第49話:種の在処、崩れた庭
謁見の間の扉は、開いていた。
カッサンが「待っている」と言った通り、大司教はそこにいた。
机の前に立っていた。玉座には座っていない。窓の外の中庭を見ていた。ロルフたちが入ってくる気配を感じて、ゆっくりと振り返った。
大典儀がいないことに、気づいた。
大司教の目が、ロルフを見た。それからシオンを見た。それからカッサンを見た。
何も聞かなかった。
聞かなくても、わかったのだろう。
「……座ってください」と大司教が言った。
「立ったままで十分です」とロルフが返した。
大司教が、かすかに笑った。最初の対面と同じ言葉の繰り返しに、気づいているような笑い方だった。
「……そうですね」
沈黙が落ちた。
大司教が、窓の外に目をやった。中庭が見えた。土が黒く湿っていた。苔が根元に出ていた。
「……庭が、変わりました」
「地脈が動いているので」
「大典儀の毒が消えたことも、関係していますか」
「あの毒も、土の養分になりましたから」
大司教が、中庭を見たまま言った。
「……百年かけて作ったものが、土の肥料に」
「悪いことではないですよ。最終的に土に還るなら、無駄にはならない」
大司教が、ロルフを見た。
「……あなたは、不思議な人ですね」
「農夫ですよ」
「大典儀を倒して、その毒を肥料と言う。大典儀は——」
「生きています。眠っています」
大司教が、目を閉じた。
それから、深く息を吐いた。
「……あなたの勝ちです」
「勝ち負けじゃないですよ」とロルフは言った。「庭の手入れをしただけです」
大司教が、机の端に手をついた。
「……一つだけ、確かめたいことがあります」
「古文書のことですか」
大司教が、ロルフを見た。
「……あなたは、知っているんですね」
「全部は知らないです。でも——大典儀が管理していた書庫に、本物があると思います」
「本物」
「書き換えられていない、古文書が」
大司教の目に、何かが揺れた。
反論しようとした——ような気配があった。しかしそれは、一瞬で消えた。
「……カッサン」
「はい」
「大典儀の書庫の鍵を、持ってきてもらえますか」
カッサンが頷いた。廊下へ出ていった。
大典儀の書庫は、研究室の隣にあった。
研究室の扉は閉まっていた。中で大典儀が眠っている。カッサンが持ってきた鍵で、隣の書庫の扉を開けた。
中は、壁一面が棚だった。羊皮紙が年代順に並んでいた。古いものが奥に、新しいものが手前に。
大司教が、棚を見回した。
どこから手をつければいいか、わからない、という顔だった。長年「確かめなかった」人間が、初めて確かめようとする顔だった。
ロルフがカッサンに目をやった。カッサンが頷いて、棚の奥へ進んだ。
奥の棚の、一番下の段。埃をかぶった羊皮紙が重ねられている。カッサンがそれを取り出した。
「……これだと思います」
表紙に、古い字体で「根源記録」と書いてあった。
カッサンが大司教に渡した。
大司教が、書庫の椅子に座った。
羊皮紙を開いた。
誰も口を開かなかった。
シオンがロルフの隣に立っていた。エリザとメビウスが入口の近くに立っていた。カッサンが壁際に立っていた。
大司教が、読んでいた。
ページをめくる音だけが、書庫に響いた。
どのくらい経っただろうか。
大司教の手が、止まった。
ページの途中で止まっていた。目が、そこから動かなかった。
また、ページが動いた。次のページへ。また止まった。
ロルフは、大司教の顔を見ていた。
変化は、静かだった。怒りでも絶望でもなかった。何かが——長い時間をかけて積み上げてきたものの土台が、静かに、音もなく溶けていく、という変化だった。
大司教が、羊皮紙を閉じた。
膝の上に置いた。
長い沈黙があった。
「……」
大司教が、目を上げた。
「私たちの祖先が——毒の側だった」
誰も答えなかった。
「パンデミックを起こした。シオン殿の一族が、収束させた。……その事実を、書き換えた」
大司教の声は、静かだった。静かすぎた。感情を失ったような静けさだった。
「私が——私たちが、正統だと信じてきたものが」
声が、途切れた。
大司教が、膝の上の羊皮紙を見た。
「……私には、種がなかった。あなたの言う通りだった」
謁見の間に、静寂が戻った。
ロルフは少しだけ間を置いてから、言った。
「種がなかったんじゃないと思いますよ」
大司教が顔を上げた。
「種を——誰かに預けたまま、忘れていただけで」
「……預けた、とは」
「シオン一族が、ずっと持っていた」
大司教が、シオンを見た。
シオンは、大司教を見ていた。
複雑な顔だった。恨みでも憐れみでもない、もっと複雑な——一族が追われてきた長い時間と、今この瞬間が交差している顔だった。
しかしシオンは、静かに頷いた。
大司教が、その頷きを受け取った。
何も言えなかった。
言葉が出てこない、という顔ではなかった。言葉では足りない、という顔だった。
エリザが、大司教の前に一歩出た。
「大司教」
「……王女殿下」
「今後のことは、追って話し合いましょう。今日のところは——」
「わかりました」
大司教が、静かに立ち上がった。
羊皮紙を机の上に置いた。
ロルフを見た。
「……ロルフ殿」
「はい」
「種の話——もう少し、聞かせてもらえますか。いつか」
「いつかでいいなら」とロルフは言った。「そのうち聞かせますよ」
大司教が、頷いた。
それだけだった。
エリザとメビウスが大司教に付き添って、謁見の間から出ていった。カッサンがその後に続いた。
書庫に、ロルフとシオンだけが残った。
シオンが、棚に並んだ羊皮紙を見ていた。
「……たくさんありますね」
「百年分の研究だからね」
「全部——神子の毒の研究ですか」
「大半は、そうだと思うよ」
シオンが、一冊を手に取った。表紙に年号が書いてあった。百年前の年号だった。
「……大典儀は、百年間ここで研究していたんですね」
「そうだね」
「一人で」
「一人で」
シオンが、羊皮紙を棚に戻した。
「……怖くなかったのかな」
「何が」
「一人で、百年」
ロルフは少し考えた。
「怖かったと思うよ。だから、やめられなかったんじゃないかな。手を止めたら、何も残らなくなるから」
シオンが、棚を見たまま言った。
「……旦那様と出会う前の僕も、少しそういう感じだったかもしれません」
「そうか」
「毒を怖れてたから。怖れてることをやめたら、自分が何者かわからなくなりそうで」
ロルフは何も言わなかった。
シオンが、ロルフを見た。
「……旦那様が来て、変わりました」
「何が」
「怖れなくてよくなった」
ロルフは少しだけ笑った。
「それは良かった」
「良かったで終わりですか」
「十分じゃないかな」
シオンが、呆れたような顔をした。しかしその呆れの中に、笑いが混じっていた。
書庫を出た。
廊下を歩いた。
枯れた鉢植えの間に、苔が出ていた。石畳の目地に、緑が滲んでいた。
ロルフはその緑を見ながら歩いた。
右腕の痺れが、だいぶ薄れていた。シオンが少しずつ抜いてくれていた。まだ完全ではないが、昨日よりずっと動いた。
外に出ると、夕方だった。
王宮の中庭が夕の光を受けていた。古木の根元に、今朝より苔が広がっていた。土が黒く湿っていた。
ロルフはその土に、クワの石突きを当てた。
地脈の感触が来た。
王都全体に広がる、地脈の流れ。四十二話で解放されてから、少しずつ本来の流れを取り戻している。大典儀の人工毒が養分になって、さらに深くなっている。
(……いい土になってきた)
「旦那様」
後ろからシオンの声がした。
「うん」
「今夜は枯れ木亭に戻りますか」
「そうしよう。明日から、王様の解毒を始めないといけないから」
「毎日来るんですね」
「約束したから」
シオンが、中庭の土を見た。
「……豊村の畑、大丈夫かな」
「リゼットに任せてあるから大丈夫だよ」
「でも、長く空けすぎてる気がして」
「もう少ししたら、帰れるよ」
シオンが、ロルフを見た。
「もう少し、っていつですか」
「王様の解毒が落ち着いたら」
「それ、いつですか」
「一週間から十日」
「……長いですね」
「長くないよ。豊村の種が芽吹くまでの時間に比べれば」
シオンが、少しだけ黙った。
「……そうですね」
夜になった。
王宮の灯りが少しずつ落ちていく中、カッサンは大典儀の書庫を整理していた。
一人でやると言って、エリザたちを帰した後だった。
棚の羊皮紙を一冊ずつ確認して、年代順に並べ直した。百年分の記録が、整然と棚に収まっていく。
ほとんどが研究記録だった。神子の毒の成分。人工毒の配合。失敗の記録。成功の記録。
その中に——一枚だけ、羊皮紙ではない紙があった。
薄い、普通の紙だった。折りたたんであった。棚の奥に、他の記録に紛れるように挟まっていた。
カッサンは取り出して、広げた。
大典儀の筆跡だった。
几帳面で細かい字だった。研究記録とは違う、急いで書いたような字だった。
読んだ。
カッサンは、しばらくその紙を持ったまま立っていた。
書かれていた内容を、もう一度頭の中で確かめた。
神の分身は、まだここにいる。
大司教には言えなかった。言えば——あの方は、大司教を使って別の手を打つ。
ロルフという男になら、話せるかもしれない。
枯れ木亭の二階。
ロルフが窓際に座って、夜の王都を見ていた。
シオンが隣で、温かい茶を飲んでいた。
扉を、静かにノックする音がした。
「どうぞ」
扉が開いた。カッサンが入ってきた。
手に、一枚の紙を持っていた。
「……ロルフ殿。書庫を整理していたら、これが」
ロルフが受け取った。
広げた。
読んだ。
シオンが、隣から覗き込んだ。
二人で、無言で読んだ。
カッサンが、扉の前で静かに待っていた。
ロルフが、紙を膝の上に置いた。
窓の外の夜の王都を、しばらく見ていた。
「……やれやれ」
静かに言った。
「まだ、続きがあるんですね」
シオンが、ロルフの横顔を見た。
疲れた顔だった。しかし——諦めている顔ではなかった。
ロルフは窓の外から視線を外して、茶を一口飲んだ。
「カッサンさん、ありがとうございます。今日はもう休んでください」
「……はい」
カッサンが、出ていった。扉が静かに閉まった。
シオンが言った。
「旦那様」
「うん」
「神の分身って——」
「今夜は考えなくていいよ」
「でも」
「明日でいい。今夜は疲れた」
シオンが、少し黙った。
「……旦那様も、疲れますか」
「疲れるよ。農夫だから」
シオンが、小さく笑った。
ロルフも、少しだけ笑った。
窓の外に、夜の王都が広がっていた。
地脈が、その下を静かに流れていた。
以前より、深く。以前より、広く。
まだ完全ではない。しかし——動いている。
ロルフは茶を飲み干して、目を閉じた。
明日また、王様の解毒に来る。
それだけが、今夜の仕事だった。




