土は、正直だ
夜明け前に目が覚めるのは、癖だった。
王都にいた頃からの、癖だ。
植物園の薄暗い区画は、朝が一番早かった。
誰も来ない時間に開けて、誰も気にしない植物たちの機嫌を読んで、一人で土を耕す。
それが十年間の、ロルフの朝だった。
追放されて、豊村に来ても——その癖だけは、変わらなかった。
ロルフは寝台からそっと起き上がった。
隣の寝台で、シオンが眠っている。
銀色の髪が枕に広がって、寝顔は穏やかだった。
王都から戻ってきた最初の夜は、うなされていた。
その次の夜も。
苦しそうに眉を寄せて、何度も寝返りを打って——ロルフが隣に座って背中に手を当てると、少しだけ落ち着いた。
でも最近は、ただ眠っている。
ただ、静かに、深く、眠っている。
(……良くなってる)
ロルフは包帯を巻いた右腕を静かに動かして、感触を確かめた。
痺れはまだある。
でも昨日より、指が動く。
シオンが毎晩少しずつ解毒してくれている。
「痛いですか」と毎回聞いてくる。
痛くない、と答えると、「嘘をついてもわかります」と言われる。
——たぶん、少しだけ嘘をついている。
ロルフは苦笑して、扉を静かに閉めた。
朝の豊村は、霧が深い。
紫がかった靄が足元に漂い、果樹の輪郭をぼんやりと隠している。
王都から帰ってきた夜にこの霧を見たとき、ロルフは思わず深呼吸をした。
久しぶりの、馴染んだ毒の匂いだった。
肺の奥まで満ちていく紫の空気。
王都の澄んだ空気とは比べ物にならない——これが、ロルフにとっての「新鮮な空気」だ。
それでもロルフには、霧の向こうの畑の状態が、なんとなくわかった。
十年間、誰も見ていない区画で、土と向き合ってきた。
その勘というやつだ。
南の区画に入ると、大根の葉が朝露を弾いていた。
リゼットがちゃんと水やりをしている証拠だ。
ロルフは畝の端にしゃがみ込んで、土を一掴みした。
指の間でほぐれる感触。湿り気。温度。
(……東側が、少し固いな)
西に比べて、締まっている。
水の流れが偏っているのか、それとも根の先に石でも入っているのか。
鍬の石突きを土に刺して、深さを確かめる。
静かに、耳を澄ませる。
大地の奥から、鼓動が返ってくる。
豊村の地脈。
王都での仕事が終わってから、その流れは変わっていた。
以前より深く。以前より、滑らかに。
まるで長い間、どこかで詰まっていたものが——ようやく流れ始めたような。
ロルフは目を閉じて、その鼓動を確かめた。
健康な土のリズムだった。
(……良い土になってきた)
ロルフは鍬を引いて、立ち上がった。
霧の中に、果樹の列が続いている。
紫の実が、朝露に濡れて鈍く光っている。
あの実を初めて育てたのは、豊村に来た翌日だった。
住民たちが血相を変えて飛んできた。
「正気か」「死ぬぞ」と口々に言った。
でも一人の子供が、辛抱たまらずかじりついた。
「おいしい」と言った。
その顔を、ロルフは今でも覚えている。
足元の土を、もう一度踏んだ。
確かな感触が返ってくる。
根が伸びている。深く、広く、土の中に広がっている。
王都の植物園の土は——思い返すと、いつも浅かった。
表面だけ綺麗に整えられて、根が伸びる余地がなかった。
だから魔力汚染が広がったとき、土に何の抵抗力もなかった。
根のない土は、弱い。
(……ここは違う)
豊村の土は、根を張ることを知っている。
ロルフは満足して、次の畝へ移ろうとした。
背後で、足音がした。
「……やっぱりここにいた」
リゼットだった。
作業着のまま、手に水桶を二つ提げている。
寝癖のついた髪を片手で押さえながら、呆れたような顔でロルフを見下ろした。
「ロルフ様、王都から帰ってきて何日だと思ってるんですか」
「五日」
「そうです五日です。もう少し寝てていいんですよ」
「目が覚めた」
「それは知ってます」
リゼットは言いかけて——ロルフの右腕に目を止めた。
まだ包帯が巻かれている。
彼女の表情が、少しだけ曇った。
「……腕、痛みますか」
「動かせる」
「そういうことを聞いてるんじゃないです」
ロルフは少し間を置いてから言った。
「シオンが毎晩少しずつ解毒してくれてる。だんだん軽くなってるよ」
「……そうですか」
リゼットはまだ何か言いたそうにしていた。
でも結局、水桶を一つロルフの隣に置いて、隣の畝にしゃがみ込んだ。
「……東の端、固くなってますよね。昨日も気になってたんです」
「わかるか」
「ロルフ様に教わりましたから」
ロルフは少し笑った。
「正解。堆肥を足して、水の流れを変えたい」
「午前中にやります」
「俺もやる」
「包帯が——」
「左手でもできる」
リゼットが小さくため息をついた。
でも、止めなかった。
止めても無駄だということを、五日間で学んだらしい。
二人でしばらく、無言で土を確かめた。
霧の中に、鳥の声が一つ混じった。
遠くから、テオの声が聞こえてくる。
「リゼットねえちゃーん! 朝ごはんできたってお母さんが——」
「今行くー!」
リゼットが立ち上がって、エプロンの土を払った。
「ロルフ様、朝ごはんは食べてますか」
「後で食べる」
「後でって言って食べないやつですよね、それ」
「……食べる」
「じゃあ一緒に来てください。シオン様も絶対まだ寝てるから、起こしてあげてください」
リゼットが先に歩き出した。
ロルフはもう少しだけ、その場に残った。
東の端の土を、もう一度掴んだ。
指の奥に、大地の鼓動が返ってくる。
健康だった。
確かに、健康だった。
しかし——
(……何だ、これ)
鼓動の奥に、もう一つ、別の何かがある。
毒でも、養分でもない。
土の気配でも、ない。
まるで大地の深いところで——何かが、呼吸のリズムを、少しだけ変えようとしているような。
気のせいかもしれない。
王都での疲れが、まだ抜けていないだけかもしれない。
ロルフは鍬を引いた。
今日のところは、ここまでだ。
小屋に戻ると、シオンがちょうど目を覚ましたところだった。
寝台の上で、銀色の髪をぼんやりと手で梳かしながら、ロルフを見上げる。
「……もう畑に行ってたんですか」
「少しだけ」
「右腕は」
「動かしてない」
シオンの目が、細くなった。
「嘘をついてもわかります」
「……少しだけ使った」
シオンはため息をついて、寝台から降りた。
ふらつく様子もなく、真っすぐに立っている。
王都から戻ってきた頃は、朝に立ち上がるだけで顔が青くなっていた。
今は——顔色が、いい。
(……こっちも、良くなってる)
ロルフがそう思っていると、シオンが無言で右腕に手を伸ばしてきた。
包帯の上から、そっと触れる。
掌から、じんわりとした温かさが伝わってくる。
解毒だ。
シオンの体内の「神の毒」が、ロルフの腕の中に残った毒素を、静かに引き抜いていく。
「……痛いですか」
「痛くない」
「本当に?」
「本当に。昨日より、ずっと楽だ」
シオンがロルフの顔を見た。
しばらく、じっと見た。
「……本当みたいですね」
「嘘をつくなと言ったのは君だろう」
シオンが小さく笑った。
朝の光が、その横顔を柔らかく照らしていた。
リゼットの家の食卓は、いつも賑やかだった。
テオが山盛りのパンを頬張りながら、シオンに昨日覚えた農業の話を一方的にまくし立てている。
「シオン様! 土に種を埋めるとき、深さが大事なんだって! 浅すぎると根が張れないし、深すぎると芽が出ないし!」
「……知ってますよ、テオ」
「でもロルフ様が言うと、なんか違うんだよな。『根が張れない土は弱い』って——かっこいいじゃん!」
シオンがロルフを見た。
ロルフはスープを飲みながら、何も言わなかった。
テオが続ける。
「ねえロルフ様! 俺も農夫になれる?」
「なれる」
「ほんとに?!」
「土を触り続けてれば、誰でも農夫になれる」
「じゃあ俺、今日から毎日土触る!」
リゼットが苦笑しながら、テオの頭を軽く叩いた。
「学校もちゃんと行きなさいよ」
「農業の方が大事じゃん!」
「両方大事です」
食卓に笑い声が広がった。
ロルフはその声を聞きながら、スープの器を置いた。
(……こういうのが、楽園というやつなのかもしれない)
誰かが笑っている。
土が育っている。
根が張っている。
それだけで——十分だと思った。
午後。
ロルフは東の畝に堆肥を入れながら、ふと手を止めた。
また、あの感触がある。
大地の鼓動の奥の——別の何か。
今度は、朝より少しだけ、はっきりしていた。
ロルフは鍬を土に深く刺した。
目を閉じた。
耳を澄ませた。
毒でも養分でもない。
土の気配でも、ない。
大地と繋がっていない、何か。
何かが——土の深いところで、静かに、呼吸をしている。
「……旦那様?」
シオンが隣に来ていた。
ロルフは目を開けた。
「何か、感じたか」
シオンが首を傾げた。
「……何か、とは」
「土の奥。いつもと違うリズムがある」
シオンがしゃがみ込んで、土に手を触れた。
少し間があった。
「……わからないです。でも」
シオンが顔を上げた。
金色の瞳が、微かに揺れていた。
「なんとなく——落ち着かない気がします。今日の朝から」
ロルフは土を見た。
表面は何も変わっていない。
大根の葉は青く茂っている。トマトは真っすぐ上を向いている。
でも——土の奥は、正直だ。
土は、嘘をつかない。
(……そういうことか)
ロルフは立ち上がった。
鍬を肩に担いだ。
今日のところは、これ以上は何も言わない。
急ぐことは、何もない。
ただ——明日の朝も、土に耳を澄ませよう。
庭師は、そうやって変化を読む。
静かに、丁寧に、焦らずに。
夜。
ロルフは縁側に座って、霧の向こうの畑を眺めていた。
隣にシオンが来て、そっと肩を寄せた。
王都にいた頃は、こうして並んで座ることが多かった。
夜の静けさの中で、二人でただ、外を見ていた。
「……旦那様」
「うん」
「土の奥のこと——怖いですか」
ロルフは少し考えた。
「怖くはない」
「でも、気になってる」
「気になってる」
シオンが、ロルフの横顔を見た。
「僕も、感じます。さっきより、少しだけはっきり」
「どんな感じだ」
「……呼ばれているような。でも——ロルフ様に呼ばれる感じとは、違います」
ロルフは黙って、霧の向こうを見た。
豊村の夜は深い。
紫の霧が月光を乱反射して、視界を柔らかく遮っている。
でも——その向こうに、土がある。
根がある。
地脈がある。
(……急がなくていい)
ロルフは茶を一口飲んだ。
「今夜は寝よう。土の声は、明日また聞く」
「順番がありますね」
「庭師には、順番が大事だから」
シオンが小さく笑った。
夜の霧が、静かに流れていた。
地脈が、その下を流れていた。
深く。広く。
そして——かすかに、何か別のものが混じりながら。
それでも土は、温かかった。
ロルフの庭の、夜が更けていく。




