農夫の、本気
朝。
ロルフは机に向かって、手紙を書いていた。
短い文面だった。
『地脈に異変がある。来られるか。——ロルフ』
それだけだった。
シオンが後ろから覗き込んだ。
「……短すぎませんか」
「必要なことだけ書いた」
「もう少し説明を——」
「来るかどうかだけわかればいい。来るなら詳しく話す」
シオンが少し考えた。
「……フィンさんって、どんな人ですか」
「会ったことはない。噂だけ知ってる」
「噂?」
「地脈を可視化できる旅の魔導師がいると、王都の魔導師たちが話していた。変わり者だが、腕は確かだと」
「変わり者、というのは」
「地脈を追いかけて、世界中を歩き回ってるらしい。定住しない。手紙が届くかどうかも、正直わからない」
シオンが首を傾げた。
「届かなかったら?」
「別の手を考える」
ロルフは手紙を折って、封をした。
シオンがまだ何か言いたそうにしていたが——
その時、村の外から、轟音が響いた。
地響きのような音だった。
続いて、叫び声。
広場でマルタと土壌診断をしていたシオンが、音のした方向へ顔を向けた。
街道の方向から、農夫が一人、転がるように走ってきた。
顔が青い。息が切れている。
「魔獣だ——! 街道沿いの森から、群れで出てきた——!!」
広場が一瞬で凍りついた。
ロルフが小屋から出てきた。
「何体だ」
「七体……いや、もっといるかもしれない! 馬より大きくて、体から霧を出していて——」
「毒霧喰いか」
農夫が頷く。
ロルフは少し考えた。
毒霧喰い。魔力汚染が進んだ土地に集まる魔獣の群れ。毒の霧を吸収して巨大化する。王都の汚染が薄れた分、居場所を失った群れが辺境へ流れてきた——そういうことだ。
つまり。
リゼットが静かな声で言った。
「……これって、ロルフさんが王都を救ったせいじゃ」
「そうなるな」
「……謝らないんですか」
「謝っても魔獣は消えない」
リゼットが何か言いかけて、止めた。
ロルフが鍬を担いだ。
「シオン、来られるか」
シオンが頷いた。
マルタが「え、行くの?!」と叫んだ。
街道に出ると、霧が濃かった。
紫ではなく、黒に近い霧だった。
魔獣が撒き散らす、凝縮された毒の霧。普通の人間なら、吸い込んだだけで動けなくなる。
農夫たちが「逃げろ」と叫んでいた。
街道の先に、七つの影が見えた。
馬より大きい。いや、馬二頭分はある。全身が黒い鱗で覆われていて、口から霧を噴き出しながら、こちらへ向かってくる。
ロルフは立ち止まった。
農夫たちが「なにをしてる」「逃げろ」と叫んでいる。
ロルフには聞こえていない様子だった。
シオンが隣に来た。
「ロルフさん」
「うん」
「どのくらい使いますか」
ロルフは七体の魔獣を見た。
距離を測った。密度を測った。毒の濃さを測った。
「全部」
シオンが少し間を置いた。
「……全部、ですか」
「全部」
「……わかりました」
シオンが、ロルフの手を握った。
目を閉じた。
体内の「神の毒」の核——ずっと抱えてきた、灼けるように重いもの。それを、手放す。
ロルフの掌に、流れ込む。
爆発的な熱が、ロルフの全身を駆け抜けた。
細胞のひとつひとつが目を覚ます感覚。使い切れないほどのエネルギーが、全身に満ちる。
ロルフの目が、紫に発光した。
魔獣たちが——止まった。
本能が、警告を発したのだろう。
七体が一斉に、半歩後退した。
ロルフが静かに言った。
「君たちの毒は、もらった」
鍬を下ろした。
掌を前に向けた。
「お返しは——これだ」
【毒素等価交換:収束解放】
エネルギーが、一点に収束する。
圧縮される。
限界まで、圧縮される。
そして——解放される。
目に見えない衝撃の波が、扇状に広がった。
音はなかった。
風もなかった。
ただ——七体の魔獣が、霧が晴れるように、静かに、消えた。
地面に、跡すら残らなかった。
黒い霧だけが、ゆっくりと散っていく。
静寂が戻った。
誰も、声を出さなかった。
農夫たちが、口を開けたまま固まっている。
最初に口を開いたのは、マルタだった。
「……あんた」
ロルフが振り返った。
「農夫じゃないだろ」
「農夫だ」
「嘘をつくな」
「本当だ」
「農夫が七体の毒霧喰いを一瞬で消すか!!」
「消した」
「それが問題だと言ってるんだ!!」
農夫たちがざわざわと騒ぎ始めた。
「なんだ今のは」「魔法か?」「魔法使いでもあんな真似はできないぞ」「農夫って言ってたのに」「やっぱり農夫じゃないんじゃないか」
ロルフは気にしなかった。
シオンの方を向いた。
シオンが、少しふらついていた。
一気に毒を解放した反動だ。顔が白い。膝が微かに震えている。
ロルフはすぐに歩み寄って、シオンの肩を支えた。
「無理させた」
シオンが、ロルフを見上げた。
「……全部、って言ったのはロルフさんです」
「そうだったな」
「反省してますか」
「してない」
「……知ってました」
シオンが小さく笑った。
その笑顔が、少し白かった。
ロルフはシオンの額に手を当てた。
体温は正常だ。毒の逆流もない。ただ、消耗している。
「歩けるか」
「歩けます」
「無理なら背負う」
「大丈夫です。それより——」
シオンが、農夫たちの方に目をやった。
「みんな、怖がってます」
「魔獣が消えたから安心してる」
「ロルフさんのことを、怖がってます」
ロルフは農夫たちを見た。
確かに——距離を取っている。敬意と恐怖が混ざった目で、こちらを見ている。
「……まあ、そうなるか」
「フォローしてください」
「何を言えばいい」
「農夫だ、とだけ言い続けるのは駄目です」
「農夫だけど」
「それを言うなと言っています」
そこへリゼットが走ってきた。
シオンの顔を見て、青くなった。
「シオンさん、顔が白い!!」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない顔です! ロルフさんも——ロルフさんも顔色が悪い!」
「問題ない」
「問題ある顔です!!」
ロルフが「俺と同じ顔をしてる」と言った。
リゼットが「二人そろって心配させないでください!!」と叫んだ。
マルタが横から「リゼットさん、落ち着きな」と言った。
リゼットが「マルタさんも落ち着いてないじゃないですか!!」と言った。
マルタが「私はいつでも落ち着いてる!」と言った。
農夫たちが、少しだけ笑った。
距離が、少し縮まった。
夜。
シオンは早めに休んだ。
消耗した体に、ロルフが少しずつ養分を戻してやったので、顔色は戻っていた。眠りにつく前に「次は量を相談してから使ってください」と言った。ロルフは「善処する」と言った。シオンが「善処する顔じゃないですね」と言った。
リゼットが聞いていたら、何か言っただろう。
小屋の扉が閉まった後、ロルフは縁側に座って、空を見上げた。
霧が薄かった。
魔獣が消えた分、毒の霧の密度が落ちた。
ロルフは目を閉じて、地脈に耳を澄ませた。
豊村の土の下を流れる、あの鼓動。
今日、「収束解放」を使った時に感じた何かが、頭の中に引っかかっていた。
魔獣が流れてきた方向と——白い土が広がる方向が、逆だ。
魔獣は王都側から、辺境へ向かって押し出されてきた。
白い土の異変は、辺境の深部から、じわじわと広がっている。
つまり。
(……何かが、辺境へ向かって押し出されている)
魔獣だけじゃない。
もっと大きな何かが——地脈の深部で動いていて、その余波が地表に出始めている。
ロルフは机に戻って、フィンへの手紙を開いた。
最後の一行に、書き足した。
『急いでくれ』
封をして、机の上に置いた。
明日、一番早い便で出す。
縁側に戻って、また空を見上げた。
霧の向こうに、星が透けていた。
土の奥で、別の鼓動が響いていた。
深く。確かに。
そして——今日より、少しだけ大きく。
庭師の夜は、静かに更けていく。




