第44話:夜明けの馬車、問いの種
馬車の内側は、思ったより狭かった。
向かい合わせの座席に、ロルフとシオンが並んで座り、カッサンが一人で向かいに座っている。御者台には教団の御者。窓の外に、夜明けの王都が流れていく。
しばらく、誰も口を開かなかった。
カッサンは膝の上で手を組んで、静かに前を向いていた。騒然とした農園の中で一人だけ動じていなかった人物らしく、閉じた馬車の中でも、その落ち着きは変わらなかった。
ロルフは窓の外を見ていた。
夜明けの光が、王都の石畳を斜めに照らしている。
変化は、小さかった。しかし確かにあった。
通りの端に植えられた街路樹。枯れているわけではないが、長いあいだ聖灰に蝕まれて、樹皮が白みがかっていた。その根元に、今朝は黒い土が少しだけ顔を出している。昨日まで石灰色に固まっていた土が、地脈の動きで微かにほぐれ始めているのだ。
朝の露が、石畳の目地に落ちている。
その露が、昨日より少しだけ、透き通って見えた。
(……小さい。だが、動いている)
ロルフは視線を馬車の内側に戻した。
「カッサンさん」
「はい」
「農園で作っていたものは、全部枯れましたね」
カッサンが、少しだけ間を置いた。
「……はい。今朝の報告では、農園の作物の大半が萎れているとのことでした」
「残念でしたか」
「……それは」
カッサンが、ロルフを見た。何を聞かれているのか測りかねている顔だった。
「農園の作物は、民に届けるためのものでしたから。それが失われたのは——」
「民に届けていたものが、本物だったとしたら、残念でしたね」
カッサンが、口を閉じた。
「あの作物が何だったかは、入って確かめましたから、わかっています」とロルフは続けた。穏やかな声で。「枯れたのは残念ではないですよ。ただ、枯れた後に何を育てるか、それが問題です」
「……おっしゃる通りです」
カッサンが静かに答えた。反論ではなく、認めている。しかし何かを考えているというより——そう答えるのが正しいと判断している、という感じの声だった。
馬車が大きな石畳の継ぎ目を越えて、揺れた。
シオンが窓の外を見ながら、小さく声を上げた。
「……あの木」
ロルフが視線を向けると、通りの角に一本の古木があった。幹の太さからして、王都が建てられた頃からそこにある木だろう。樹皮は長年の聖灰で白く粉を吹いていた。
だがその根元に——うっすらと、緑が見えた。
苔だった。
石畳の隙間から滲み出るように、薄い緑の苔が、根元をごく僅かに覆い始めていた。今朝、生えたものだ。昨日までそこにはなかった。
「……旦那様、苔ですよね」
「そうだね」
「苔が生えるということは」
「土に水が戻ってきているということです。地脈が動けば、まず苔から変わる。一番最初に土の変化に気づくのが苔だから」
シオンが、その木をじっと見つめていた。
馬車が通り過ぎると、木は後ろに流れていった。
カッサンが、窓の外を振り返るように少しだけ身体を動かした。しかし何も言わなかった。
しばらくして、カッサンが口を開いた。
「……ロルフ殿」
「はい」
「大司教は、本当にこの国を良くしようとしていた人です」
ロルフは答えなかった。聞いている、という姿勢だけを見せた。
「私が物心ついた頃から、大司教はそのために動いていました。腐敗した貴族への対抗手段として結晶を使い、王の依存を利用して政策を変え——手段は、正しくなかったかもしれない。しかし目的は」
「知ってますよ」
ロルフが静かに言った。
「大司教が本気だったことは、農園を見ればわかります。あれだけの規模を、長年維持してきた。本気でなければできない」
カッサンが、少し表情を緩めた。
「では——」
「だから、余計に始末が悪い」
カッサンの表情が止まった。
「本気で正しいと思っている人間の方が、間違えたときに深く根を張ります。自分が正しいと信じているから、立ち止まれない。……庭で言えば、雑草より始末が悪いのは、立派に育った木が間違った場所に根を張ったときです。抜くのが、一番難しい」
カッサンが、ロルフを見ていた。
反論しようとしている——ではない。何かを考えている。しかしその「何か」が、まだ言葉になっていない、という顔だった。
ロルフは少し待ってから、続けた。
「カッサンさん、一つ聞いていいですか」
「……はい」
「大司教が正しいと、あなた自身は思いますか」
沈黙が落ちた。
馬車の車輪が石畳を叩く音だけが、しばらく続いた。
カッサンは膝の上の手を、静かに組み直した。
「……大司教は」
「大司教ではなく、あなた自身の話を聞いています」
カッサンが、また黙った。
今度の沈黙は、さっきより長かった。
ロルフは急かさなかった。シオンも黙って、窓の外を見ていた。
カッサンがゆっくりと息を吐いた。
「……考えたことが、なかったかもしれません」
小さな声だった。独り言のような声だった。
「生まれたときから教団の中にいて、大司教のやっていることが正しいというのが、空気のようなものでしたから。……疑うという発想が、あまり」
「そうですか」
ロルフは特に何も言わなかった。
ただ、「そうですか」と言った。
それだけだった。それ以上は踏み込まなかった。
カッサンが、少し困ったような顔をした。追い詰められたのではなく——自分の中に、今まで気づかなかった空洞を見つけて、どうすればいいかわからない、という顔だった。
馬車が速度を落とした。
窓の外に、見慣れた通りが見えた。職人街だ。
ロルフは「枯れ木亭」の看板を窓越しに確認した。ここで一度降りる必要がある——メビウスとエリザに現状を伝えなければならない。
「カッサンさん、少し寄り道していいですか」
「……どちらへ」
「知り合いのところに。一時間もあれば終わります」
カッサンが少しだけ考えてから、頷いた。
「承知しました。御者に伝えます」
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王立土木事務所の地下倉庫に、メビウスとエリザがいた。
二人とも、一晩ほとんど眠っていない顔だった。しかし目が冴えている。王宮の古木が芽吹いたことや、各地の井戸の水が変わり始めたことなど、王都のあちこちから報告が届いていたのだろう。
ロルフとシオンが入ってくると、エリザが立ち上がった。
「……無事でしたか」
「おかげさまで」
「農園の地下に、何かあったんですね。王宮の中庭の古木が、今朝突然——」
「地脈が動きました。農園の地下に、地脈を塞いでいた封印があって、それを解きました」
メビウスが、記録用の羊皮紙を取り出した。
「封印を解いた、というのは——」
「シオンの力で、です」
ロルフがシオンを見た。シオンが小さく頷いた。
エリザが、シオンを見た。シオンの目が昨日より少しだけ赤いことに、エリザは気づいたようだった。何かを聞こうとして——今は聞かない、と判断したようだった。
「それから」とロルフは続けた。「農園の地下に、長年幽閉されていた方がいました。三代前の神子の方です。……今朝、亡くなりました」
沈黙が落ちた。
エリザが、シオンを見た。シオンは目を伏せていた。
「……シオン」
「大丈夫です」とシオンは言った。「話してくれました。いろいろと」
エリザが、それ以上は聞かなかった。
メビウスが地図を広げた。
「地脈が動いたことで、王都への影響はどこまで出ますか」
「今日から、少しずつ空気が変わります。聖灰の効果が薄れていくので、偽物の作物は全部枯れる。教団が配っている結晶の成分も、地脈の流れが戻れば分解が進みます。ただ——依存している人間の体の中は、すぐには変わらない」
「王も、そうですか」
「王様の場合は特に慎重に。急に解毒すれば、体が持ちません。毎日少しずつ、薄めていく必要があります」
メビウスが、静かに息を吐いた。
「……では、教団の動きが変わる前に、大司教との決着をつける必要がある」
「そのつもりで来ました。今日、会いに行きます」
エリザが顔を上げた。
「今日? 準備が——」
「準備が整ってから行っても、向こうも準備します。農園が崩れた今朝が、一番向こうの足場が悪い」
エリザが、ロルフを見た。それから頷いた。
「……わかりました。私も同行します」
「王女が来ると、話が大きくなりますよ」
「大きくした方がいい場合もあります。追放された農夫が王宮に戻る場面なら、なおさら」
ロルフが少しだけ笑った。
「やれやれ。一ヶ月の修行で、ずいぶん庭師らしくなりましたね」
「師匠の教え方が良かったので」
倉庫の入口で、カッサンが待っていた。
一時間経っていた。しかし彼は特に苛立った様子もなく、石造りの壁にもたれて、静かに外の通りを見ていた。
ロルフたちが出てくると、カッサンが振り向いた。
その目が、ロルフの後ろにいるエリザを見て、わずかに変わった。王女だとわかった、ということだろう。しかし騒ぐ様子はなかった。
「お待たせしました」
「……いえ」
カッサンは少し間を置いてから、エリザに向けて頭を下げた。
「王女殿下。大司教がお待ちしております」
「知っています」とエリザは言った。「参りましょう」
再び馬車に乗り込むとき、カッサンがロルフの隣に立った。
「……ロルフ殿」
「はい」
「先ほどの問いの答えが、まだ出ていないのですが」
「急がなくていいですよ」
カッサンが、少し意外そうな顔をした。
「……答えが出たときに、聞かせてもらえれば十分です」とロルフは言った。「考えたことがなかったことを、初めて考えるのは時間がかかりますから」
カッサンが、何も言わなかった。
馬車が動き出した。
職人街を抜けると、王宮の城壁が見えてきた。
白亜の壁が、朝の光を受けて輝いている。その壁の根元に、昨日まで枯れていた蔦が、今朝は僅かに色を取り戻していた。
シオンがそれを見て、静かに言った。
「……蔦も、気づいてますね」
「そうだね」
「地脈が動いたって、植物の方が先に知るんですね」
「いつでもそうですよ。人間より、土に近いから」
シオンが頷いた。
それから、少し間を置いてから言った。
「……ヴェルン様も、ずっと待っていたんですよね。土の下で、地脈が動くのを」
「そうだと思います」
「だから——気づいていたのかもしれません。封印を解こうとしている人間がいることを。封印が解けることを」
「……かもしれませんね」
シオンが、膝の上で手を組んだ。
「それが、少しだけ——救いみたいな気がして」
ロルフは何も言わなかった。
それで十分だった。
王宮の正門が、近づいてきた。
石造りの重い門扉。その両脇に、王家の紋章を刻んだ石柱が立っている。
門番が馬車を見て、立ち止まった。
カッサンが窓を開けて、教団の証明書を差し出した。門番が確認して、視線を馬車の中に向ける。
ロルフと目が合った。
門番が一瞬だけ、何かを思い出すような顔をした。この顔、どこかで——という顔だった。ロルフは特に何もしなかった。ただ、静かに目が合ったまま待っていた。
門番が視線をカッサンの証明書に戻した。
「……通れ」
重い門扉が、内側に開いていった。
ロルフは窓の外に目をやった。
王宮の中庭が見えた。
石畳に囲まれた、広い庭。長いあいだ聖灰で管理されてきた庭。しかしその隅に植えられた古木の根元に——今朝の苔が、うっすらと緑をのぞかせていた。
(……生きていた)
ロルフは小さく息を吐いた。
馬車が、王宮の内側へと進んでいく。
追放された農夫が、正面から戻ってきた。
やれやれ、とロルフは思った。世の中というのは、不思議なものだ。




