第50話:楽園の続き、次の土へ
王宮の廊下は、少しだけ変わっていた。
枯れていた鉢植えの土が、黒く湿っていた。根が死んでいた植物の中にも、まだ生きているものがあったらしく、石畳の目地から細い芽が顔を出していた。
エリザは朝の廊下を歩いた。
父の居室の前まで来た。
扉の前に立った。
ノックをした。
返事はなかった。
それはいつもと同じだった。しかし——扉の向こうで、何かが動く音がした。布の擦れる音。寝台の上で、寝返りを打ったような音。
エリザは扉に手を当てたまま、少しだけ目を閉じた。
「……おはようございます、父上。今日もロルフ殿が来てくれます。少しずつ、良くなっています」
返事はなかった。
しかし——もう一度、布が擦れた。
エリザは扉から手を離して、廊下を歩き出した。
背筋が伸びていた。豊村で土を耕していた頃と同じ、前を向く背中だった。
同じ頃、王宮の一角。
カッサンは机の前に座っていた。
引き出しを開けた。小箱があった。砕けた護符の破片が入っていた。
カッサンは破片を一つ取り出して、手のひらに載せた。
白い石の欠片。もう光らない。機能を失っている。
しかし——手のひらの上で、ずしりと重かった。
カッサンはしばらくそれを見ていた。
それから、破片を小箱に戻して、引き出しを閉めた。
立ち上がった。
窓の外を見た。
王都の朝が始まっていた。
教団の香炉の煙が消えた通りに、薄い朝靄が漂っていた。人々が歩いている。昨日より、少しだけ足取りが重い人もいる。結晶の依存から少しずつ覚め始めて、体が本物の感覚を取り戻していく、その過渡期の重さだろう。
しかし——空気が、違った。
甘い腐れた匂いが、薄くなっていた。
カッサンは窓から離れた。
廊下へ出た。どこへ行くか、まだ決めていない。ただ、机の前に座っていることは、今日でおしまいにしようと思っていた。
一方その頃、豊村では。
朝の光が、紫の霧を薄く染めていた。
リゼットは裏庭の畑にいた。大根の葉の間に手を入れて、雑草を丁寧に抜いている。
「リゼット、水はもう撒いたか」
隣の畑から、村人のヨハンが声をかけてきた。
「撒きましたよ。ロルフ様に教わった通り、根元にだけ」
「偉いな。俺なんぞ、最初は葉っぱにもじゃぶじゃぶかけてたもんだ」
「私もそうでした」
リゼットは手を動かしながら笑った。
「……そろそろ帰ってくるかな、ロルフ様たちは」
ヨハンが空を見上げながら言った。
「帰ってきますよ」
リゼットは即座に言った。迷いがなかった。
「どうしてそう思う」
「だって、ここがロルフ様の庭ですから。庭師は自分の庭に帰ってきます」
ヨハンが笑った。
「そうだな。……そうだな」
リゼットは大根の葉から手を離して、空を見た。
朝の空だった。紫の霧の向こうに、青が透けていた。
(……帰ってくる。絶対に)
リゼットはまた畑に手を入れた。
今日の土は、昨日より少しだけ柔らかかった。地脈が遠くで動いているせいだろうか——根がよく伸びていた。
王都から豊村へ向かう街道。
馬車が、ゆっくりと進んでいた。
ロルフは窓の外を見ていた。
街道の両側に、農村が続いている。教団の聖灰が届いていた村、届いていなかった村、程度の差はあるが——どこも、少しずつ変わり始めていた。街道の端に、本物の草が生えている。水路に、透明な水が流れている。
「旦那様」
「うん」
「豊村の畑、ちゃんと育ってますかね」
「リゼットに任せてあるから大丈夫だよ」
「でも、大根の追肥のタイミングが」
「メモを残してきたから」
「トマトの誘引は」
「それもメモに書いた」
シオンが、少し黙った。
「……全部、メモに書いてきたんですね」
「出かける前に、一晩かけて書いたよ」
シオンが、ロルフを見た。
「旦那様、心配だったんじゃないですか」
「農夫だから。自分の畑が心配なのは当たり前だよ」
「それって——」
「うん?」
「……なんでもないです」
シオンが、窓の外に視線を移した。その横顔が、少しだけ笑っていた。
しばらく馬車が揺れる音だけが続いた。
シオンが、また口を開いた。
「……旦那様、神の分身って、どんな姿をしてるんでしょうね」
「さあ」
「さあって。気にならないんですか」
「気にはなるよ。でも——」
ロルフはクワを膝の上で持ち直した。
「大地と繋がっていないなら、土を読めばわかる。それだけは確かだから」
「土を読めば」
「うん。どんなに姿を隠しても、土には出る。根っこは嘘をつかないから」
シオンが、窓の外を見た。
「……それ、大典儀も知らなかったんですね」
「百年、土より人工毒を見ていたから」
「旦那様は、土を見てきたから」
「農夫だからね」
シオンが、小さく息を吐いた。
「……旦那様と来て、良かった」
「王都に?」
「それもそうですけど——旦那様の庭師になれて、良かった、ということです」
ロルフは少し間を置いてから言った。
「助手だよ」
「同じです」
「違うよ」
「じゃあ何ですか」
「……相棒、かな」
シオンが、ロルフを見た。
ロルフは窓の外を見たままだった。
シオンは何も言わなかった。ただ、また窓の外を見た。その顔が——穏やかだった。
豊村が見えてくる丘の手前で、馬車を降りた。
ここからは歩いた方がいい、とロルフが言った。
丘を登った。
頂上に出たとき——
「ロルフ様——!!」
声が来た。
丘の向こう、豊村の入口から、リゼットが走ってきた。朝の作業着のままで、手に泥がついたままで、全速力で走っていた。
その後ろから、ヨハンが、村の子どもたちが、老婆の村長が、ぞろぞろとついてきた。
「リゼット、転ぶよ」
ロルフが言った。
「転びません——!」
リゼットが叫んだ。転ばなかった。ロルフの前まで来て、勢いのまま頭を下げた。
「お帰りなさい、ロルフ様! シオン様も! お怪我は——腕が!」
「もう大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないです、包帯が——」
「リゼットさん、声が大きいですよ」とシオンが言った。
「だって——だって——」
リゼットが顔を上げた。目が赤かった。泣いていないが、泣きそうだった。
「……ちゃんと、帰ってきてくれた」
「帰ってきましたよ」とロルフは言った。「畑はどうでしたか」
「大根は順調です。トマトの誘引、メモの通りにやりました。あと、旦那様がいない間に南の区画の土が少し固くなってたので、シオン様に教わった方法で——」
「良くやった」
リゼットが、また目を赤くした。
「……ただいま、リゼット」
リゼットが、深く息を吸った。
「……お帰りなさい、ロルフ様」
村人たちが口々に声をかけてくる中、ロルフは少しずつ村の中へ歩いていった。
ヨハンが肩を叩いた。老婆の村長が頭を下げた。子どもたちがシオンの周りを走り回った。
ロルフは村の中央まで歩いて、足を止めた。
畑が広がっていた。
大根の葉が、朝の光を受けて青々と茂っていた。トマトが、誘引されて真っすぐ上を向いていた。南の区画の土が、柔らかく耕されていた。
リゼットがよくやっていた。
ロルフはクワを持ち直して、畑の端の土に、石突きを当てた。
地脈の感触が来た。
豊村の土の下を流れる地脈。王都の仕事が終わってから、何かが変わっていた。以前より、深く。以前より、広く。王都の地脈と、細い根のように繋がり始めている。
(……良い土になってきた)
それから——もう一つ、何かがあった。
地脈の流れの中に、かすかな何かが混じっていた。
毒でも養分でもない。土の気配でもない。
大地と繋がっていない、何か。
薄い。ほとんど気のせいのような薄さだった。しかし——確かにある。
ロルフの眉が、ほんのわずかに動いた。
シオンが隣に来た。
「旦那様、何か」
「……うん」
「何ですか」
「今は、わからない。でも——」
ロルフはクワを引いた。
畑の土が、朝の光を受けて黒く輝いていた。
「やれやれ」
ロルフは言った。
「庭師の仕事は、終わらないね」
シオンが、ロルフの横顔を見た。
疲れた顔だった。しかし——次を見ている目だった。
「……また、始まりますか」
「始まりますよ。でも」
ロルフはクワを肩に担いだ。
「今日は、畑の手入れをしよう。王都のことは、土が落ち着いてから考える」
「順番があるんですね」
「庭師には、順番が大事だから」
リゼットが、ロルフとシオンの間に割り込んできた。
「ロルフ様、朝ごはんはもう食べましたか。お腹すいてますよね。今日はシチューを——」
「いただきます」
「シオン様は?」
「……いただきます」
「じゃあ、帰りましょう! テオも楽しみにしてたんです、二人が帰ってくるの!」
リゼットが先に歩き出した。
村人たちが、その後に続いた。
ロルフとシオンは、一番後ろを歩いた。
豊村の朝が、ゆっくりと動いていた。
紫の霧が、朝の光に透けていた。
土の匂いがした。水の匂いがした。
遠くから、テオの声が聞こえた。
「リゼットねえちゃん——! ロルフ様が帰ってきたってほんと——!?」
「本当だよ——! 早く来なさい——!」
ロルフは、その声を聞きながら歩いた。
クワを肩に担いで、豊村の土の上を、一歩ずつ歩いた。
地脈が、足の下を流れていた。
深く。広く。
そして——かすかに、何か別のものが混じりながら。
それでも、土は温かかった。
ロルフの庭が、静かに、朝を迎えていた。




