第46話:設計者の庭、死んだ毒
謁見の間の沈黙は、長くは続かなかった。
大司教が、机から手を離した。椅子を引いて、ゆっくりと立ち上がる。老いた体だが、背筋は真っすぐだった。玉座には座らず、机の前に立ったまま、ロルフを見た。
「……ロルフ殿、一つだけ聞かせてください」
「どうぞ」
「あなたは、この国が腐っていると思いますか」
ロルフは少し間を置いた。
「腐っている部分は、あります」
「では——その腐敗を、どうするつもりですか。あなたの村のように、一つ一つ手入れをしていけば、いつか治ると本気で思っていますか。貴族の腐敗を。権力の慢心を。民の諦めを」
大司教の声に、感情が滲んだ。抑えているが、滲んでいる。長年この国を見てきた人間の、積み上がった重みがある。
「私は——」
大司教が一歩、前に出た。
「この国を、一度更地にしようとしていました。結晶で依存を作り、地脈を掌握し、神子の力で腐った根をすべて焼き払う。痛みを伴う。犠牲も出る。しかし、焼いた後の土に、新しいものを育てる。それが私の答えでした」
静かな声だった。独白ではなく、説得の声だった。
「あなたと私は、同じことをしようとしていた。腐った根を除いて、本物のものを育てる。違いは——方法だけだと、私は思っています」
謁見の間が、静かだった。
エリザが、わずかに眉を寄せていた。メビウスが羊皮紙を持ったまま、動きを止めていた。シオンがロルフの少し後ろで、息を詰めていた。
ロルフは、大司教を見ていた。
嘘ではない。この男は本気だ。長い時間をかけて、本気でそれを信じてきた。その重さが、声に出ている。
だからこそ——
「……焼いた後の土で、何を育てるつもりでしたか」
ロルフが静かに聞いた。
「それは——」
「具体的に。どんな種を、どこから持ってきて、誰が世話をするつもりでしたか」
大司教が、口を閉じた。
「更地にすることは、考えていた。焼くことも、考えていた。でも——焼いた後に何を植えるか、どんな土にするか、そこまで設計していましたか」
沈黙が落ちた。
大司教の目の奥で、何かが揺れた。怒りではなかった。動揺でもなかった。——初めて、自分の設計の外側を見せられた人間の、静かな困惑だった。
「あなたには、種がない」
ロルフは、責めるような声では言わなかった。ただ、診断するように言った。
「更地を作ることと、庭を育てることは、別の仕事です。あなたは前者しか考えていなかった。……庭師として言えば、そういうことです」
大司教が、しばらく黙っていた。
ロルフは待った。
大司教が、ゆっくりと口を開いた。
「……では、ロルフ殿。一つ聞かせてください」
「はい」
「私たちが——教団が、癒しの神の正統であることを、あなたは否定しますか」
ロルフは少し考えてから言った。
「否定も肯定もしません。ただ——一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「教団が癒しの神の正統だという根拠は、古文書にあると聞いています。その古文書を、あなた自身が最後に読んだのはいつですか」
大司教が、眉をひそめた。
「……それは、管理している者が——」
「誰が保管していますか」
大司教が、答えようとして——止まった。
視線が、隣の大典儀に向いた。
大典儀は表情を変えなかった。ただ、静かに大司教を見ていた。
大司教が、ロルフに視線を戻した。その目に、さっきとは違う何かが入っていた。問いが、入っていた。自分で立てた問いが、自分の目に映っていた。
(……大司教は今、気づいた。自分が当然のように受け入れてきた事実の、その当然さを、確かめたことがないということに)
大典儀が、動いた。
音もなかった。
ただ、大典儀が一歩前に出た。それだけだった。
その一歩で、謁見の間の空気が変わった。
大司教が動きを止めた。エリザが半歩下がった。メビウスが羊皮紙を下ろした。シオンが、ロルフの袖を掴もうとして——
「シオン、下がって」
ロルフが静かに言った。
「で、も——」
「下がっていてください」
シオンが、一瞬だけロルフを見た。それから、エリザの隣まで下がった。
大典儀が、ロルフの正面に立った。
二人の間に、五歩ほどの距離がある。
「……大司教」と大典儀が言った。振り返らずに。「少しだけ、お時間をいただけますか」
大司教が、何も言わなかった。
それが答えだった。
「実際に見ていただく方が、早いと思いまして」
大典儀が、右手を上げた。
指先に、何かが集まった。色はない。ただ、空気の密度が変わった。歪んだ、というより——凝縮した。
ロルフの鼻腔が、それを捉えた。
(……毒だ。神子の毒と、同じ構造をしている)
クワを構えた。等価交換の準備をした。この密度なら、変換できる。シオンの毒を借りなくても——
大典儀が、指先を向けた。
ロルフはクワを振った。
等価交換が——通らなかった。
(……なぜだ)
毒が、ロルフの右腕を掠めた。外套の袖が裂けた。皮膚に、焼けるような感触が走った。ロルフは体を回転させて距離を取った。
「不思議でしょう」
大典儀が、追いかけながら言った。声が穏やかだった。戦闘中の声ではない。説明している声だった。
「神子の毒は地脈と繋がっています。あなたのスキルは、地脈と繋がった生きたエネルギーを変換する。だから神子の毒には通じる」
ロルフが石柱の陰に入った。大典儀が回り込んでくる。
「しかし私の毒は——構造は神子の毒と同じですが、地脈との接続がない。『死んだ毒』です。あなたの等価交換は、死んだ毒には反応できない」
石柱の反対側から、凝縮した毒が来た。
ロルフは前に跳んだ。石柱が白く染まった。石の表面が、毒に触れた部分だけ侵食された。
(……本当に通らない。毒の構造は同じなのに、等価交換が空振りする。地脈との接続がない——つまり、大地から切り離されている)
「ロルフ殿、あなたに一つだけ聞きたいことがあります」
大典儀の声が、広い謁見の間に響いた。
「今ですか」
「今でないと——」
大典儀が右手を振った。
広域に毒が散った。ロルフは跳んで躱した。石畳が三枚、白く変色した。
「聞けないかもしれないので」
ロルフが着地して、すぐに横に走った。大典儀が追ってくる。石柱の間を縫いながら、謁見の間の奥から手前へ向かって移動する。
エリザとシオンとメビウスが、入口の扉の近くに集まっていた。カッサンが三人を壁際に誘導していた。
(あっちには向かわせない)
ロルフは大典儀から離れる方向ではなく、大典儀に向かって走った。
大典儀が、わずかに驚いた。その隙に、ロルフはクワを横に振った。
石畳に当たった。石畳の目地に染み込んだ聖灰を読んだ。変換できる——これは地脈と繋がっている、生きた素材だ。
石畳の目地が、一瞬だけ沈んだ。
大典儀の足が、わずかにずれた。
しかし大典儀は転ばなかった。片足で体重を受けて、そのまま毒を放った。
ロルフは躱しきれなかった。
毒が左肩に当たった。外套が焼け、肩に激痛が走った。
「……っ」
ロルフは歯を食いしばって走り続けた。等価交換で聖灰を変換して、石畳の一部を隆起させた。大典儀が跳んでそれを躱す。
謁見の間の出口が見えた。廊下に出れば——
「シオン、エリザ、先に出て」
エリザがシオンの手を引いて扉から出た。メビウスが後に続いた。カッサンが——一瞬、大司教の方を見た。大司教は机の前に立ったまま、動いていなかった。
「カッサン、大司教を連れて出てください」
カッサンが頷いた。大司教の腕を取って、扉の方へ向かった。
廊下に出た。
石柱がない分、遮蔽物がない。ロルフは廊下を走りながら、両側の鉢植えを見た。死んだ土。使えない。聖灰は廊下の石畳にも染み込んでいる——変換できる素材はある。
大典儀が廊下に出てきた。
「逃げるつもりですか」
「場所を変えたかっただけです」
ロルフはクワを後ろに向けたまま廊下を走った。床の聖灰を変換して、石畳を波打たせた。大典儀が跳んで躱す。跳躍力が人間のものではない。百年以上の鍛錬が、体に染み込んでいる。
石段が見えた。下りれば中庭に出る。
(中庭なら——土がある)
ロルフは石段へ向かった。
大典儀が追ってくる。廊下の鉢植えを蹴り飛ばしながら。鉢が割れた。偽物の土が廊下に散らばった。
石段の途中で、大典儀が大きく腕を振った。
「さすがに、ここまでにしましょう」
凝縮した毒が、今度は前と比べ物にならない密度で放たれた。
ロルフは躱す角度を計算した。狭い石段。左右に壁。上に逃げれば追いつかれる。前に出れば直撃する。
クワを盾にして、正面から受けた。
クワの柄を伝って、衝撃が全身に来た。等価交換が通らない毒が、そのままロルフの体に押しつけられた。
——吹き飛んだ。
石段を転がった。石の角が背中に当たった。石段の底まで落ちて、そのまま中庭の扉を突き破った。
冷たい空気が来た。
朝の光が来た。
ロルフは中庭の土の上に、仰向けで横たわっていた。
体が、重かった。
起き上がろうとして——右腕が言うことを聞かなかった。大典儀の毒が染み込んでいる。変換できない毒が、腕の中で燻っている。
左肩も痛かった。さっきの一撃の痺れが、まだ残っている。
空が、見えた。
朝の空だった。王宮の中庭の、高い石壁に囲まれた四角い空。
ロルフは、動けないまま、土の上に横たわっていた。
石壁の入口から、大典儀が歩いてくる音がした。急いでいない。追い詰めた側の、落ち着いた足音だった。
(……やれやれ)
起き上がろうとした。右腕に力を入れた。
入らなかった。
体が言うことを聞かない。変換できない毒が全身に回っている。等価交換で少しずつ中和できるはずだが——燃料がない。シオンの毒がない。一人では、この量を処理しきれない。
大典儀が、ロルフの前で立ち止まった。
見下ろしていた。
その目に、勝者の昂りはなかった。ただ——静かに、何かを見ている目だった。虫眼鏡で標本を見るような。百年をかけた研究の、最後の頁を確かめるような。
「……終わりにしましょう」
大典儀が言った。
右手を上げた。凝縮した毒が、指先に集まっていく。
ロルフは土の上で、起き上がる動作をやめた。
力が入らない。逃げられない。等価交換の燃料もない。
(……シオン)
遠くから——声が聞こえた気がした。建物の中から、廊下の奥から、石段を下りてくる足音。
「旦那様——!」
シオンの声だった。
ロルフは空を見たまま、小さく息を吐いた。
(来るな。まだ来るな)
声には出せなかった。声を出す力も、もう残っていなかった。
大典儀の指先の毒が、密度を増していく。
ロルフは目を閉じた。
土の感触が、背中にあった。冷たかった。
(……やれやれ。初めて、土の上で負けるとは)
シオンの足音が、近づいてくる。石段を駆け下りている。間に合うか、間に合わないか——
大典儀が、腕を振り下ろした。
衝撃が来た。
しかし、ロルフの体には当たらなかった。
大典儀が、わずかに眉を動かした。
中庭の入口に——カッサンが立っていた。
片手を前に出して、教団の護符を掲げていた。護符から薄い光の膜が広がって、毒の余波を受け止めていた。護符がひび割れていく。一度しか使えない類のものだ。
「……カッサン」
大典儀が、静かに言った。
「大典儀様」とカッサンが答えた。声が震えていた。しかし足は動いていなかった。「今日のところは、ここまでにしていただけますか」
「命令ですか」
「……お願いです」
大典儀が、カッサンを見た。
それからロルフを見た。
長い沈黙があった。
大典儀が、ゆっくりと手を下ろした。
「……大司教に、話を通しておいてください。次は、正式な場を設けます」
それだけ言って、大典儀は中庭から出ていった。
足音が遠ざかった。
シオンが中庭に駆け込んできた。
ロルフの隣に膝をついた。その手がロルフの肩を掴む。
「旦那様——! 旦那様、聞こえますか——」
「……聞こえています」
声が、かすれていた。
「動けますか」
「少し、待ってください」
「待てません」
シオンの手が、ロルフの頬に触れた。それから首筋に当たった。毒の浸透を確かめているのだろう。シオンは医術を知っているわけではないが——毒については、誰より敏感だ。
「……深く入ってます。早く」
「シオン」
「なんですか」
「来なくていい、と言ったのに」
シオンが、ロルフを見た。
泣きそうな顔をしていた。しかし泣かなかった。
「聞きませんよ、そんな言葉」
エリザが中庭に入ってきた。メビウスが後に続く。二人ともロルフの状態を見て、表情が変わった。
「運びます」とメビウスが言った。「枯れ木亭まで。教団の目を避けながら」
「カッサンさん」とエリザがカッサンに向かって言った。「大司教に伝えてください。今日はここまでです。次は、改めて場を設けると」
カッサンが頷いた。護符のひび割れた破片を、静かに握り締めていた。
シオンがロルフの上半身を支えた。メビウスが足を持った。
ロルフは運ばれながら、中庭の空を見ていた。
四角い空。石壁に囲まれた、小さな四角い空。
その端に、古木の枝が伸びていた。
今朝芽吹いた苔の根元から続く、古木の枝。
(……庭師が土の上で倒れるとは。やれやれ)
シオンの肩が、震えていた。支えながら、震えていた。泣いているのか、怒っているのか——両方かもしれなかった。
「シオン」
「なんですか」
「ごめんなさい」
シオンが、黙った。
しばらくして、小さな声で言った。
「……謝らないでください」
「でも」
「謝るより、早く良くなってください」
ロルフは、そうですね、と思ったが、声に出す前に意識が遠くなった。
運ばれながら、最後に見えたのは——シオンの横顔だった。
泣いていなかった。唇を結んで、前を見ていた。
(……大丈夫だ。この子は、大丈夫だ)
ロルフの意識が、静かに落ちた。
中庭の土の上に、クワだけが残った。
石突きが土に刺さったまま、朝の光の中で、静かに立っていた。




