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十年間、王都の魔力汚染を密かに抑えていた農夫を『毒草使いの無能』と追放した結果→王都、崩壊寸前。僕は毒の神子と辺境を黄金の楽園にしてるので、今さら戻れと言われても手遅れです  作者: ジュライ
毒草使いは、世界の価値を書き換える

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第50話:楽園の続き、次の土へ

 王宮の廊下は、少しだけ変わっていた。


 枯れていた鉢植えの土が、黒く湿っていた。根が死んでいた植物の中にも、まだ生きているものがあったらしく、石畳の目地から細い芽が顔を出していた。


 エリザは朝の廊下を歩いた。


 父の居室の前まで来た。


 扉の前に立った。


 ノックをした。


 返事はなかった。


 それはいつもと同じだった。しかし——扉の向こうで、何かが動く音がした。布の擦れる音。寝台の上で、寝返りを打ったような音。


 エリザは扉に手を当てたまま、少しだけ目を閉じた。


「……おはようございます、父上。今日もロルフ殿が来てくれます。少しずつ、良くなっています」


 返事はなかった。


 しかし——もう一度、布が擦れた。


 エリザは扉から手を離して、廊下を歩き出した。


 背筋が伸びていた。豊村で土を耕していた頃と同じ、前を向く背中だった。



 同じ頃、王宮の一角。


 カッサンは机の前に座っていた。


 引き出しを開けた。小箱があった。砕けた護符の破片が入っていた。


 カッサンは破片を一つ取り出して、手のひらに載せた。


 白い石の欠片。もう光らない。機能を失っている。


 しかし——手のひらの上で、ずしりと重かった。


 カッサンはしばらくそれを見ていた。


 それから、破片を小箱に戻して、引き出しを閉めた。


 立ち上がった。


 窓の外を見た。


 王都の朝が始まっていた。


 教団の香炉の煙が消えた通りに、薄い朝靄が漂っていた。人々が歩いている。昨日より、少しだけ足取りが重い人もいる。結晶の依存から少しずつ覚め始めて、体が本物の感覚を取り戻していく、その過渡期の重さだろう。


 しかし——空気が、違った。


 甘い腐れた匂いが、薄くなっていた。


 カッサンは窓から離れた。


 廊下へ出た。どこへ行くか、まだ決めていない。ただ、机の前に座っていることは、今日でおしまいにしようと思っていた。



 一方その頃、豊村では。


 朝の光が、紫の霧を薄く染めていた。


 リゼットは裏庭の畑にいた。大根の葉の間に手を入れて、雑草を丁寧に抜いている。


「リゼット、水はもう撒いたか」


 隣の畑から、村人のヨハンが声をかけてきた。


「撒きましたよ。ロルフ様に教わった通り、根元にだけ」


「偉いな。俺なんぞ、最初は葉っぱにもじゃぶじゃぶかけてたもんだ」


「私もそうでした」


 リゼットは手を動かしながら笑った。


「……そろそろ帰ってくるかな、ロルフ様たちは」


 ヨハンが空を見上げながら言った。


「帰ってきますよ」


 リゼットは即座に言った。迷いがなかった。


「どうしてそう思う」


「だって、ここがロルフ様の庭ですから。庭師は自分の庭に帰ってきます」


 ヨハンが笑った。


「そうだな。……そうだな」


 リゼットは大根の葉から手を離して、空を見た。


 朝の空だった。紫の霧の向こうに、青が透けていた。


(……帰ってくる。絶対に)


 リゼットはまた畑に手を入れた。


 今日の土は、昨日より少しだけ柔らかかった。地脈が遠くで動いているせいだろうか——根がよく伸びていた。



 王都から豊村へ向かう街道。


 馬車が、ゆっくりと進んでいた。


 ロルフは窓の外を見ていた。


 街道の両側に、農村が続いている。教団の聖灰が届いていた村、届いていなかった村、程度の差はあるが——どこも、少しずつ変わり始めていた。街道の端に、本物の草が生えている。水路に、透明な水が流れている。


「旦那様」


「うん」


「豊村の畑、ちゃんと育ってますかね」


「リゼットに任せてあるから大丈夫だよ」


「でも、大根の追肥のタイミングが」


「メモを残してきたから」


「トマトの誘引は」


「それもメモに書いた」


 シオンが、少し黙った。


「……全部、メモに書いてきたんですね」


「出かける前に、一晩かけて書いたよ」


 シオンが、ロルフを見た。


「旦那様、心配だったんじゃないですか」


「農夫だから。自分の畑が心配なのは当たり前だよ」


「それって——」


「うん?」


「……なんでもないです」


 シオンが、窓の外に視線を移した。その横顔が、少しだけ笑っていた。


 しばらく馬車が揺れる音だけが続いた。


 シオンが、また口を開いた。


「……旦那様、神の分身って、どんな姿をしてるんでしょうね」


「さあ」


「さあって。気にならないんですか」


「気にはなるよ。でも——」


 ロルフはクワを膝の上で持ち直した。


「大地と繋がっていないなら、土を読めばわかる。それだけは確かだから」


「土を読めば」


「うん。どんなに姿を隠しても、土には出る。根っこは嘘をつかないから」


 シオンが、窓の外を見た。


「……それ、大典儀も知らなかったんですね」


「百年、土より人工毒を見ていたから」


「旦那様は、土を見てきたから」


「農夫だからね」


 シオンが、小さく息を吐いた。


「……旦那様と来て、良かった」


「王都に?」


「それもそうですけど——旦那様の庭師になれて、良かった、ということです」


 ロルフは少し間を置いてから言った。


「助手だよ」


「同じです」


「違うよ」


「じゃあ何ですか」


「……相棒、かな」


 シオンが、ロルフを見た。


 ロルフは窓の外を見たままだった。


 シオンは何も言わなかった。ただ、また窓の外を見た。その顔が——穏やかだった。



 豊村が見えてくる丘の手前で、馬車を降りた。


 ここからは歩いた方がいい、とロルフが言った。


 丘を登った。


 頂上に出たとき——


「ロルフ様——!!」


 声が来た。


 丘の向こう、豊村の入口から、リゼットが走ってきた。朝の作業着のままで、手に泥がついたままで、全速力で走っていた。


 その後ろから、ヨハンが、村の子どもたちが、老婆の村長が、ぞろぞろとついてきた。


「リゼット、転ぶよ」


 ロルフが言った。


「転びません——!」


 リゼットが叫んだ。転ばなかった。ロルフの前まで来て、勢いのまま頭を下げた。


「お帰りなさい、ロルフ様! シオン様も! お怪我は——腕が!」


「もう大丈夫ですよ」


「大丈夫じゃないです、包帯が——」


「リゼットさん、声が大きいですよ」とシオンが言った。


「だって——だって——」


 リゼットが顔を上げた。目が赤かった。泣いていないが、泣きそうだった。


「……ちゃんと、帰ってきてくれた」


「帰ってきましたよ」とロルフは言った。「畑はどうでしたか」


「大根は順調です。トマトの誘引、メモの通りにやりました。あと、旦那様がいない間に南の区画の土が少し固くなってたので、シオン様に教わった方法で——」


「良くやった」


 リゼットが、また目を赤くした。


「……ただいま、リゼット」


 リゼットが、深く息を吸った。


「……お帰りなさい、ロルフ様」



 村人たちが口々に声をかけてくる中、ロルフは少しずつ村の中へ歩いていった。


 ヨハンが肩を叩いた。老婆の村長が頭を下げた。子どもたちがシオンの周りを走り回った。


 ロルフは村の中央まで歩いて、足を止めた。


 畑が広がっていた。


 大根の葉が、朝の光を受けて青々と茂っていた。トマトが、誘引されて真っすぐ上を向いていた。南の区画の土が、柔らかく耕されていた。


 リゼットがよくやっていた。


 ロルフはクワを持ち直して、畑の端の土に、石突きを当てた。


 地脈の感触が来た。


 豊村の土の下を流れる地脈。王都の仕事が終わってから、何かが変わっていた。以前より、深く。以前より、広く。王都の地脈と、細い根のように繋がり始めている。


(……良い土になってきた)


 それから——もう一つ、何かがあった。


 地脈の流れの中に、かすかな何かが混じっていた。


 毒でも養分でもない。土の気配でもない。


 大地と繋がっていない、何か。


 薄い。ほとんど気のせいのような薄さだった。しかし——確かにある。


 ロルフの眉が、ほんのわずかに動いた。


 シオンが隣に来た。


「旦那様、何か」


「……うん」


「何ですか」


「今は、わからない。でも——」


 ロルフはクワを引いた。


 畑の土が、朝の光を受けて黒く輝いていた。


「やれやれ」


 ロルフは言った。


「庭師の仕事は、終わらないね」


 シオンが、ロルフの横顔を見た。


 疲れた顔だった。しかし——次を見ている目だった。


「……また、始まりますか」


「始まりますよ。でも」


 ロルフはクワを肩に担いだ。


「今日は、畑の手入れをしよう。王都のことは、土が落ち着いてから考える」


「順番があるんですね」


「庭師には、順番が大事だから」


 リゼットが、ロルフとシオンの間に割り込んできた。


「ロルフ様、朝ごはんはもう食べましたか。お腹すいてますよね。今日はシチューを——」


「いただきます」


「シオン様は?」


「……いただきます」


「じゃあ、帰りましょう! テオも楽しみにしてたんです、二人が帰ってくるの!」


 リゼットが先に歩き出した。


 村人たちが、その後に続いた。


 ロルフとシオンは、一番後ろを歩いた。


 豊村の朝が、ゆっくりと動いていた。


 紫の霧が、朝の光に透けていた。


 土の匂いがした。水の匂いがした。


 遠くから、テオの声が聞こえた。


「リゼットねえちゃん——! ロルフ様が帰ってきたってほんと——!?」


「本当だよ——! 早く来なさい——!」


 ロルフは、その声を聞きながら歩いた。


 クワを肩に担いで、豊村の土の上を、一歩ずつ歩いた。


 地脈が、足の下を流れていた。


 深く。広く。


 そして——かすかに、何か別のものが混じりながら。


 それでも、土は温かかった。


 ロルフの庭が、静かに、朝を迎えていた。

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