第45話:偽りの庭、父と王女
王宮の廊下は、静かすぎた。
足音が石畳に吸い込まれるように消えていく。本来なら侍従や騎士が行き来するはずの廊下が、人の気配を失っている。すれ違う者は皆、目がぼんやりとしていた。歩く速度が遅い。呼びかけても一拍遅れて反応する。
ロルフは廊下を歩きながら、両側に並んだ鉢植えを一つずつ見ていった。
豪華だった。王宮の格式に相応しい、見事な花が咲いている。白い百合。深紅の薔薇。艶やかな葉をつけた観葉植物。どれも完璧な形をしていた。
完璧すぎた。
(……葉が動いていない。根が、土と対話していない)
ロルフはその中の一鉢に、指先だけを触れさせた。土の感触が返ってくる。水分はある。栄養もある。しかし、それだけだ。土が死んでいる。聖灰が長年染み込んで、土の中の微生物がいなくなっている。生きているように見える植物が、実際には土の死骸の上に立っているだけだ。
いつ倒れてもおかしくない。
「……やれやれ」
「どれも偽物ですか」とシオンが小声で聞いた。
「偽物というより——借り物の命ですね。自分の力で立っていない」
カッサンが前を歩きながら、その会話を聞いていた。振り返らなかった。
王の居室は、廊下の突き当たりにあった。
重い木の扉。扉の前に二人の衛兵が立っていたが、カッサンの顔を見て道を開けた。扉の前まで来たところで、カッサンが足を止めた。
「ここから先は……」
「私が入ります」
エリザが静かに言った。
カッサンが頷いた。
「ロルフ殿も、後ほどお入りいただく必要がありますが——最初は、王女殿下お一人で」
「わかっています」
エリザが扉に手をかけた。
ロルフはその横顔を見た。表情がない——正確には、表情を作らないようにしている顔だった。感情を整理する前に扉を開けないように、自分を制御している顔だ。
扉が、静かに開いた。
エリザが一人で中に入った。扉が閉まった。
廊下でロルフとシオンとカッサンが待った。
シオンが壁際に立って、両手を前で組んでいた。
ロルフは扉の横の壁に背中を預けた。
カッサンが少し離れたところで、床を見ていた。
廊下は静かだった。扉の向こうからは何も聞こえない。厚い木の扉が、すべての音を遮断していた。
ロルフは天井を見上げた。天井の梁に、蔦の模様が彫り込まれていた。本物の蔦ではない。石に刻まれた、蔦の形だけ。
(飾りだけが残って、本物がなくなった場所だ)
どのくらい待っただろうか。
扉が開いた。
エリザが出てきた。
表情は、変わっていなかった。整っていた。王女の顔をしていた。
ただ——目の端が、わずかに赤かった。
「ロルフ殿、入っていただけますか」
「はい」
王の居室は、甘い匂いが充満していた。
聖灰の匂いではない。もっと濃い、結晶の匂いだ。焦げた砂糖のような、しかし砂糖より重い匂い。ロルフの鼻腔が、その密度を計った。
(この部屋だけ、濃度が違う。外の廊下の三倍はある)
奥に、椅子があった。
王が座っていた。
かつて法廷で見た王とは、別人のようだった。玉座に腰かけていたときの、傲慢な威圧感がない。肘掛けのある椅子に深く沈み込んで、背もたれに頭を預けている。目が半開きで、焦点が合っていない。王衣は着ているが、着せられているという印象だった。
エリザが、ロルフの少し後ろに立った。
ロルフは王の前まで歩いていって、そこでしゃがんだ。王と目線を合わせるように。
王が、ゆっくりとロルフを見た。
何も映っていない目だった。人を見ているのではなく、人の形をした何かを見ている目だった。
ロルフはクワの石突きを、王の椅子の足元の床に静かに当てた。
床の石畳に染み込んだ結晶の粉の量を読んだ。廊下の何倍もある。壁際の床だけではなく、椅子の下の石畳が特に濃い。ここに毎日座り続けた時間の長さが、床の染み込み方にそのまま出ていた。
(……根が、完全に絡み取られている。急に引き抜けば、根ごと千切れる)
「エリザ」
ロルフが後ろを向かずに言った。
「はい」
「今すぐ解毒はできません。急に抜けば、体が持たない」
「……どのくらいかかりますか」
「毎日来れば、一週間から十日。少しずつ濃度を薄めていきます。焦ると根が傷む」
静かな声だった。診断の声だった。感情を乗せない、庭師の声。
エリザが何も言わなかった。
ロルフが立ち上がろうとしたとき、王が動いた。
ゆっくりと、頭を起こした。
焦点の合っていない目が、ロルフの後ろを見た。
エリザを見た。
一瞬だった。
ほんの一瞬だけ、王の目に何かが戻った。霞の向こうから、何かが手を伸ばしてきたような——そういう変化だった。
王の口が、動いた。
「……エリ」
それだけだった。
次の瞬間には、もう目が霞んでいた。頭が背もたれに戻っていた。手が膝の上でぐったりと落ちた。
結晶の霧が、また王を包んでいた。
廊下に出たとき、エリザは扉を閉めてから、しばらく動かなかった。
扉に手をついたまま、うつむいていた。
シオンが心配そうに見ていた。カッサンは目を逸らしていた。
ロルフは何も言わなかった。
エリザが、ゆっくりと顔を上げた。
目が赤かった。しかし声は乱れていなかった。
「……ロルフ殿」
「はい」
「一週間、来ていただけますか」
「来ます」
「お願いします」
それだけだった。
エリザは一度だけ深呼吸して、背筋を伸ばした。王女の顔に戻った。完全に戻った。
ロルフはその様子を見ながら、胸の内で静かに思った。
(……あの王は、娘の名前だけは、まだ覚えていた)
呼びかけた相手が「王女エリザ」ではなく「エリザ」だったことを、ロルフは聞いていた。
王としての判断でも、臣下への命令でもない。父親が、娘の名前を呼んだ——ただそれだけの声だった。
(やれやれ。どんな土でも、完全に死んでいることは、ない)
カッサンが、一行を謁見の間へと案内した。
廊下を曲がり、広い石段を下りる。石段の両脇に、また鉢植えが並んでいた。どれも死んだ土の上の、借り物の命だった。
シオンがロルフの隣を歩きながら、小声で言った。
「……王様、エリザさんのこと、わかったんですね」
「ほんの一瞬でしたけどね」
「でも——わかったんですよね」
「そうですね」
シオンが少し間を置いてから言った。
「毒が深く入っていても、根っこは残るんですね」
「そこを信じて解毒するんですよ」とロルフは言った。「根っこが生きていれば、土を入れ替えればまた育つ」
謁見の間の前に着いた。
重厚な両開きの扉。王家の紋章が彫り込まれている。金の装飾が施されているが、装飾の根元の石には聖灰が白く積もっていた。
カッサンが扉の前で振り返った。
「大司教は、中でお待ちです」
ロルフはクワを右手に持ち直した。
「一つだけ確認ですが——話し合いで済む方ですか」
カッサンが少し考えた。
「……大司教は、あなたと話し合いたいと思っています。それは本当です」
「話し合いで済むかどうか、とは聞いていません」
カッサンが、ロルフを見た。
「……大典儀が同席しています」
「それが答えですね」
ロルフは特に表情を変えなかった。
「やれやれ。まあ、庭師の仕事というのは、話が通じない根っこを抜くことも含まれますから」
エリザが、ロルフの隣に並んだ。
「私も入ります」
「お供します」とメビウスが後ろから言った。いつの間にか廊下の端に立っていた。
「メビウスさん、いつから」
「石段の下から。……万が一の際には、私が王女殿下をお守りします」
ロルフは一同を見渡してから、前を向いた。
「では、参りましょう」
扉が開いた。
謁見の間は、広かった。
高い天井。左右に並ぶ石柱。奥に玉座——しかし玉座には誰も座っていない。玉座の手前に、長い机が置かれていた。
机の向こうに、老人が立っていた。
白の法衣。老齢だが背筋が伸びている。顔の皺が深い。しかし目が——鋭かった。狂信者の目ではない。長い時間をかけて何かを考え続けてきた人間の、理知的な目だった。
それが大司教だとわかった。
大司教の隣に、もう一人いた。
若く見える男だった。白い衣をまとっている。三十代ほどに見えるが——その目の奥に、三十代の人間が持つはずのない、長い時間の重さがあった。
男がロルフを見た。
ロルフも、男を見た。
一瞬だけ、何かが通り過ぎた。この男は——自分のことを、知っている。
(研究していた、ということか)
「ようこそ、ロルフ殿」
大司教が口を開いた。
穏やかな声だった。迎える声だった。しかしその穏やかさの下に、何かが静かに張り詰めているのをロルフは感じた。
「……こちらこそ、お招きに感謝します」
「座ってください」
「立ったままで十分です」
大司教が少しだけ目を細めた。それから、静かに頷いた。
「では——直接話しましょう」
大司教が、机の上に両手を置いた。
「地脈を解放したことは、認めます。……しかし、ロルフ殿。今この瞬間も、王都の民は結晶に依存しています。依存から一気に断ち切られれば、禁断症状で死者が出る。あなたはそれを、望みますか」
ロルフは答えなかった。一拍置いてから、言った。
「……それは、わかっています」
「では——段階的な解毒を、私たちと共同で進めませんか。あなたの力と、私たちの組織を合わせれば、犠牲を最小限にしながら、この国を立て直すことができる」
一見、合理的な提案だった。
エリザが、わずかに眉をひそめた。メビウスが記録の羊皮紙を持ったまま、動きを止めた。
ロルフは大司教を見た。
本気だ、とロルフは思った。この男は、本当にそれが最善だと信じている。自分の提案が正しいと、本気で思っている。
だからこそ——
「根を腐らせた者がいる限り、また腐ります」
ロルフが静かに言った。
「……ロルフ殿」
「腐らせた者が手入れをすれば、しばらくは持つかもしれない。でも、同じ土の上に同じ手が入り続ければ、同じことになります。庭師として言えば、そういうことです」
大司教が沈黙した。
「……では、あなたはどうするつもりですか」
「根っこを、抜きます」
大司教の目が、変わった。
穏やかさが、消えた。その奥にあったものが、表に出てきた。長い時間をかけて作り上げてきたものを、正面から否定されたときの——静かな、しかし揺るぎない対峙の意志。
大司教が、隣の男に目をやった。
男が、ロルフを見た。
「やあ、ロルフ殿」
穏やかな声だった。しかし穏やかさの質が、大司教とは違った。
「ようやくお会いできた。あなたの等価交換、ずっと研究していましたよ」
ロルフはその目の奥を見た。
虚無があった。
研究し尽くして、勝利を確信している人間の目ではなかった。長い時間をかけて何かを積み上げてきて——その積み上げたものの、底に穴が開いていることを、うっすらと知っている人間の目だった。
(……この男は、何かを知っている。そして、それを認めたくない)
ロルフはクワを持ち直した。
「やれやれ。名前を聞いていませんでした」
「大典儀と申します」と男は言った。「以後、お見知りおきを」
謁見の間に、沈黙が落ちた。
石柱の向こうで、王宮の古木が、今朝芽吹いた苔の上に、静かに影を落としていた。




