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十年間、王都の魔力汚染を密かに抑えていた農夫を『毒草使いの無能』と追放した結果→王都、崩壊寸前。僕は毒の神子と辺境を黄金の楽園にしてるので、今さら戻れと言われても手遅れです  作者: ジュライ
毒草使いは、世界の価値を書き換える

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第49話:種の在処、崩れた庭

 謁見の間の扉は、開いていた。


 カッサンが「待っている」と言った通り、大司教はそこにいた。


 机の前に立っていた。玉座には座っていない。窓の外の中庭を見ていた。ロルフたちが入ってくる気配を感じて、ゆっくりと振り返った。


 大典儀がいないことに、気づいた。


 大司教の目が、ロルフを見た。それからシオンを見た。それからカッサンを見た。


 何も聞かなかった。


 聞かなくても、わかったのだろう。


「……座ってください」と大司教が言った。


「立ったままで十分です」とロルフが返した。


 大司教が、かすかに笑った。最初の対面と同じ言葉の繰り返しに、気づいているような笑い方だった。


「……そうですね」


 

 沈黙が落ちた。


 大司教が、窓の外に目をやった。中庭が見えた。土が黒く湿っていた。苔が根元に出ていた。


「……庭が、変わりました」


「地脈が動いているので」


「大典儀の毒が消えたことも、関係していますか」


「あの毒も、土の養分になりましたから」


 大司教が、中庭を見たまま言った。


「……百年かけて作ったものが、土の肥料に」


「悪いことではないですよ。最終的に土に還るなら、無駄にはならない」


 大司教が、ロルフを見た。


「……あなたは、不思議な人ですね」


「農夫ですよ」


「大典儀を倒して、その毒を肥料と言う。大典儀は——」


「生きています。眠っています」


 大司教が、目を閉じた。


 それから、深く息を吐いた。


「……あなたの勝ちです」


「勝ち負けじゃないですよ」とロルフは言った。「庭の手入れをしただけです」


 

 大司教が、机の端に手をついた。


「……一つだけ、確かめたいことがあります」


「古文書のことですか」


 大司教が、ロルフを見た。


「……あなたは、知っているんですね」


「全部は知らないです。でも——大典儀が管理していた書庫に、本物があると思います」


「本物」


「書き換えられていない、古文書が」


 大司教の目に、何かが揺れた。


 反論しようとした——ような気配があった。しかしそれは、一瞬で消えた。


「……カッサン」


「はい」


「大典儀の書庫の鍵を、持ってきてもらえますか」


 カッサンが頷いた。廊下へ出ていった。


 

 大典儀の書庫は、研究室の隣にあった。


 研究室の扉は閉まっていた。中で大典儀が眠っている。カッサンが持ってきた鍵で、隣の書庫の扉を開けた。


 中は、壁一面が棚だった。羊皮紙が年代順に並んでいた。古いものが奥に、新しいものが手前に。


 大司教が、棚を見回した。


 どこから手をつければいいか、わからない、という顔だった。長年「確かめなかった」人間が、初めて確かめようとする顔だった。


 ロルフがカッサンに目をやった。カッサンが頷いて、棚の奥へ進んだ。


 奥の棚の、一番下の段。埃をかぶった羊皮紙が重ねられている。カッサンがそれを取り出した。


「……これだと思います」


 表紙に、古い字体で「根源記録」と書いてあった。


 カッサンが大司教に渡した。


 

 大司教が、書庫の椅子に座った。


 羊皮紙を開いた。


 誰も口を開かなかった。


 シオンがロルフの隣に立っていた。エリザとメビウスが入口の近くに立っていた。カッサンが壁際に立っていた。


 大司教が、読んでいた。


 ページをめくる音だけが、書庫に響いた。


 どのくらい経っただろうか。


 大司教の手が、止まった。


 ページの途中で止まっていた。目が、そこから動かなかった。


 また、ページが動いた。次のページへ。また止まった。


 ロルフは、大司教の顔を見ていた。


 変化は、静かだった。怒りでも絶望でもなかった。何かが——長い時間をかけて積み上げてきたものの土台が、静かに、音もなく溶けていく、という変化だった。


 大司教が、羊皮紙を閉じた。


 膝の上に置いた。


 長い沈黙があった。


「……」


 大司教が、目を上げた。


「私たちの祖先が——毒の側だった」


 誰も答えなかった。


「パンデミックを起こした。シオン殿の一族が、収束させた。……その事実を、書き換えた」


 大司教の声は、静かだった。静かすぎた。感情を失ったような静けさだった。


「私が——私たちが、正統だと信じてきたものが」


 声が、途切れた。


 大司教が、膝の上の羊皮紙を見た。


「……私には、種がなかった。あなたの言う通りだった」


 

 謁見の間に、静寂が戻った。


 ロルフは少しだけ間を置いてから、言った。


「種がなかったんじゃないと思いますよ」


 大司教が顔を上げた。


「種を——誰かに預けたまま、忘れていただけで」


「……預けた、とは」


「シオン一族が、ずっと持っていた」


 大司教が、シオンを見た。


 シオンは、大司教を見ていた。


 複雑な顔だった。恨みでも憐れみでもない、もっと複雑な——一族が追われてきた長い時間と、今この瞬間が交差している顔だった。


 しかしシオンは、静かに頷いた。


 大司教が、その頷きを受け取った。


 何も言えなかった。


 言葉が出てこない、という顔ではなかった。言葉では足りない、という顔だった。


 エリザが、大司教の前に一歩出た。


「大司教」


「……王女殿下」


「今後のことは、追って話し合いましょう。今日のところは——」


「わかりました」


 大司教が、静かに立ち上がった。


 羊皮紙を机の上に置いた。


 ロルフを見た。


「……ロルフ殿」


「はい」


「種の話——もう少し、聞かせてもらえますか。いつか」


「いつかでいいなら」とロルフは言った。「そのうち聞かせますよ」


 大司教が、頷いた。


 それだけだった。


 エリザとメビウスが大司教に付き添って、謁見の間から出ていった。カッサンがその後に続いた。


 

 書庫に、ロルフとシオンだけが残った。


 シオンが、棚に並んだ羊皮紙を見ていた。


「……たくさんありますね」


「百年分の研究だからね」


「全部——神子の毒の研究ですか」


「大半は、そうだと思うよ」


 シオンが、一冊を手に取った。表紙に年号が書いてあった。百年前の年号だった。


「……大典儀は、百年間ここで研究していたんですね」


「そうだね」


「一人で」


「一人で」


 シオンが、羊皮紙を棚に戻した。


「……怖くなかったのかな」


「何が」


「一人で、百年」


 ロルフは少し考えた。


「怖かったと思うよ。だから、やめられなかったんじゃないかな。手を止めたら、何も残らなくなるから」


 シオンが、棚を見たまま言った。


「……旦那様と出会う前の僕も、少しそういう感じだったかもしれません」


「そうか」


「毒を怖れてたから。怖れてることをやめたら、自分が何者かわからなくなりそうで」


 ロルフは何も言わなかった。


 シオンが、ロルフを見た。


「……旦那様が来て、変わりました」


「何が」


「怖れなくてよくなった」


 ロルフは少しだけ笑った。


「それは良かった」


「良かったで終わりですか」


「十分じゃないかな」


 シオンが、呆れたような顔をした。しかしその呆れの中に、笑いが混じっていた。


 

 書庫を出た。


 廊下を歩いた。


 枯れた鉢植えの間に、苔が出ていた。石畳の目地に、緑が滲んでいた。


 ロルフはその緑を見ながら歩いた。


 右腕の痺れが、だいぶ薄れていた。シオンが少しずつ抜いてくれていた。まだ完全ではないが、昨日よりずっと動いた。


 外に出ると、夕方だった。


 王宮の中庭が夕の光を受けていた。古木の根元に、今朝より苔が広がっていた。土が黒く湿っていた。


 ロルフはその土に、クワの石突きを当てた。


 地脈の感触が来た。


 王都全体に広がる、地脈の流れ。四十二話で解放されてから、少しずつ本来の流れを取り戻している。大典儀の人工毒が養分になって、さらに深くなっている。


(……いい土になってきた)


「旦那様」


 後ろからシオンの声がした。


「うん」


「今夜は枯れ木亭に戻りますか」


「そうしよう。明日から、王様の解毒を始めないといけないから」


「毎日来るんですね」


「約束したから」


 シオンが、中庭の土を見た。


「……豊村の畑、大丈夫かな」


「リゼットに任せてあるから大丈夫だよ」


「でも、長く空けすぎてる気がして」


「もう少ししたら、帰れるよ」


 シオンが、ロルフを見た。


「もう少し、っていつですか」


「王様の解毒が落ち着いたら」


「それ、いつですか」


「一週間から十日」


「……長いですね」


「長くないよ。豊村の種が芽吹くまでの時間に比べれば」


 シオンが、少しだけ黙った。


「……そうですね」


 

 夜になった。


 王宮の灯りが少しずつ落ちていく中、カッサンは大典儀の書庫を整理していた。


 一人でやると言って、エリザたちを帰した後だった。


 棚の羊皮紙を一冊ずつ確認して、年代順に並べ直した。百年分の記録が、整然と棚に収まっていく。


 ほとんどが研究記録だった。神子の毒の成分。人工毒の配合。失敗の記録。成功の記録。


 その中に——一枚だけ、羊皮紙ではない紙があった。


 薄い、普通の紙だった。折りたたんであった。棚の奥に、他の記録に紛れるように挟まっていた。


 カッサンは取り出して、広げた。


 大典儀の筆跡だった。


 几帳面で細かい字だった。研究記録とは違う、急いで書いたような字だった。


 読んだ。


 

 カッサンは、しばらくその紙を持ったまま立っていた。


 書かれていた内容を、もう一度頭の中で確かめた。


 神の分身は、まだここにいる。


 大司教には言えなかった。言えば——あの方は、大司教を使って別の手を打つ。


 ロルフという男になら、話せるかもしれない。


 

 枯れ木亭の二階。


 ロルフが窓際に座って、夜の王都を見ていた。


 シオンが隣で、温かい茶を飲んでいた。


 扉を、静かにノックする音がした。


「どうぞ」


 扉が開いた。カッサンが入ってきた。


 手に、一枚の紙を持っていた。


「……ロルフ殿。書庫を整理していたら、これが」


 ロルフが受け取った。


 広げた。


 読んだ。


 シオンが、隣から覗き込んだ。


 二人で、無言で読んだ。


 カッサンが、扉の前で静かに待っていた。


 ロルフが、紙を膝の上に置いた。


 窓の外の夜の王都を、しばらく見ていた。


「……やれやれ」


 静かに言った。


「まだ、続きがあるんですね」


 シオンが、ロルフの横顔を見た。


 疲れた顔だった。しかし——諦めている顔ではなかった。


 ロルフは窓の外から視線を外して、茶を一口飲んだ。


「カッサンさん、ありがとうございます。今日はもう休んでください」


「……はい」


 カッサンが、出ていった。扉が静かに閉まった。


 シオンが言った。


「旦那様」


「うん」


「神の分身って——」


「今夜は考えなくていいよ」


「でも」


「明日でいい。今夜は疲れた」


 シオンが、少し黙った。


「……旦那様も、疲れますか」


「疲れるよ。農夫だから」


 シオンが、小さく笑った。


 ロルフも、少しだけ笑った。


 窓の外に、夜の王都が広がっていた。


 地脈が、その下を静かに流れていた。


 以前より、深く。以前より、広く。


 まだ完全ではない。しかし——動いている。


 ロルフは茶を飲み干して、目を閉じた。


 明日また、王様の解毒に来る。


 それだけが、今夜の仕事だった。

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