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白い野原は、足りないものを欲しがっている

 白い壁の脈が鈍っているあいだだけだ、とロルフは思っていた。


 床に残っていた黒い粉を使い、古い文様へ毒を通し、白い流れの噛みつきを鈍らせた。やれたこと自体は大きい。だが、あれで終わるはずがないことくらい、土に手を入れればすぐわかる。止まっているように見えるのは表面だけで、奥ではまだ、重く湿った拍が打っている。


 生き物の鼓動に似ていて、けれど生き物のものとは思えない拍だった。


 ひとつ、遅れて。

 ひとつ、欲しがるように。


 狭い小部屋の空気は、ひどく冷えていた。さっきまで白い壁の圧に押されていたせいか、皆の吐く息まで白く見える。石の灯りの下で、シオンが浅く息を整えていた。指先はまだ冷たそうだったが、顔色は少し戻っている。


 ロルフは壁際の土をしゃがんで掬った。白い。乾いているようでいて、指の腹にまとわりつく嫌な感触がある。畑の乾きとは違う。水を失った土ではなく、巡りを失った土だ。


「……旦那様」


 呼ばれて振り向くと、シオンがこちらを見ていた。薄い紫の瞳に、まだ疲れが残っている。


「無理は、なさらないでください」 「お互いさまだろ」


 ロルフがそう言うと、シオンは少しだけ眉を下げた。止めたいが止めても無駄だと、もう知っている顔だった。


 フィンが地脈計を覗き込みながら、低く言う。


「白い壁そのものは弱っています。ただ、消えてはいません。向こう側から押し返す圧が、まだある」 「押し返す、ですか」 「ああ。止めたというより……詰まらせた、に近いな」


 カッサンが護符を確認しながら視線を上げる。


「つまり、長くは保たないと」 「そういうことだな」


 ロルフは立ち上がり、鍬の柄尻で白い壁の手前を軽く叩いた。乾いた音が返る。土の音ではない。壁のように見えて、その実、流れの塊だ。地脈の上澄みだけを無理やり固めて、道を塞いでいるような、気味の悪い感触。


 大司教が白い壁を見つめたまま、静かに息を吐いた。


「この先に、“白い野原”があるのですね」 「シオンがそう言ったんだろ」 「はい」


 大司教はすぐには返さず、壁越しの何かを見ようとするように目を細めた。光を扱う者らしい目だった。だが、ロルフにはその横顔が少しだけ頼りなく見えた。癒しの側の力では、この先にあるものを測りきれない。本人も、それを理解し始めているのだろう。


「行くぞ」 「旦那様」 「止めても行く」 「……はい」


 シオンは小さくうなずいた。反対したいのではない。確認したかっただけだ。自分も置いていくな、と。


 ロルフは壁際へ寄り、黒い粉が沈み込んだ古い文様をもう一度見た。さっき通した毒の巡りは、まだ細く残っている。これが切れる前に抜けるしかない。


「フィン、向こう側の流れは読めるか」 「細いが、ひと筋だけ。白くない線がある」 「道になるな」 「たぶんな」 「カッサン、お前の護符は」 「外縁を払う程度なら。長くはもちません」 「十分だ。大司教はシオンを見てろ。こいつが引かれたらすぐ声を出せ」 「承知しました」


 ロルフは鍬を握り直し、白い壁へ先端を差し込んだ。


 ぐ、と嫌な抵抗が返る。土を割るときの気持ちよさがない。繊維を断つでも石を砕くでもなく、ぬめった膜を押し分ける感触だけが手に残る。鍬を引くと、白い筋が何本もぬるりと持ち上がり、すぐに切れずに戻ろうとした。


「気色悪いな」 「旦那様、右です」 「わかってる」


 シオンの声に合わせ、ロルフは右側の白い筋の根元を打つ。そこだけ、わずかに黒い粒が混じっていた。古い毒の名残が効いているのか、白い膜が一瞬だけ縮む。


 その隙にフィンが前へ出て、地脈計をかざした。


「今だ、ロルフ! その下に空間がある!」 「よし」


 鍬をねじ込み、抉る。膜が裂けた。


 白い冷気が、向こう側からどっと流れ込んできた。


 空気が変わる。部屋の冷たさとは質が違う。もっと広い場所の冷えだ。風がないのに、ただ温度だけが抜け落ちている。


 裂け目の向こうを見て、ロルフは無意識に目を細めた。


 野原だった。


 本当に野原と呼ぶしかない空間が、地下の奥に広がっていた。


 天井は高い。いや、高いというより、遠い。暗いはずの地下なのに、全体がぼんやり白んでいて、何もない空を見上げているように錯覚する。地面は一面、白い。草はない。石も少ない。土のはずなのに、土の色がほとんど死んでいる。


 その白のなかを、一本だけ、黒ずんだ筋が走っていた。


 畦に似ていた。踏み固められた細道のようでもある。白い面がその筋だけを避けるように割れており、かろうじて土の呼吸が残っている。


「……これが」  フィンが呟いた。 「白い野原」


 シオンが一歩、裂け目の前へ出る。誰も止めるより早く、彼はその空間を見つめたまま、かすかに息をのんだ。


「ここ、です」 「何がある」 「……残っています」


 シオンの声は震えていた。怯えではない。もっと近いものに触れたときの震えだ。泣く寸前のようでもあり、懐かしいものを見つけたときのようでもある。


「ヴェルン様の……祈りが」


 ロルフは何も言わず、先に裂け目をくぐった。足裏が白い土に乗った瞬間、ぞわりと鳥肌が立つ。軽い。あまりにも軽い。作物の育たない痩せ地でも、もっと重さはある。ここには、土が土でいるための当たり前が、ごっそり抜け落ちていた。


 それでも、黒ずんだ細道の上だけは違う。薄いが、かすかに湿りがある。誰かが踏みしめ、残した道だ。


 ロルフはしゃがみ込み、その筋の土を指で押した。細かな砂に混じって、黒い粒がある。古い毒の匂い。70話で床に残っていたものと同じだ。薄いが、確かに続いている。


「道だな」 「はい」  シオンがそっと答える。 「逃げ道じゃありません。……通すための道です」 「何を」 「まだ、うまく言えません」


 うまく言えないのではなく、言葉にして壊したくないのだろうとロルフは思った。ここで感じているものは、たぶん記録に書ける類のものではない。


 後ろから大司教とカッサンが入り、最後にフィンが裂け目の様子を確かめてきた。


「閉じる速度は遅い。だが戻り始めてる」 「帰り道がなくなる前に、見るもん見とくぞ」 「相変わらず容赦ないな」 「畑仕事は天気待ってくれないからな」 「今は畑じゃない」 「土があるなら同じだろ」


 そう返して、ロルフは歩き出した。


 白い野原は静かだった。風の音も虫の音もない。ただ、遠くから重い拍だけが届く。ひとつ。ひとつ。遅れて。足りないものを数えるような鼓動。


 黒い道の両脇では、白い筋が草の根のように浮いては沈み、こちらを窺っている。飛びかかってはこない。だが、近づけば触れたがっているのがわかる。


 シオンの肩がぴくりと震えた。


「来るか」 「……見ています」 「何が」 「白いものが、です」


 シオンは前を見たまま、胸元を押さえた。


「前みたいに、奪う感じだけじゃありません。……待っていた、みたいな」 「待ってた?」 「はい。ずっと、足りなくて。だから、同じものを探しているような」


 ロルフは眉をひそめた。白いものは、これまでずっと噛みつき、奪い、引き抜く側として現れていた。だが、今シオンが口にしたのは、もっと空っぽな響きだった。


 欲している。

 奪うためではなく、埋めるために。


 そのとき、道の先で白い土がわずかに盛り上がった。


 全員が足を止める。盛り上がりは小さい。人ひとりが膝を抱えている程度の高さだ。けれどその周囲だけ、白い面に薄く円が刻まれている。踏み荒らされた跡ではない。祈りの場に残る、繰り返しの痕に見えた。


 ロルフは近づき、膝をつく。


 盛り上がりの根元に、石が半分埋もれていた。自然石ではない。面がある。削られている。表面には、すり減った線が残っていた。


 カッサンが息をのむ。


「石碑……でしょうか」 「読めるか」 「近くで見ます」


 彼は白布で表面をそっと払った。こびりついていた白い粉が落ち、下から細い刻みが浮かぶ。だが、文字はひどく削れていた。辛うじて読めるのは、断片だけだ。


「……“ふたつは……ひとつの巡り”」  カッサンは目を凝らしながら、途切れ途切れに拾う。 「“癒しのみでは……留まり”……その次は、欠けています。“毒のみでは……枯れる”」 「続きは」 「“混ざり、還り、めぐるとき……傷は、門ではなくなる”」


 大司教が小さく息を止めた。


 ロルフも石碑を見たまま、胸の奥がざらつくのを感じた。門。今まで地脈の裂け、白い壁、白い野原と見てきたものは、ただ壊れているのではなく、どこかへ通じる門になっているのかもしれない。半端に裂かれたせいで、閉じるべき傷が、開いたまま機能している。


「旦那様」


 シオンが石碑の前へ進み出る。その声は、さっきよりもずっと静かだった。


「触っても、いいですか」 「聞くな。触りたいなら触れ」 「……はい」


 白い手が、擦り減った石へそっと伸びた。


 触れた瞬間、シオンの肩が跳ねた。だが苦鳴は漏れない。代わりに、彼は目を見開いたまま、遠くを見るような顔になった。


「シオン」 「……あ」


 唇が、かすかに動く。


「土が、あたたかい」 「何が見える」 「見えるというより……残って、います」


 シオンの足元の黒い道が、じわりと濃くなった。土の奥に沈んでいた黒い粒が、呼吸を取り戻すように浮かび上がる。白い野原のなかで、その一点だけが生きた色を持った。


「ヴェルン様は、封じようとしたんじゃない」 「……何」 「遅らせて、待っていたんです」


 シオンの頬を、一筋、涙が滑った。


「返ってくるものを」


 重い沈黙が落ちた。


 フィンが地脈計を見たまま、唇を引き結ぶ。


「流れが変わってる。黒い線の下だけ、細く回り始めた」 「回る?」 「さっきまで一方通行だった。今は、少しだけ戻る線がある」 「毒のせいか」 「それもある。たぶん、シオンが触れたせいだ」


 白い野原の奥で、さわ、と面が揺れた。


 風はない。なのに白い土だけが波打つ。見れば、何本もの白い筋がこちらへ向かって伸びてくるところだった。だが、その動きは今までとは違った。噛みつくような鋭さがない。土中を探る根のように、おずおずと、確かめるように近づいてくる。


 大司教が一歩前へ出て、光を灯しかける。


「下がってください、シオン殿」 「待て」


 ロルフは手で制した。


「まだ撃つな」 「しかし」 「見ろ」


 白い筋は、黒い道の縁で止まっていた。乗り越えられないのではない。乗り越え方がわからないように、そこで揺れている。まるで、欲しい水の前まで来て、飲み方を忘れた苗みたいだった。


 ロルフは立ち上がり、鍬の先で白い縁を浅く掘った。白の下から、灰色を通り越して、くすんだ褐色の土が出る。まだ死んでいない層だ。そこへ、指先で黒い粒を落とす。古い毒の残りを、ほんの少しだけ混ぜる。


 すると白い筋が一斉に寄った。


 だが、飛びつくのではなく、戸惑いながら縁に集まり、そこで震えた。


「……やっぱりか」


 ロルフは低く言った。


「こいつら、毒を嫌ってるんじゃない。足りねえんだ」 「旦那様」 「半分しかねえ流れが、もう半分を欲しがってる」


 シオンが息をのむのがわかった。


 それは、これまでの理解を少し変える言葉だった。白いものは、シオンの毒を排するために奪うのではない。欠けたまま巡れないから、同じものを、失った半身を、乱暴に掴みにくる。


 だから噛む。

 だから引き抜く。

 だから壊す。


 受け取り方を、知らないまま。


 野原の奥で、どん、と一度、鼓動が大きく鳴った。


 白い面がたわむ。遠くの地平――地下なのにそんなふうにしか見えない奥の白――に、人の背丈ほどの縦の亀裂が浮かんだ。裂け目ではない。入口だ。白い壁のさらに向こう、もっと深いところへ通じる筋道が、鼓動に合わせて明滅している。


 フィンが叫ぶ。


「本流だ! あれが中心に続いてる!」 「門、ですか……」  カッサンが呟く。 「さきほどの石碑の文と合う」


 大司教は苦い顔で祈りの印を切った。


「傷を門にしてしまった……そういうことなのですね」 「だったら閉じ方もあるだろ」 「癒しだけでは閉じられない、と石碑は言っています」 「見りゃわかる」


 ロルフは白い亀裂を睨んだ。土の理屈で考えれば単純だった。乾いた畑に水だけやっても駄目なときがある。土の中に、生きて戻るためのものが揃っていなければ、水はただ流れて腐る。ここの白も同じだ。癒しだけ、清さだけ、偏った巡りだけを重ねても、土は畑にならない。


 必要なのは、混ざることだ。


 汚れることじゃない。

 腐ることでもない。

 ちゃんと、混ざって巡ることだ。


 シオンが石碑から手を離した。目元は濡れていたが、顔はもう揺れていなかった。


「旦那様」 「なんだ」 「僕の毒は……奪われるだけのものじゃ、ないみたいです」 「今さらか」 「はい。……今さらです」


 少しだけ、笑うような声だった。


「でも、ちゃんとそう思えました」 「なら持ってろ」 「はい」 「勝手に抜かれるなよ」 「努力します」


 ロルフは鼻を鳴らした。そうだ。それでいい。


 黒い道の先、白い亀裂はまだ淡く脈打っている。待ってはくれない。今ここで全部を理解する必要はないが、進まなければ何も戻らない。


 鍬を肩に担ぎ直し、ロルフは道の先を顎で示した。


「行くぞ。あの門もどきのところまで」 「大丈夫なんですか、ロルフ」  フィンが珍しく真顔で訊いた。 「大丈夫じゃなくても行くしかねえだろ」 「そういう答え方をすると思った」 「だったら聞くな」


 カッサンが苦笑し、大司教は目を伏せてから静かにうなずいた。


「私も参ります。ここで見たものを、もう見なかったことにはできません」 「最初からそうしろ」 「……耳が痛い」


 そのやり取りに、シオンがほんのわずかに口元を緩める。


 白い野原の静けさの中で、その表情だけが人の温度を持っていた。


 一行は黒い道を進み始めた。歩くたび、足元の土がかすかに返す。死んでいたわけではない。ずっと薄く、息を潜めていただけだ。ヴェルンという誰かが、それを繋ぎ止めていたのだろう。祈りで。毒で。土で。


 その先で、白い亀裂がまた脈打つ。


 今度は、音がした。


 声とも風ともつかない、かすれた響きだった。誰の耳にも届いたのかはわからない。けれどロルフには、たしかにひとつの意味として聞こえた。


 ――かえして。


 欲しがるように。

 泣くように。

 足りないまま、ずっと待っていたものの声で。


 ロルフは立ち止まらなかった。


 返すべきものがあるなら、畑仕事と同じだ。

 土の中を見て、腐った理屈をどけて、巡る形に戻してやればいい。


 ただしそのためには、もっと奥まで掘らなければならない。


 白い野原の先で、門のような傷がゆっくりと開いていく。


 その奥から、まだ名を持たない気配が、こちらを見返していた。

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