第48話:百年の終わり、土の答え
王宮の奥深く、誰も近づかない一室があった。
表向きは「資料保管室」とされていた。鍵は大典儀だけが持っていた。大司教でさえ、中に入ったことはない。
大典儀は扉を開けた。
部屋の中は、壁一面が棚だった。びっしりと並んだ硝子の瓶。色とりどりの液体。乾燥した植物の標本。古い羊皮紙。そして——棚の奥に、一つだけ鍵のかかった箱があった。
大典儀はその箱を取り出した。
鍵を開けた。
中には、小さな水晶の瓶があった。透明な液体が入っている。光を受けて、かすかに紫がかって見える。
百年をかけて作り上げた、人工毒の集大成だった。
一滴でも体外に出れば、半径十間の空気が死ぬ。
大典儀はその瓶を、静かに手のひらに載せた。
(……ロルフ殿は、私の毒を破った)
手のひらの上で、瓶が揺れた。
(地脈と繋がっていない毒。それが、変換された。どうやって——)
研究者としての頭が、まだ回っていた。敗北した瞬間も、なぜ負けたかを考えていた。百年間そうしてきた。考え続けることが、自分の存在理由だった。
しかし——今は。
(もう、いい)
大典儀は瓶の栓を外した。
中庭に、シオンがいた。
ロルフを膝の上に抱えて、座っていた。
ロルフの呼吸は浅かった。変換できない毒が全身に回っている。しかし死ぬほどではない——シオンにはそれがわかった。毒については、誰よりもわかる。
エリザが隣に膝をついていた。
「……呼吸は安定しています」
「はい」
「毒の広がりは」
「止まってます。ゆっくり抜けていく」
メビウスが中庭の入口に立って、廊下の様子を見張っていた。
静かだった。
シオンはロルフの顔を見ていた。眠っているような顔だった。眉間の皺が、少し薄くなっていた。緊張が解けているのだろう。
(……また、土の上で倒れた)
シオンはロルフの手を握った。
冷たかった。いつもより冷たかった。
揺れた。
最初は、小さかった。石畳がかすかに震える程度。
シオンが顔を上げた。
エリザが立ち上がった。
「……地震ですか」
「違います」
シオンが、空気の変化を感じていた。毒の気配だった。しかし方向がわからないほど、広がっていた。
「……大典儀です」
メビウスが廊下から駆け込んできた。
「異変があります。王宮の北棟の方から——廊下の植物が、一斉に枯れ始めていると」
シオンの目が、鋭くなった。
王宮の北棟。大典儀の研究室がある方角。
「ロルフさんを起こします」
「まだ無理です」とエリザが言った。「毒が——」
「起こします」
シオンがロルフの肩を揺らした。
「旦那様。起きてください」
ロルフが、動かなかった。
「旦那様」
シオンはロルフの手を両手で包んで、自分の体内の毒を少しだけ流し込んだ。毒ではなく——熱として。体温として。
ロルフの眉が、動いた。
「……やれやれ」
目が、開いた。
「起きましたか」
「……シオン、今、何かが」
「わかってます。大典儀が何かしてます」
ロルフが身を起こそうとした。エリザが腕を掴んだ。
「待ってください。まだ毒が——」
「わかってます」
ロルフはエリザの手を静かに外して、クワを掴んだ。立ち上がろうとした。足が言うことを聞かなかった。シオンが肩を貸した。
ロルフは立った。
右腕の痺れは変わらなかった。背中の痛みも変わらなかった。それでも、立った。
(……土が、死んでいく)
庭師の感覚が、王宮全体の変化を告げていた。北棟の方向から、土の息吹が消えていく。地脈が圧迫されている。人工毒が、土に染み込んでいく。
「行きます」
「一人では」とシオンが言った。
「一緒に来て」
廊下は、変わっていた。
両側の鉢植えが、すべて枯れていた。昨日まで偽物の命を保っていた植物が、今朝は完全に黒ずんで、葉が粉のように崩れている。石畳の目地から、白い煙のようなものが立ち上っていた。
人工毒だった。
濃度が、昨日の戦闘とは比べ物にならなかった。
メビウスが咳をした。エリザが袖で口を覆った。
「……これは人間にも——」
「少しずつなら大丈夫です。長くいると、よくない」
ロルフはクワの石突きを廊下の床に当てた。土の感触を探った。石畳の下の土が、死んでいく速度を確かめた。
(速い。この速度だと、王宮全体の土が——一刻以内に)
「エリザ、メビウスさん。王宮の人間を外に出してください。できるだけ早く」
「あなたは」
「行きます」
エリザがロルフを見た。一瞬だけ、言い返そうとした。しかし何も言わなかった。
「……わかりました。カッサンに協力を頼みます」
エリザとメビウスが、廊下を走っていった。
ロルフとシオンが、北棟へ向かった。
廊下を進むほど、毒の濃度が上がった。石畳のひびが増えた。天井から石の粉が落ちた。
シオンが、ロルフの腕を掴んで歩いた。
「……旦那様、シオンの毒、使いますか」
「まだいい」
「まだって」
「もう少し様子を見てから」
シオンが、ロルフの横顔を見た。
ロルフは廊下の先を見ていた。集中している顔だった。何かを考えている顔だった。昨日の戦闘で「何も考えなかったら通った」という経験を、今、どう扱えばいいか——その答えをまだ探している顔だった。
北棟の突き当たりに、扉があった。
扉の隙間から、白い靄が漏れていた。
ロルフが扉を開けた。
部屋の中は、白かった。
棚が崩れていた。硝子の瓶が割れていた。床に液体が広がっていた。天井に毒が滞留して、靄になっていた。
部屋の中央に、大典儀がいた。
立っていた。しかし、さっきとは違った。
体から、白い霧が立ち上っていた。人工毒が、体の外に滲み出していた。肌が青ざめていた。手が震えていた。
大典儀が、ロルフを見た。
「……来ましたか」
「来ましたよ」
「意識が戻ったんですね」
「戻りました」
大典儀が、かすかに笑った。
「……では、始めましょう」
大典儀が両腕を広げた。
部屋全体の毒が、渦を巻いた。
ロルフはシオンを後ろに下がらせて、クワを構えた。
毒が来た。昨日とは桁が違った。凝縮ではなく、飽和だった。空気そのものが毒になっていた。
等価交換を試みた。
通らなかった。
(……まだ足りない。何かが、まだ足りない)
跳んで躱した。壁に毒が当たった。石が溶けた。
また来た。前に出た。クワで受けた。衝撃が全身に来た。右腕の痺れが爆発したように広がった。
クワを持ち直した。
(昨日は——何も考えていなかった。目の前のものを変えようとした。それだけだった)
毒を見た。
毒だと思った瞬間に、頭が「変換できない」と答えた。
(……違う。見方を変える)
もう一度見た。
エネルギーがある。形が偏っている。地脈から切れて、行き場を失っているエネルギーがある。
クワを振った。
少しだけ、通った。
昨日と同じ、一瞬の感触だった。
大典儀が、目を細めた。
「……やはり」
大典儀が、動きを変えた。
広域に散らすのをやめた。代わりに——自分の体に、残りの人工毒を全量、流し込み始めた。
体から立ち上る霧が、濃くなった。大典儀の肌が、さらに青ざめた。老化が始まっていた。百年以上の時間が、体に追いついてきていた。
「大典儀」
ロルフが言った。
「……何ですか」
「それをやったら、体が持ちません」
「知っています」
「なぜ」
大典儀が、ロルフを見た。
「……最後くらいは、自分の意志で終わりたい。誰かの道具として終わるより」
ロルフは何も言わなかった。
大典儀が全量を解放した。
部屋が、白くなった。
視界が消えた。毒が、空気を塗りつぶした。
「旦那様——!」
シオンの声が、後ろから来た。
ロルフはクワを両手で握った。
(……毒か薬か、関係ない。目の前に、エネルギーがある)
何も考えなかった。
クワを振った。
——通った。
今度は、一瞬ではなかった。
クワを通じて、床の土が応えた。王宮の中庭の土と繋がっている。地脈が解放されてから息を吹き返した土と、繋がっている。大典儀の人工毒が——土に触れた瞬間に、形を変えた。養分になった。エネルギーが、行き場を見つけた。
白い靄が、床へ向かって流れ始めた。
土が、黒くなった。
部屋の床全体が、じわじわと黒く湿っていく。枯れていた棚の植物の根が、死んだ土の中でかすかに動いた。
大典儀の体から、毒が抜けていった。
支えていたものが消えた体が、崩れるように膝をついた。
ロルフは大典儀の前に歩いていった。
膝をついた大典儀は、小さく見えた。百年以上生きてきた体が、毒を失った途端に老化を一気に取り戻していた。髪が白くなった。手の甲に皺が増えた。
ロルフがその前にしゃがんだ。
大典儀が、ロルフを見た。
「……負けましたね」
「そうですね」
「どうやって」
「わかりません」
大典儀が、かすかに笑った。
「……正直ですね」
「本当にわからないんですよ」
シオンが、ロルフの隣に来た。
大典儀がシオンを見た。
長い、長い沈黙があった。
「……神子殿」
シオンが、大典儀を見た。
「私は百年、あなたの一族の力を研究していました。あなたの先祖の血を、少しずつ自分に注いで、老いることを止めて、神に近づこうとしていた」
「……はい」
「その研究を、唆した者がいます。神の力に近づければ、毒と癒しを統合できる——そう教えた者が」
シオンの目が、静かになった。
「……あの方、と言っていましたね」
「知っていましたか」
「ヴェルン様から、少しだけ」
大典儀が、目を閉じた。
「私は百年、利用されていた。神に近づくどころか——神が引き裂いたものを、引き裂いたまま維持するための道具として。死んだ毒を世界に増やして、本物の統合を遠ざけるための」
部屋が静かだった。
「……気づいていましたか」とシオンが聞いた。
「薄々は」と大典儀は言った。「認めれば、百年が無駄になる。だから、認めなかった」
ロルフが、黙って聞いていた。
「……神子殿」
「はい」
「あなたの一族の力は——本物です。私が作ったものとは、根本が違う。地脈と繋がっている、本物の力です」
シオンが、何も言わなかった。
「それを、怖れないでください。怖れる必要はない。……私のように、模倣しようとする必要もない」
大典儀の声が、かすれていた。
「ただ——」
「ただ?」
「あの方は、まだいます。私が倒れても、終わりではない」
シオンが頷いた。
「……知っています」
大典儀が、目を閉じた。
ロルフが、大典儀の肩に手を当てた。
「……君の根は、まだ生きてる」
大典儀が、目を開けた。
「庭師は、雑草でも根が生きていれば抜かない、ということですか」
「そういうことです」
大典儀が、また笑った。今度は、さっきより少し深く。
「……優しいですね」
「庭師の作法ですよ」
大典儀の目が、静かに閉じた。
今度は、眠りに落ちる目だった。倒れたのではない。ただ——長いものを、ようやく降ろした、という目だった。
ロルフは立ち上がった。
部屋の床が、まだ黒く湿っていた。土の養分になった人工毒が、床の石の下の土に染み込んでいく。棚の奥で、枯れかけていた植物の根が、かすかに動いていた。
シオンが、大典儀を見ていた。
「……終わりましたね」
「この人については、ね」
「この人については」とシオンが繰り返した。「まだ続く、ということですね」
「そうですね」
シオンが、ロルフを見た。
「旦那様、右腕」
「後で」
「後でって——」
「大司教にまだ会いに行かないといけないから。その後で」
シオンが溜息をついた。
「……わかりました。でも、その前に少し毒を抜かせてください」
「どうぞ」
シオンがロルフの右手首を両手で包んだ。
窓の外で、王宮の中庭が見えた。
中庭の土が、朝の光を受けて、黒く湿っていた。
地脈が、その下を流れていた。
昨日より、深く。
廊下に出ると、カッサンが立っていた。
王宮の人間を外に誘導して、戻ってきたのだろう。大典儀の研究室の扉を見て、それからロルフを見た。
「……終わりましたか」
「大典儀については」
カッサンが、扉の向こうを見た。
「……大典儀様は」
「生きています。しばらく眠ると思います」
カッサンが、小さく息を吐いた。安堵でも悲しみでもない、複雑な息の吐き方だった。
「大司教に、話があります」とロルフは言った。「今から会えますか」
「……大司教は謁見の間に。ずっと、そこにいます」
「待っていたんですか」
「……はい。何かが終わるのを」
ロルフは頷いた。
「では、行きましょう」
廊下を歩いた。
枯れた鉢植えが並んでいた。しかし床の石畳の目地から、かすかな緑が滲んでいた。
大典儀の人工毒が養分になって、地脈に還ったせいだろう。死んだものが土に帰って、また別の命の糧になっていく。
シオンが、その緑に気づいて立ち止まった。
「……苔ですね」
「そうですね」
「ここにも、出てきました」
「どこにでも出てきますよ。土が戻れば」
シオンが、小さく笑った。
ロルフはその横顔を見てから、また歩き出した。
右腕がまだ痛かった。背中がまだ疼いていた。
それでも、歩いていた。
謁見の間が、廊下の先にあった。




