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十年間、王都の魔力汚染を密かに抑えていた農夫を『毒草使いの無能』と追放した結果→王都、崩壊寸前。僕は毒の神子と辺境を黄金の楽園にしてるので、今さら戻れと言われても手遅れです  作者: ジュライ
毒草使いは、世界の価値を書き換える

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第43話:根の記憶、先代の灯

 広間が、静かだった。


 白金色の光の柱は、まだそこにあった。天井の亀裂から大地の息吹が流れ込んでいて、聖灰の甘い腐れた匂いは、もうほとんど残っていない。


 老人は、床に直接座り込んでいた。


 立っていられないのだ——ロルフにはそれがわかった。支えなしでは膝が持たない。しかし老人は座ることを恥じる様子もなく、ただシオンの手を両手で包んで、静かに目を閉じていた。


 シオンは老人の前に膝をついたまま、動かなかった。


 声を出すこともなく、ただ老人の手を握り返している。その顔が何を感じているのか、ロルフには読み取れなかった。悲しみでも喜びでもなく——何か、言葉になる前の感情の、手前にいるような顔だった。


 ロルフは少し離れたところに立って、二人を見ていた。


 蔦に絡まった儀式師たちは、身動きが取れないまま壁際に縛りつけられている。聴いているのか聴いていないのか、黙っていた。


 老人が、ゆっくりと目を開いた。


「……名を、聞いていなかったな」


 シオンに向けて言った。掠れた声だった。


「シオン、です」


「シオン」


 老人は名前を繰り返した。噛み締めるように。


「……わたしはヴェルンという。三代前の——君と同じ役割を持っていた者だ」


 シオンが息を飲んだ。


「三代、前……?」


「長かった」とヴェルンは言った。それだけで、その言葉の重さが伝わった。「封印されてから、ずっとここにいた。何十年か、数えるのをやめた。……光の柱が届いた日を、ただ待っていた」


 シオンが老人の手を、少し強く握った。


 ヴェルンが小さく笑った。目の端の皺が、深くなった。


「痛くはないよ。……もうほとんど、感覚がないから」


 シオンの目が揺れた。


「ごめんなさい」


「謝るな」とヴェルンは静かに言った。「君が来た。それで十分だ」


 広間に、しばらく沈黙が満ちた。


 ロルフはその沈黙を壊さずに、老人の様子を観察していた。呼吸が浅い。何十年もこの石室にいたのなら、身体の限界はとうに過ぎているはずだ。今この瞬間も、何かが老人を立たせ続けているとしたら——それは意志だろう、とロルフは思った。


 言わなければならないことがある。それが終わるまでは、と。


 ヴェルンが再び口を開いた。


「……時間が、多くない。聞いてくれるか」


「はい」とシオンが即座に言った。


 ヴェルンはゆっくりと息を吸った。


「神子の毒が何なのか、君は知っているか」


「地脈と繋がった、身体に害をなすもの、だと……」


「そうだ。だが、それだけではない」


 ヴェルンの目が、祭壇の窪みへ向いた。白金色の光が湧き出し続けている、地脈の源泉。


「毒と癒し。この二つは、もともと同じ根から出ている。一柱の神が、世界を支えるために両方を持っていた。しかし——ある時、その神が、自分の力を引き裂いた」


「引き裂いた……?」


「二つの血脈に分けて、それぞれに預けた。毒の側と、癒しの側に。……なぜそうしたのかは、わたしにもわからない。だが、その結果として——」


 ヴェルンが一度、咳をした。深いところから来る咳だった。


 シオンが背中に手を当てようとすると、ヴェルンは静かに首を横に振った。


「大丈夫だ。続ける」


 ヴェルンはシオンの目を、まっすぐに見た。


「君の一族は毒の側だ。教団の祖は癒しの側だ。しかしそれは——今がそうだというだけで、ずっとそうだったわけではない。役割は、時代によって入れ替わる」


「入れ替わる……」


「前のサイクルでは、教団の祖が毒の側だった。パンデミックを起こした。君の一族の先祖が、癒しの側として対処し、収束させた。……その代償で、一族の力が著しく低下した」


 シオンが、何かを思い出すように目を細めた。


「だから——一族の力が、弱くなっていった……」


「そうだ。そしてその歴史を、教団は隠した。自分たちが毒の側だったという事実を消し、癒しの神の正統として君たちを追い続けた」


 広間が、静かになった。


 シオンが何かを言おうとして、止まった。言葉を選んでいるのではなく——受け取った情報の重さに、整理が追いついていない、という顔だった。


 ロルフは黙って聞いていた。


(教団の祖が毒の側だった。シオンの一族が癒しとして動いた。役割が入れ替わる——だとすれば、今はそのサイクルの、また次の転換点に差し掛かっているということか)


 ヴェルンが、ロルフの方を見た。


「農夫」


「はい」


「君には、もう一つ伝えておきたいことがある」


 ヴェルンの目が、少しだけ鋭くなった。老いた目の奥に、長年考え続けてきたものの形が見えた。


「教団は、ロルフ——君のことは知らない。しかし——教団の上に、もう一つの目がある」


「教団の上に」


「教団の者たちも知らない。大司教も知らない。……それが何なのか、わたしには証明ができない。だが、長くここにいて、わたしはそれを感じていた」


 ヴェルンは祭壇の天井を見上げた。亀裂から光が差している。


「封印が施されたとき、教団だけの力では、ここまで完璧には作れなかった。何か別の——もっと根源的なものが、封印の設計に関わっていた。……神子の血でなければ開かない構造は、教団が考えたものじゃない。誰かが、そう設計させた」


「誰かが」とロルフは繰り返した。


「わからない。だが——」


 ヴェルンがシオンの手を、少し強く握った。


「毒と癒しを引き裂いたのが神自身だとしても。その引き裂きを、ずっと維持しようとする何かがいるとしたら。……それは、統合を恐れているということだ」


「統合されると、困る何かが」


「そうだ。……気をつけろ。教団を片付けても、それは終わらない」


 沈黙が落ちた。


 ロルフは懐の羊皮紙を取り出した。「子よ、最後まで」と書かれたもの。


「これを扉の隙間から落としたのは、あなたですか」


「そうだ」とヴェルンは言った。「何代も前から、わたしたちの血脈が繋いできた言葉だ。……封印が解けるまで、根を枯らすなという意味だ。次の者が来るまで、待ち続けろという意味だ」


「……長かったですね」


 ロルフが静かに言った。感想でも慰めでもなく、ただそう思ったから言った。


 ヴェルンが、また笑った。今度はさっきより少し深く。


「ああ」


 それだけだった。



 しばらくして、ヴェルンの呼吸が、変わった。


 浅くなったのではない。むしろ——深くなった。ゆっくりと、大きく。何かを手放していくような。


 シオンが気づいた。


「ヴェルン様——」


「もう少し、聞けるか」


「はい」


「君が持っている毒は——怖いか」


 シオンが少し間を置いた。


「……旦那様が来る前は、怖かったです。でも今は」


「今は?」


「誰かを守るために使えると、知っています。旦那様が、教えてくれました」


 ヴェルンがロルフを見た。


「農夫」


「はい」


「この子を、頼む」


 ロルフは少し考えてから答えた。


「もうそうしてますよ」


 ヴェルンが、目を細めた。


「……そうだな。そう見える」


 それから、シオンの手をもう一度、ゆっくりと握った。


「シオン。毒を恐れるな。恐れるべきは——毒と癒しを分けたまま、そのままにしておこうとする何かの方だ。……お前はいつか、それと向き合うことになる」


「……はい」


「その時に、隣に立つ者がいる。今から見ても、わかる」


 シオンが、ロルフを横目で見た。ロルフは気づいていたが、特に何も言わなかった。


 ヴェルンが深く息を吸った。


 吐いた。


 もう一度、吸った。


 それが、最後だった。


 静かだった。眠るように、という言葉がある。ヴェルンの最後は、本当にそれだった。苦しんだ様子もなく、ただ——長年持ち続けていた何かを、ようやく降ろしたような顔で、目を閉じた。


 シオンが、老人の手を両手で包んだまま、動かなかった。


 ロルフも動かなかった。


 広間の白金色の光が、ゆっくりと、少しだけ柔らかくなった。光の柱は消えていないが、差し込む角度が変わったような——そういう変化だった。


 どのくらいそうしていたか、ロルフには正確にはわからなかった。


 シオンが、静かに言った。


「……旦那様」


「うん」


「泣いていいですか」


「どうぞ」


 シオンは声を上げなかった。ただ、ヴェルンの手を胸に引き寄せて、額をそっとそこに当てた。


 ロルフは隣に歩いていって、シオンの背中にそっと手を置いた。


 それ以上は何もしなかった。



 少し経ってから、壁際の儀式師たちが、蔦の根を少しずつほどいて立ち上がり始めた。静かに、こちらを見ないようにしながら、階段の方へ歩いていく。


 止めなかった。


 ロルフはその様子を横目で見て、そのまま視線を祭壇の窪みに戻した。


(教団の上に、もう一つの目がある。毒と癒しの統合を——恐れている何かが)


 懐の羊皮紙を、もう一度見た。


 古い字体の「子よ、最後まで」。


 これを書いたのはヴェルンだったのか。それとも、もっと前の誰かが書いたものを、ヴェルンが持ち続けていたのか。どちらでも、意味は変わらない。


(次の者が来るまで、待ち続けろ。根を枯らすな。……ずっとここで、一人でそれをやっていたわけか)


 ロルフはクワを持ち直した。


「シオン、行けそう?」


 シオンが顔を上げた。目が赤かった。しかし泣き崩れてはいない。


「……はい」


「ヴェルンさんのこと、持って帰りたい?」


 シオンが少し考えた。


「……このままここに、いてもらっていいですか。ここで待っていてくれた人だから、ここがいいような気がして」


「わかった」


 ロルフは頷いて、ヴェルンを壁際に、丁寧に横たえた。白い衣の裾を整えた。


 農夫として、土に還る者への作法は、それだけで十分だと思った。



 二人が階段を上り始めたとき、ロルフはふと足を止めた。


 広間の端——ヴェルンが出てきた石扉の奥。


 かすかな気配があった。


 人の気配ではない。風でもない。


 何か——もっと薄い、形のないものの気配。


 ロルフは一瞬だけそちらを見た。


 石扉は閉じている。何もない。


(……気のせいか)


 そうは思わなかった。しかし今は、何もできない。


 ロルフはシオンの背中を見て、また歩き始めた。



 同じ頃。


 王宮の奥深く。


 普段は誰も近づかない古い礼拝室の、燭台の火が全部消えた。


 消した者はいない。ただ、消えた。


 闇の中で、白い衣をまとった人影が、静かに立っていた。


 顔は見えない。


 ただ——声が、ほとんど音のない声が、暗闇の中に落ちた。


「……動いた。少し、早かったか」


 人影が、ゆっくりと振り返った。


 その目が——金色だった。


 しかしシオンの金色でもなく、ヴェルンの金色でもない。


 色はあっても、奥に何もない。光のない、金色の目。


 人影は、そのまま——消えた。


 燭台の火が、また灯った。


 礼拝室には、誰もいなかった。



 農園の地上では、夜明けが始まっていた。


 東の空が、少しずつ白み始めている。


 農園内の作物が——一斉に、萎れていた。


 夜のあいだに急速に進んだのだろう。昨日まで不自然な鮮やかさで実っていたトマトが、キュウリが、葉物が、皆いっせいに首を垂れている。聖灰の支えを失った作物が、自重に耐えられなくなっていた。


 農園の中を走り回る白い作業着の者たちの声が、地下にまで届いていた。



 階段を上りきったところで、シオンが立ち止まった。


 夜明けの光が、農園の石畳を照らし始めていた。


 農園内は騒然としている。作物が崩れていく様子に、教団の人間たちが対応に追われていた。


「……全部、枯れていきますね」


 シオンが、農園を見渡しながら言った。


「そうだね。ここに押し込まれていた地脈が動いたから、偽物の豊かさが維持できなくなった」


「ロルフさんが、前に言ってましたね。根が腐った木が、枝だけ青々と茂っているような状態だって」


「嵐が来れば一発で倒れる、って言った。嵐は来なかったけど、根が動いたら同じことになった」


 シオンが、崩れていく作物を見ながら、少しだけ目を細めた。


「……種は、ありますか」


「え?」


「枯れた後に、本物を育てるための。ここの土は、まだ生きていますか」


 ロルフは足元の石畳の隙間に、クワの先を当てた。


 地脈が動いている。聖灰が薄れた土の下に、長い間圧迫されていた微生物の気配がある。弱いが、死んではいない。


「……生きてますよ。時間はかかるけど」


「じゃあ」とシオンは言った。「いつか、ここにも本物の庭ができますね」


 ロルフは少し考えてから答えた。


「誰かが、ちゃんと世話をすれば」


 シオンが頷いた。



 農園の混乱に紛れて、二人は人目を避けながら正門へ向かった。


 正門の前にメビウスが手配した馬車が待っているはずだった。


 正門が見えてきたところで——馬車の前に、一人の人物が立っていた。


 黒いローブ。農園の儀式師や聖騎士とは、まとう空気が違った。騒然とした農園の中で、一人だけ動じていない。静かな佇まいの、中年の男。


 男はロルフとシオンを見て、ゆっくりと頭を下げた。


「やはり、あなたでしたか。ロルフ殿」


 穏やかな声だった。敵意がない。かといって友好的でもない——ただ、確認しているだけのような声。


「どなたですか」


「カッサンと申します。大司教の補佐を務めている者です」


 ロルフは男を見た。


 嘘をついている様子はない。武器に手をかける気配もない。


「大司教が、直接お会いになりたいとのことです。……条件は、あなたたちが望むものを何でも」


 ロルフは少し間を置いてから言った。


「やれやれ。会いに行く気はないですけど——こちらから出向いてもいいですよ」


 カッサンが、一瞬だけ表情を崩した。


 想定外の返答だったのだろう。しかしすぐに、元の穏やかな表情に戻った。


「……承知いたしました」


 馬車が、夜明けの王都へ向けて動き出した。


 シオンがロルフの隣に座りながら、静かに言った。


「……旦那様、怖くないですか」


「何が?」


「大司教に会いに行くこと」


「怖くはないですよ」とロルフは言った。窓の外の、萎れていく農園を眺めながら。「どんな大物でも、根っこを見れば、だいたいわかりますから」


「大司教の根っこ、どんな形だと思いますか」


「……会ってみないと」


 ロルフはそこで、ヴェルンの言葉を思い出した。


(教団の上に、もう一つの目がある。毒と癒しの統合を、恐れている何かが)


 馬車の窓から、夜明けの王都が見え始めていた。


 地脈が動いたことで、朝の空気がどこか変わっている——ような気がした。気のせいかもしれない。それとも庭師の感覚が、王都全体の息吹の変化を捉えているのかもしれない。


(どちらにしても。今は、目の前のことを片付けるだけだ)


「シオン」


「はい」


「帰ったら、豊村の土にヴェルンさんのことを教えてやろう。ちゃんと届くから」


 シオンが、少し目を伏せてから、頷いた。


「……はい」


 馬車が、石畳を揺れながら進んでいく。


 夜明けの王都に、今日が始まっていた。

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