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十年間、王都の魔力汚染を密かに抑えていた農夫を『毒草使いの無能』と追放した結果→王都、崩壊寸前。僕は毒の神子と辺境を黄金の楽園にしてるので、今さら戻れと言われても手遅れです  作者: ジュライ
毒草使いは、世界の価値を書き換える

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第47話:満身の庭師、覚醒の片鱗

 枯れ木亭の天井は、染みだらけだった。


 ロルフは仰向けに寝たまま、その染みを眺めていた。


 右腕が重かった。変換できない毒が、まだ完全には抜けていない。等価交換で少しずつ中和しているが、燃料が足りない。シオンの毒を借りれば早いが——シオンを起こしたくなかった。


 隣の簡易寝台で、シオンが眠っている。


 看病で一晩起きていたのだろう。ロルフが意識を取り戻した頃にはもう夜が明けていて、シオンはロルフの手を握ったまま、椅子の上で眠り込んでいた。そのまま寝台に移して寝かせた。手を離すとき、シオンが一瞬だけ眉を動かした。それだけだった。


 天井の染みを見ながら、ロルフは考えていた。


 


(大典儀の毒は——等価交換が通らなかった)


 右腕を動かしてみた。指先まで、痺れがある。


(地脈と切れているから、とあの男は言った。生きた毒と死んだ毒の違い)


 ロルフは目を閉じた。


 シオンの寝息が聞こえている。枯れ木亭の主人が階下で動いている音がする。朝の王都が、窓の外でゆっくりと動き始めている。


(生きた毒と、死んだ毒。境界は——何だ)


 等価交換とは、価値の付け替えだ。毒を別のエネルギーに変換する。しかしそれは、「毒だ」と認識したものを変換していた。


(……待て)


 天井の染みが、視界の端に映っている。


(僕は何を「毒」と見なしているんだ。シオンの体内のエネルギーを、最初から「毒」と呼んでいた。でも——シオンが最初に力を使えたのは、僕が「これは毒じゃない、燃料だ」と見た瞬間だった)


 思い出した。最初にシオンの毒を変換したとき。ロルフが「君の毒を、僕のクワに乗せるんだ」と言って、シオンが手を当てた瞬間。あのとき、ロルフの中で何かが——


(見方を、変えた)


 窓から光が差し込んできた。朝の光だった。


(毒か薬かは——物の性質じゃない。どう見るかで、変わる。同じ植物が、量によって薬にも毒にもなる。毒草を肥料にしてきたのも、同じことだ)


 右腕に力を入れた。痺れが走った。


(大典儀の毒が「死んでいる」と思っているのは、僕自身だ。地脈と切れているのは本当だとしても——エネルギーとしては存在している。「死んだ毒」と見るから変換できない。「偏ったエネルギー」と見れば——)


 そこで思考が止まった。


 やり方が、まだ見えない。頭でわかっても、体がついてくるかどうかわからない。


 シオンが、寝台の上で寝返りを打った。


 ロルフは横を向いてシオンを見た。


 眠っている顔だった。緊張が抜けて、年相応の顔になっていた。


(……大丈夫だ。この子がいれば——いや)


 ロルフは目を戻した。


(今日は、一人でやる)


 


 朝食の時間に、シオンが目を覚ました。


 目を開けて、まずロルフを見た。ロルフが起きていることを確認して、それから溜息をついた。


「……いつから起きてましたか」


「夜明け前から」


「なぜ起こしてくれないんですか」


「眠っていたから」


 シオンが身を起こした。ロルフの右腕を見た。まだ腫れている。シオンの目が、心配と怒りの中間のような表情になった。


「毒、まだ残ってますね」


「少しずつ抜けてるよ」


「貸してください」


「どうぞ」


 シオンがロルフの右手首を両手で包んだ。体内の毒が、シオンの手のひらを通じて引き出されていく。シオンが顔をしかめた。変換できない毒を、シオンの体が受け取って分解している。


「……シオン、無理しなくていい」


「無理してません」


「顔に出てるよ」


「出てません」


 しばらくして、シオンが手を離した。右腕の痺れが、半分ほど薄れた。


「……ありがとう」


「……今日、また行くつもりですか」


 ロルフは答えなかった。


 シオンが、ロルフを見た。


「行くんですね」


「うん」


「止めても」


「止まらないよ」


 シオンが、少し間を置いた。


「……わかりました。一緒に行きます」


「シオンは——」


「一緒に行きます」


 ロルフは言い返せなかった。


 


 枯れ木亭の主人が、朝食を二人分持ってきた。


 パンと、薄い肉のスープ。シンプルだったが、聖灰の匂いがしなかった。主人が食材を選んでいるのだろう。


 主人はロルフの腕を見て、何も言わなかった。ただ、スープを多めによそって置いていった。


 ロルフはスープを飲みながら、窓の外を見た。


 職人街の朝だった。昨日より、空気が少しだけ変わっている。地脈が動き続けている証拠だ。通りの石畳の目地に、うっすらと緑が滲み始めている。


「……出発は昼過ぎにしましょう」


 シオンが、スープを飲む手を止めた。


「今日は向こうから呼ばれていません」


「呼ばれなくてもいいですよ。庭師は、害虫が待っていなくても草むしりをします」


 シオンが、小さく息を吐いた。


「……わかりました」


 


 昼過ぎ、エリザとメビウスが枯れ木亭に来た。


 二人ともロルフの状態を見て、表情が変わった。


「……本当に行くつもりですか」とエリザが言った。


「はい」


「腕が」


「動きます」


「昨日、意識を失いましたよね」


「今日は失わないようにします」


 エリザが、溜息をついた。豊村での修行の頃と同じ、師匠に呆れたときの溜息だった。


「……私も同行します」


「王女が来ると、また大事になります」


「昨日もなりました。今さらです」


 メビウスが静かに言った。「私も参ります。記録係として」


 ロルフはクワを持ち上げた。右腕に力を入れる。痺れが走ったが、持てた。


「では、参りましょう」


 


 王宮の正門を、昨日と同じように通った。


 カッサンが、正門の前で待っていた。


 ロルフの腕を見て、一瞬だけ目を伏せた。


「……ご無理をなさっています」


「お互い様です」とロルフは言った。「昨日、助けていただきました」


 カッサンが、何も言わなかった。


「中庭に通してもらえますか。大典儀に、続きをしに来た、と伝えてください」


「……承知しました」


 


 廊下を歩いた。石段を下りた。


 一歩ごとに、右腕の痺れが響いた。背中の打撲が疼いた。呼吸が浅かった。


 シオンが、ロルフの左側を歩いていた。何も言わなかった。ただ、歩いていた。


 石段の底まで下りて、中庭の扉が見えた。


 扉は、開いていた。


 


 中庭に、クワがあった。


 昨日ロルフが倒れた場所に、石突きを土に刺したまま、立っていた。


 ロルフは扉の前で止まった。


 クワを見た。朝の光と昼の光を一晩受けて、柄の木が少しだけ乾いていた。しかし土に刺さった石突きの周りは、黒く湿っていた。地脈が通っている土の色だった。


 ロルフは中庭に入って、クワに歩み寄った。柄を掴んだ。引き抜いた。


 土の感触が、手のひらに来た。


(……変わっていない。昨日倒れた土と、同じ土だ)


「来ましたよ」


 ロルフは中庭に向かって言った。


 石壁の奥から、大典儀が現れた。


 白い衣。昨日と同じ姿。その目が、ロルフを見た。腕を見た。歩き方を見た。


「……無理をしていますね」


「昨日のお返しです」


「続けるつもりですか」


「そのつもりで来ました」


 大典儀が、少しだけ表情を動かした。何の感情かは、読めなかった。


「……わかりました」


 


 シオンがエリザとメビウスと共に石壁際に下がった。


 ロルフと大典儀が、中庭の中央で向き合った。


 昨日と同じ五歩の距離。しかし昨日と違うのは——ロルフが右腕に痺れを抱えたまま、正面から立っていることだった。


 大典儀が右手を上げた。


 凝縮した毒が、指先に集まる。


 ロルフはクワを構えた。等価交換の準備をした。——通らないとわかっている。わかっていて、構えた。


 大典儀が毒を放った。


 ロルフは横に跳んだ。右腕が痺れて、着地の衝撃を吸収しきれなかった。膝をついた。すぐに立った。


「……昨日より、動きが鈍い」


「知っています」


 また毒が来た。今度は前に出た。クワを盾にした。衝撃が来た。右腕に響いた。歯を食いしばった。


 等価交換を試みた。——やはり通らない。


(毒と見るから通らない。では——)


 もう一撃来た。躱した。中庭の石畳を走った。昨日足場を崩した場所を避けながら、大典儀の動きを追った。


(偏ったエネルギーだと見れば——)


 試した。クワを振った。


 通らなかった。


(違う。まだ何かが——)


 毒が肩を掠めた。外套が焦げた。痛みが走った。


 


 シオンが、石壁際で唇を噛んでいた。


 エリザが隣に立っていた。声をかけなかった。


 ロルフが押されていた。昨日より体が動いていない。それでも止まらなかった。転びそうになって、立った。クワを持ち直して、また構えた。


「……シオン」


 エリザが静かに言った。


「はい」


「あなたが行けば、ロルフ殿は楽になります」


「……わかっています」


「それでも」


「ロルフさんが、今日は一人でやると思っています」


 エリザが、シオンを見た。


「根拠は」


「……わかりません。でも、そう思っています」


 


 ロルフは追い詰められていた。


 右腕の痺れが増していた。毒を一発受けるたびに、変換できないまま体に積もっていく。呼吸が上がっていた。


 大典儀が、距離を詰めてきた。


「……終わりにしましょう」


 昨日と同じ言葉だった。


 大典儀が右手を振りかぶった。


 ロルフはクワを両手で持った。右腕が言うことを聞かない。それでも、握った。


 毒が来た。


 ロルフはクワを振った。


 ——何も考えていなかった。


 等価交換がどう通るか、毒をどう見るか、そういうことを考える余裕が、もうなかった。ただ、クワを振った。目の前のものを、変えようとした。それだけだった。


 何かが、動いた。


(……え)


 ロルフの手のひらに、聞いたことのない感触が来た。クワを通じて、何かが通った。大典儀の毒が——変換された。


 形が変わった。中庭の土に触れて、そのまま土に吸い込まれていった。


 一瞬だった。


 大典儀が、動きを止めた。


 


 ロルフも、止まっていた。


 クワを持ったまま、自分の手のひらを見た。


(……何が、起きた)


 わからなかった。何をしたのか、自分でもわからなかった。同じことをもう一度やれと言われても、やれる気がしなかった。


 大典儀が、ロルフを見ていた。


 その目に——虚無の奥で、何かが揺れた。百年をかけて積み上げてきた研究者として。自分が作り上げた「完璧な死んだ毒」が、一瞬だけ破られた瞬間を、見た目だった。


「……もう一度」


 大典儀が言った。


 今度は両手を使った。先ほどの倍の密度の毒が凝縮されていく。


 ロルフは右腕の痺れを感じながら、クワを構えた。


(……さっきは、何も考えていなかった)


 また、何も考えないようにした。毒か薬か、死んでいるか生きているか、そういう区別を、頭から追い出した。


 目の前に、エネルギーがある。それだけ見た。


 大典儀が毒を放った。


 ロルフはクワを振った。


 ——通った。


 今度は一瞬ではなかった。中庭の土が、ざわりと動いた。大典儀の毒が土に触れて、養分に変わっていく。中庭の古木の根元で、苔が僅かに色を濃くした。


 大典儀が、後退った。


 


 大典儀の足が、石畳の端で止まった。


 百年以上生きてきた体が、初めて後退っていた。


 ロルフはクワを持ったまま、立っていた。右腕が限界だった。もう一度クワを振れるかどうか、わからなかった。呼吸が乱れていた。膝が笑っていた。


 大典儀が、ロルフを見た。


 長い沈黙があった。


 その目の奥で——何かが、動いた。


 虚無ではなかった。百年をかけて積み上げてきたものが、崩れていく音がするような——そういう目だった。研究者の目ではなく、追い詰められた人間の目だった。


「……失礼します」


 大典儀が、踵を返した。


 歩き方が、今までと違った。余裕がなかった。廊下の奥へ、足早に消えていく。振り返らなかった。


 その背中が——何かを決めた人間の背中だった。


 ロルフはその背中を見ていた。


(……あの男、何かしようとしている)


 考えようとした。


 右腕の痺れが、急に広がった。体中の変換できない毒が、一気に上がってきた。戦闘が終わった瞬間に、張り詰めていたものが緩んだのだろう。


 膝が、折れた。


 シオンの声が聞こえた。


「旦那様——!」


 中庭の土が、また視界に来た。


(……やれやれ。また、土の上か)


 ロルフの意識が、静かに落ちた。


 大典儀の足音が、王宮の奥へ向かって、遠ざかっていった。

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