解していなかった。彼はただ、黄金に輝くその葉を見て「見た目が派手な珍しい草」程度にしか考えていなかったのだ。彼は私財を投じて買い占めた錬金器具を使い、強引に薬草からエキスを抽出しようとした。
しかし、ロルフの【等価交換】が施された植物は、雑な抽出作業に耐えられるほど単純ではない。ロルフの術式は、緻密な魔力の循環によって成り立っている。バルトロが強欲に任せて魔力を注ぎ込み、力任せに煮出した瞬間――その繊細なバランスが崩壊した。
「ぬっ、なんだ……? 香りが……」
先ほどまで芳醇だった香りが、一瞬にして「腐ったドブ川」のような悪臭へと変貌した。黄金色だった液体は、ドロドロとした不気味な黒い泥へと成り果て、バルトロの高級な錬金釜を内側から腐食させていく。
「な、なぜだ!? 私の魔力は完璧だったはずだ! ……そうだ、この草が不良品だったのだ! あの無能め、最後まで私に嫌がらせを……!」
バルトロは、自分の技術不足を棚に上げ、再びロルフを呪った。だが、時すでに遅し。彼が「成功」を焦って周囲に豪語していたせいで、翌朝にはメビウス監査官の立ち合いのもと、この「新薬」を陛下へ披露する場が設けられていた。
手元に残ったのは、見るも無惨な黒い泥と、部屋中に充満した耐え難い悪臭だけ。バルトロが嘘で塗り固めてきた地位は、明日、全王宮の貴族たちの前で、この「泥」とともに無残に陳腐化し、崩れ落ちることになる。
王都を包む夜は、かつてないほど重苦しく、そしてバルトロにとって死刑宣告のような静寂に包まれていた。




