第6話:毒の源流と、黄金の果樹園
紫の霧が晴れることはない。だが、今の豊村を包むその霧は、かつてのような「死の宣告」ではなかった。ロルフが【等価交換】によって環境を書き換え、シオンから溢れる膨大な『神の毒』を循環させたことで、村を覆う空気はむしろ、濃密な魔力を孕んだ「聖域」に近いものへと変貌していた。
「――よし、今日の収穫はこれくらいかな」
村の入り口に近い、以前は不毛の荒れ地だった場所。そこには今、黄金色に輝く奇妙な蔓草が、重たげな紫色の果実をたわわに実らせている。ロルフが蔓に触れると、植物たちは意志を持っているかのように身を震わせ、収穫を待つ果実を自ら差し出してきた。本来なら触れるだけで肌を焼く猛毒の種から芽吹いたそれは、今や一口で魔導師の魔力を全回復させるほどのエネルギーを秘めた『神の果実』へと昇華されている。
「ロルフ様、お疲れ様です!これ、お水です!」
弾むような声とともに、一人の少女が駆け寄ってきた。彼女の名はリゼット。村の再建が始まって間もなく、病床に伏せていた両親と、泣き叫ぶことすら忘れていた幼い弟を抱え、絶望の淵でロルフに助けを求めてきた娘だ。
「ありがとう、リゼット。……おや、少し顔色が良くなったね」
ロルフが受け取ったコップの水を飲みながら微笑むと、リゼットは照れくさそうに、けれど誇らしげに自分の頬を指差した。つい一週間前までの彼女は、骨が浮き出るほど痩せ細り、肌は土気色で、瞳には死の影が張り付いていた。だが、ロルフが与えた『浄化された毒果実』を家族で食べ始めてから、彼女の体には劇的な変化が起きていた。
頬には健康的な赤みが差し、枯れ木のようだった髪には艶が戻っている。何より、以前はぶかぶかだった村の古着が、少しずつ彼女の「女の子らしい柔らかな曲線」に沿うようになってきていた。栄養失調で削げていた胸元や腰回りに、年相応のふっくらとした質感が戻り始めている。
「はい!ロルフ様がくださる果実、すっごく甘くて……。昨日は弟のテオが、『お腹が空いて眠れない』じゃなくて、『明日のご飯が楽しみで眠れない』って言ったんですよ!」
リゼットは満面の笑みで語る。彼女の両親も、今では畑仕事を手伝えるほどに回復していた。ロルフの力は、単に腹を満たすだけでなく、この村から消え去っていた「未来への希望」を等価交換で取り戻していたのだ。
「それは良かった。テオ君には、この小さい方の果実を多めに持っていってあげて。育ち盛りの魔力補給にはこっちの方がいい」 「いいんですか!?ありがとうございます、ロルフ様!」
リゼットは丁寧に頭を下げると、収穫用のカゴを抱えて村の中央へと戻っていく。その足取りは軽く、跳ねるような歩き方は、彼女が本来持っていた「正統派の美少女」としての輝きを完全に取り戻しつつあることを告げていた。
その光景を、少し離れた小屋の影から、静かに見つめる瞳があった。
「……旦那様。あの子、最近よく笑うようになりましたね」
銀糸のような髪を揺らし、シオンが音もなくロルフの隣に立った。シオンはリゼットが去った方向をじっと見つめ、それから少しだけ唇を尖らせた。
「シオン。……もしかして、嫉妬かい?」 「ち、違います! ただ、あの子の体……旦那様のエネルギーが馴染みすぎていて、なんだか、僕の一部を分けてあげているような気分になるだけで……」
シオンは顔を赤くして視線を逸らす。実際、彼の言葉は間違いではなかった。村人たちが食べている果実の源は、シオンの体内から溢れる『神の毒』だ。ロルフを媒介にして、シオンの力が村人たちの命を繋いでいる。その事実に、シオンは誇らしさと、ほんの少しの独占欲を抱いているようだった。
「シオンのおかげだよ。君がいなければ、この楽園は存在しない」 「……旦那様がそう言ってくれるなら、いいですけど」
シオンはロルフの袖をきゅっと掴んだ。かつての「毒の器」としての絶望的な表情は消え、今そこにあるのは、大切な人のために尽くしたいと願う、一人の少年の純粋な献身だった。
夕暮れ時。村の中央を流れる小川――ロルフが浄化した澄んだ水が流れる場所――に、一組の旅装束の集団が迷い込んできた。彼らは、王都の食料危機を察知して、高値で売れる物資を探して辺境を彷徨っていた商隊だった。
「……おい、正気か?ここは地図では『死の森の入り口』……呪われた豊村のはずだぞ」
商隊の頭領である初老の男、ガラムが呆然と辺りを見渡した。彼の目の前には、王都の貴族街ですらお目にかかれないような、色鮮やかな大輪の花々が咲き乱れている。そして何より、すれ違う村人たちの顔が、あまりにも血色が良い。
「頭、見てください!あの木に成っているのは、幻の『紫マンゴー』じゃないですか!? 一つで高級ポーション数本分の魔力があるっていう……!」
部下が指差した先には、ロルフが先ほど収穫していた果実が、無造作にカゴに盛られて放置されていた。ガラムは震える手でその果実に触れた。指先に伝わる魔力の脈動は、彼がこれまでの三十年の商売人生で扱ってきたどんな高級品よりも力強く、清らかだった。
「バカな……。そんな希少種、都の温室でさえ十年に一度実るかどうかだぞ。……それが、なぜこんな死の霧の村で、雑草のように成っているんだ……!?」
ガラムは、たまたま通りかかったリゼットに、必死の形相で声をかけた。
「すまない、お嬢さん! そのカゴの中の果実……どこで手に入れたんだ?もし良ければ、金貨一枚でそのカゴごと譲ってくれないか!?」
商人の提示した「金貨一枚」という額に、リゼットは目を丸くした。以前のこの村なら、家族全員が一年間暮らせるほどの大金だ。だが、リゼットは困ったように微笑んで、首を振った。
「ごめんなさい。これはロルフ様が、村のみんなのためにって育ててくれたものなんです。売るなんて、そんなことできません」「ロルフ……様……?」
ガラムはその名を、まるで未知の神の名のように繰り返した。王都では今、原因不明の腐敗によって、金を出してもまともな果実一つ手に入らないと騒ぎになっている。それなのに、この呪われたはずの地では、名もなき農夫が「みんなのため」という理由で、国宝級の価値がある果実を無造作に配っているのだ。
「……とんでもない場所に来ちまったな」
ガラムは、リゼットの背後に広がる黄金の果樹園を、射抜くような目で見つめた。商売人としての長年の勘が、脳内で警報を鳴らしている。この光景は「奇跡」などという生温いものではない。既存の市場原理を根底から破壊しかねない、あまりにも危険な「特異点」だ。
(……待て。落ち着け。今すぐこれを王都へ持ち帰ってどうなる?)
彼は脳内で、現在の王都の状況を冷徹にシミュレーションした。バラ園の崩壊、魔力の枯渇、そして責任のなすりつけ合いに奔走する役人たち。混乱の極致にある今の王都にこの情報を投げ込めば、飢えた獣たちがこの村に殺到するだろう。だが、その結末は目に見えている。
(あの『ロルフ』という男……。死の地をここまで変える怪物を、王都の腐りかけた役人共が制御できるはずがない。返り討ちに遭うか、あるいはこの果実の利権を巡って王都内で醜い殺し合いが始まるだけだ。そうなれば、第一発見者の俺たちは真っ先に口を封じられるか、戦犯として吊るされる……)
沈みゆく船に、あまりにも重すぎる黄金を持ち込むのは愚策だ。
「おい、お前ら。……今ここで見たことは、忘れろ。いいな?」「へっ? でも頭、これを報告すれば王室から報奨金が……」 「報奨金をもらう前に、首が飛ぶぞ。いいか、今の王都は『異常事態』だ。そんな時に、こんな異常な報告を上げてみろ。混乱を煽った罪で捕まるのが関の山だ」
ガラムは部下たちを厳しく嗜め、冷や汗を拭った。
「情報の価値は、それを扱えるだけの安定した市場があってこそだ。今はまだその時じゃない。この村のことは、俺たちだけの『秘密の避難所』として繋いでおく。……まずはロルフ殿に、村の外の情勢を伝える『誠実な協力者』として食い込むのが、最も生存率が高い」
彼は「欲」ではなく、この狂い始めた世界を生き残るための「最適解」を選んだ。結果として、王都側は自分たちが捨てたものの価値に気づくチャンスを、自らの傲慢さと、商人の冷徹な生存戦略によって、またしても完全に失うこととなった。
その夜、豊村ではリゼットの家族も招いたささやかな宴が開かれた。シオンが作ったスープを、リゼットの弟テオが美味しそうに頬張り、リゼットが楽しそうにロルフに今日の出来事を報告する。ロルフはその賑やかさを、心地よい疲れと共に眺めていた。王都の崩壊がどれほど進もうと、今の彼には関係のない話だ。ただ、自分を信じてくれる者たちのために、この毒の楽園を広げていくだけ。
――黄金に実る果実が、月の光に怪しく、けれど美しく輝いていた。




