第47話:満身の庭師、覚醒の片鱗
枯れ木亭の天井は、染みだらけだった。
ロルフは仰向けに寝たまま、その染みを眺めていた。
右腕が重かった。変換できない毒が、まだ完全には抜けていない。等価交換で少しずつ中和しているが、燃料が足りない。シオンの毒を借りれば早いが——シオンを起こしたくなかった。
隣の簡易寝台で、シオンが眠っている。
看病で一晩起きていたのだろう。ロルフが意識を取り戻した頃にはもう夜が明けていて、シオンはロルフの手を握ったまま、椅子の上で眠り込んでいた。そのまま寝台に移して寝かせた。手を離すとき、シオンが一瞬だけ眉を動かした。それだけだった。
天井の染みを見ながら、ロルフは考えていた。
(大典儀の毒は——等価交換が通らなかった)
右腕を動かしてみた。指先まで、痺れがある。
(地脈と切れているから、とあの男は言った。生きた毒と死んだ毒の違い)
ロルフは目を閉じた。
シオンの寝息が聞こえている。枯れ木亭の主人が階下で動いている音がする。朝の王都が、窓の外でゆっくりと動き始めている。
(生きた毒と、死んだ毒。境界は——何だ)
等価交換とは、価値の付け替えだ。毒を別のエネルギーに変換する。しかしそれは、「毒だ」と認識したものを変換していた。
(……待て)
天井の染みが、視界の端に映っている。
(僕は何を「毒」と見なしているんだ。シオンの体内のエネルギーを、最初から「毒」と呼んでいた。でも——シオンが最初に力を使えたのは、僕が「これは毒じゃない、燃料だ」と見た瞬間だった)
思い出した。最初にシオンの毒を変換したとき。ロルフが「君の毒を、僕のクワに乗せるんだ」と言って、シオンが手を当てた瞬間。あのとき、ロルフの中で何かが——
(見方を、変えた)
窓から光が差し込んできた。朝の光だった。
(毒か薬かは——物の性質じゃない。どう見るかで、変わる。同じ植物が、量によって薬にも毒にもなる。毒草を肥料にしてきたのも、同じことだ)
右腕に力を入れた。痺れが走った。
(大典儀の毒が「死んでいる」と思っているのは、僕自身だ。地脈と切れているのは本当だとしても——エネルギーとしては存在している。「死んだ毒」と見るから変換できない。「偏ったエネルギー」と見れば——)
そこで思考が止まった。
やり方が、まだ見えない。頭でわかっても、体がついてくるかどうかわからない。
シオンが、寝台の上で寝返りを打った。
ロルフは横を向いてシオンを見た。
眠っている顔だった。緊張が抜けて、年相応の顔になっていた。
(……大丈夫だ。この子がいれば——いや)
ロルフは目を戻した。
(今日は、一人でやる)
朝食の時間に、シオンが目を覚ました。
目を開けて、まずロルフを見た。ロルフが起きていることを確認して、それから溜息をついた。
「……いつから起きてましたか」
「夜明け前から」
「なぜ起こしてくれないんですか」
「眠っていたから」
シオンが身を起こした。ロルフの右腕を見た。まだ腫れている。シオンの目が、心配と怒りの中間のような表情になった。
「毒、まだ残ってますね」
「少しずつ抜けてるよ」
「貸してください」
「どうぞ」
シオンがロルフの右手首を両手で包んだ。体内の毒が、シオンの手のひらを通じて引き出されていく。シオンが顔をしかめた。変換できない毒を、シオンの体が受け取って分解している。
「……シオン、無理しなくていい」
「無理してません」
「顔に出てるよ」
「出てません」
しばらくして、シオンが手を離した。右腕の痺れが、半分ほど薄れた。
「……ありがとう」
「……今日、また行くつもりですか」
ロルフは答えなかった。
シオンが、ロルフを見た。
「行くんですね」
「うん」
「止めても」
「止まらないよ」
シオンが、少し間を置いた。
「……わかりました。一緒に行きます」
「シオンは——」
「一緒に行きます」
ロルフは言い返せなかった。
枯れ木亭の主人が、朝食を二人分持ってきた。
パンと、薄い肉のスープ。シンプルだったが、聖灰の匂いがしなかった。主人が食材を選んでいるのだろう。
主人はロルフの腕を見て、何も言わなかった。ただ、スープを多めによそって置いていった。
ロルフはスープを飲みながら、窓の外を見た。
職人街の朝だった。昨日より、空気が少しだけ変わっている。地脈が動き続けている証拠だ。通りの石畳の目地に、うっすらと緑が滲み始めている。
「……出発は昼過ぎにしましょう」
シオンが、スープを飲む手を止めた。
「今日は向こうから呼ばれていません」
「呼ばれなくてもいいですよ。庭師は、害虫が待っていなくても草むしりをします」
シオンが、小さく息を吐いた。
「……わかりました」
昼過ぎ、エリザとメビウスが枯れ木亭に来た。
二人ともロルフの状態を見て、表情が変わった。
「……本当に行くつもりですか」とエリザが言った。
「はい」
「腕が」
「動きます」
「昨日、意識を失いましたよね」
「今日は失わないようにします」
エリザが、溜息をついた。豊村での修行の頃と同じ、師匠に呆れたときの溜息だった。
「……私も同行します」
「王女が来ると、また大事になります」
「昨日もなりました。今さらです」
メビウスが静かに言った。「私も参ります。記録係として」
ロルフはクワを持ち上げた。右腕に力を入れる。痺れが走ったが、持てた。
「では、参りましょう」
王宮の正門を、昨日と同じように通った。
カッサンが、正門の前で待っていた。
ロルフの腕を見て、一瞬だけ目を伏せた。
「……ご無理をなさっています」
「お互い様です」とロルフは言った。「昨日、助けていただきました」
カッサンが、何も言わなかった。
「中庭に通してもらえますか。大典儀に、続きをしに来た、と伝えてください」
「……承知しました」
廊下を歩いた。石段を下りた。
一歩ごとに、右腕の痺れが響いた。背中の打撲が疼いた。呼吸が浅かった。
シオンが、ロルフの左側を歩いていた。何も言わなかった。ただ、歩いていた。
石段の底まで下りて、中庭の扉が見えた。
扉は、開いていた。
中庭に、クワがあった。
昨日ロルフが倒れた場所に、石突きを土に刺したまま、立っていた。
ロルフは扉の前で止まった。
クワを見た。朝の光と昼の光を一晩受けて、柄の木が少しだけ乾いていた。しかし土に刺さった石突きの周りは、黒く湿っていた。地脈が通っている土の色だった。
ロルフは中庭に入って、クワに歩み寄った。柄を掴んだ。引き抜いた。
土の感触が、手のひらに来た。
(……変わっていない。昨日倒れた土と、同じ土だ)
「来ましたよ」
ロルフは中庭に向かって言った。
石壁の奥から、大典儀が現れた。
白い衣。昨日と同じ姿。その目が、ロルフを見た。腕を見た。歩き方を見た。
「……無理をしていますね」
「昨日のお返しです」
「続けるつもりですか」
「そのつもりで来ました」
大典儀が、少しだけ表情を動かした。何の感情かは、読めなかった。
「……わかりました」
シオンがエリザとメビウスと共に石壁際に下がった。
ロルフと大典儀が、中庭の中央で向き合った。
昨日と同じ五歩の距離。しかし昨日と違うのは——ロルフが右腕に痺れを抱えたまま、正面から立っていることだった。
大典儀が右手を上げた。
凝縮した毒が、指先に集まる。
ロルフはクワを構えた。等価交換の準備をした。——通らないとわかっている。わかっていて、構えた。
大典儀が毒を放った。
ロルフは横に跳んだ。右腕が痺れて、着地の衝撃を吸収しきれなかった。膝をついた。すぐに立った。
「……昨日より、動きが鈍い」
「知っています」
また毒が来た。今度は前に出た。クワを盾にした。衝撃が来た。右腕に響いた。歯を食いしばった。
等価交換を試みた。——やはり通らない。
(毒と見るから通らない。では——)
もう一撃来た。躱した。中庭の石畳を走った。昨日足場を崩した場所を避けながら、大典儀の動きを追った。
(偏ったエネルギーだと見れば——)
試した。クワを振った。
通らなかった。
(違う。まだ何かが——)
毒が肩を掠めた。外套が焦げた。痛みが走った。
シオンが、石壁際で唇を噛んでいた。
エリザが隣に立っていた。声をかけなかった。
ロルフが押されていた。昨日より体が動いていない。それでも止まらなかった。転びそうになって、立った。クワを持ち直して、また構えた。
「……シオン」
エリザが静かに言った。
「はい」
「あなたが行けば、ロルフ殿は楽になります」
「……わかっています」
「それでも」
「ロルフさんが、今日は一人でやると思っています」
エリザが、シオンを見た。
「根拠は」
「……わかりません。でも、そう思っています」
ロルフは追い詰められていた。
右腕の痺れが増していた。毒を一発受けるたびに、変換できないまま体に積もっていく。呼吸が上がっていた。
大典儀が、距離を詰めてきた。
「……終わりにしましょう」
昨日と同じ言葉だった。
大典儀が右手を振りかぶった。
ロルフはクワを両手で持った。右腕が言うことを聞かない。それでも、握った。
毒が来た。
ロルフはクワを振った。
——何も考えていなかった。
等価交換がどう通るか、毒をどう見るか、そういうことを考える余裕が、もうなかった。ただ、クワを振った。目の前のものを、変えようとした。それだけだった。
何かが、動いた。
(……え)
ロルフの手のひらに、聞いたことのない感触が来た。クワを通じて、何かが通った。大典儀の毒が——変換された。
形が変わった。中庭の土に触れて、そのまま土に吸い込まれていった。
一瞬だった。
大典儀が、動きを止めた。
ロルフも、止まっていた。
クワを持ったまま、自分の手のひらを見た。
(……何が、起きた)
わからなかった。何をしたのか、自分でもわからなかった。同じことをもう一度やれと言われても、やれる気がしなかった。
大典儀が、ロルフを見ていた。
その目に——虚無の奥で、何かが揺れた。百年をかけて積み上げてきた研究者として。自分が作り上げた「完璧な死んだ毒」が、一瞬だけ破られた瞬間を、見た目だった。
「……もう一度」
大典儀が言った。
今度は両手を使った。先ほどの倍の密度の毒が凝縮されていく。
ロルフは右腕の痺れを感じながら、クワを構えた。
(……さっきは、何も考えていなかった)
また、何も考えないようにした。毒か薬か、死んでいるか生きているか、そういう区別を、頭から追い出した。
目の前に、エネルギーがある。それだけ見た。
大典儀が毒を放った。
ロルフはクワを振った。
——通った。
今度は一瞬ではなかった。中庭の土が、ざわりと動いた。大典儀の毒が土に触れて、養分に変わっていく。中庭の古木の根元で、苔が僅かに色を濃くした。
大典儀が、後退った。
大典儀の足が、石畳の端で止まった。
百年以上生きてきた体が、初めて後退っていた。
ロルフはクワを持ったまま、立っていた。右腕が限界だった。もう一度クワを振れるかどうか、わからなかった。呼吸が乱れていた。膝が笑っていた。
大典儀が、ロルフを見た。
長い沈黙があった。
その目の奥で——何かが、動いた。
虚無ではなかった。百年をかけて積み上げてきたものが、崩れていく音がするような——そういう目だった。研究者の目ではなく、追い詰められた人間の目だった。
「……失礼します」
大典儀が、踵を返した。
歩き方が、今までと違った。余裕がなかった。廊下の奥へ、足早に消えていく。振り返らなかった。
その背中が——何かを決めた人間の背中だった。
ロルフはその背中を見ていた。
(……あの男、何かしようとしている)
考えようとした。
右腕の痺れが、急に広がった。体中の変換できない毒が、一気に上がってきた。戦闘が終わった瞬間に、張り詰めていたものが緩んだのだろう。
膝が、折れた。
シオンの声が聞こえた。
「旦那様——!」
中庭の土が、また視界に来た。
(……やれやれ。また、土の上か)
ロルフの意識が、静かに落ちた。
大典儀の足音が、王宮の奥へ向かって、遠ざかっていった。




