第42話:白金の解放、根の声
足音は、六つだった。
ロルフは耳で数えながら、クワの柄を両手で握り直した。
松明の橙色が、階段の曲がり角に揺れている。壁に映る影が先に現れて、それから本体が姿を見せた。黒いローブ。腰に短剣ではなく、儀式用の刻印杖。兜は被っていない。顔が見える。
聖騎士ではない。
(儀式師か。封印を補強しに来た)
ロルフは静かに息を吐いた。
先頭の男がロルフを見て、一瞬だけ足を止めた。想定外の人間がいる——その驚きが顔に出た。だがすぐに、後ろの五人に向けて短く何かを告げる。
六人が散った。広間の壁際に沿って左右に広がり、祭壇を半円で囲むように動く。無言で、迷いなく。
よく訓練されている。
「……やれやれ」
ロルフはぼそりと言った。
「こんなところまで灰を撒いてあるとは。やはり地下が一番、染み込みが深い」
男たちの靴底に、聖灰が薄く積もっている。石畳の目地にも。壁面の下端にも。教団の封印を維持するためのもの。彼らが踏んで歩くたびに、かすかな白い粉が舞う。
ロルフはクワの石突きを、広間の床に静かに当てた。
その感触から、一瞬で読み取れた。石畳の厚さ。目地の深さ。灰が染み込んだ層の薄さ。そして——その下の、古い石組みの硬さ。
(灰の層は浅い。最近撒き直したものだ。——だが、地下は長年の染み込みがある。床だけじゃない、壁にも、天井の目地にも。この広間全体が、灰で満ちている)
背後から、白金色の光がじわじわと強くなっていた。シオンが封印を解いているあいだ、シオンの体内から溢れる毒が少しずつ広間の空気に滲んでいた。微量だ。だが確かにある。ロルフの鼻腔が、それを捉えていた。
(……この灰の量なら、シオンの毒を対価にするまでもない。灰そのものが、十分な素材だ)
先頭の儀式師が杖を持ち上げた。
刻印杖の先端が祭壇に向けられる。封印補強の術式——ロルフにはそれがわかった。シオンが今やっている作業を、強制的に逆戻しにするための術式だ。
ロルフは背後を見た。シオンは岩塊の正面に立ったまま、振り返っていない。両手を石の表面に当て、白金色の光を手の下で揺らしながら、ただそこに在り続けている。
(ならば——僕がやることは、一つだ)
ロルフはクワを引いた。
振り上げたのではない。石突きを床から引き剥がすように、ただ手前に引いた。それだけの動きだった。
次の瞬間、男たちの足元で、石畳が静かに沈んだ。
等価交換。聖灰が染み込んでいた目地——その灰を変換した。灰が消えた分だけ、目地の土が空洞になる。石畳が僅かに傾く。足場が、ずれる。
六人のうち、四人が体勢を崩した。
杖の先端が天井に向いた。封印補強の術式が、宙に向けて空砲を放つ。意味のない刻印が天井の岩盤に刻まれ、広間に反響して消えた。
「なにをした——」
先頭の男が、それでも杖を持ち直しながら叫んだ。
「足場が均等じゃないと、難しいですよね。術式の精度を出すのは」
ロルフはクワを腰の横に戻しながら、穏やかに言った。
「別に傷つけるつもりはないので、おとなしくしていてくれると助かります。やれやれ——でも聞かないんだろうな、こういう人たちは」
二人目が体勢を立て直して、今度はロルフに向けて杖を向けた。
ロルフは動かなかった。
飛んできた術式が、ロルフの左肩を掠めた。衝撃で外套が裂けた。外套の下から、熱いような、痺れるような感覚が走った。それなりに痛い。
ロルフは顔色を変えずに、右手でクワを持ち直した。
「……直接当たると、さすがに少し響きますね」
男が目を細めた。効いた、と思ったのだろう。
次を放とうとした。
だが、その前に。
ロルフは男の足元を見た。壁際まで下がっていた男の踵が、壁の石に当たっていた。壁面の下端——地下水が滲んで、長年にわたって聖灰が積もった場所。床の目地より、ずっと深く染み込んでいる。
(ここは——量が多い)
クワの先を、静かに壁に当てた。
それだけだった。
壁が、動いた。
石の隙間から白い細い根が一斉に伸びた。元は壁の目地の奥に眠っていた植物の根——灰が染み込んで動けなかったものが、灰を変換した反動で一気に解放された。蔦の根の先端が、男の足首に、膝に、静かに絡みついた。
男が声を上げた。蔦を断ち切ろうとして、短剣を抜く。切れた。だが根はまた伸びた。壁に染み込んだ聖灰の量は、床の何倍もある。
「……地下は灰の量が多い分、こちらは助かります。あの量だと、しばらくは解けません」
残った一人——三人目が、今度は慎重に動いた。足場の崩れていない場所を探して、壁際を避けながら、祭壇へ迫ろうとする。祭壇まで届けば、封印の補強を直接試みられる。
ロルフはその動きを目で追いながら、一歩、横に出た。
祭壇とその男のあいだに、立ちふさがった。それだけだ。魔術でも術式でもない。ただ、道を塞いだ。
男がロルフを見た。
ロルフはクワを両手で持って、静かに立っていた。
農夫の仁王立ち。
男が一瞬、迷った。その迷いを、ロルフは見逃さなかった。
「……無理に進もうとすれば、床の灰をもう少し変換します。足場が今よりだいぶ悪くなりますよ」
男の足が、止まった。
先頭の儀式師——部隊の中で一番落ち着いた目をしている男——が、その様子を見て、静かに状況を再評価していた。壁際の三人は根に絡まって動けない。床の足場は信用できない。祭壇への道はロルフが塞いでいる。
そのとき、声が来た。
広間の奥、祭壇の背後の石扉。隙間から。
老いた声だった。しかし透き通っていて、よく通る。
「——邪魔をするな。子の邪魔だけは、させない」
男たちの動きが止まった。
全員が、石扉を見た。
先頭の儀式師の顔から、血の気が引いていた。知っている顔だ——ロルフにはそう見えた。声を聞いて、誰かわかった。わかった上で、凍りついている。
ロルフは動かなかった。
ただ待った。
三人目の男の根が、腰まで絡んでいる。他の男たちも石畳の上で足場を失い、杖を構えるには位置が悪い。先頭の男だけが動ける状態だが、その男は石扉を見つめたまま動かない。
シオンが、ふっと息を吸う音がした。
ロルフは振り返った。
シオンの手の下で、岩塊の教団の刻印が急速に色を失っていた。端から端へと。まるで霜が溶けるように。しかし今のそれは、先ほどとは速さが違う。加速している。
シオンの目が焦点を失っていない。どこにも向いていない——いや、岩塊の奥の、どこかに向いている。
(何かを、見ている)
そのとき、先頭の儀式師が我に返った。
石扉への恐れより、任務への恐れが勝ったのだろう。杖を持ち直して、大きく息を吸い、祭壇の封印に向けて術式を放った。
封印補強の光が、祭壇の岩塊に向けて走った。
シオンの背中に、届きそうになった。
その瞬間——
シオンの両手の下から、光が溢れた。
術式を弾いた。
ただ、溢れた。意図した動きではなかったはずだ。シオン本人が、驚いたように一瞬肩を震わせた。だが両手は岩塊から離れなかった。そのまま、続けた。
男が杖を持つ手が、震えた。
白金色の光が、広間に満ちていた。その中では、術式の光など消し炭のようだった。
「……」
先頭の男が、ロルフを見た。ロルフは何も言わなかった。
男は杖を下げた。
それから、ゆっくりとした足取りで、根に絡まっていない仲間二人を引き連れ、階段へと向かって歩き出した。
「待って」
ロルフが声をかけた。
男が振り返る。
「扉の奥の方は、君たちに何もしませんよ。その声を聞けばわかるでしょう。報告するなら、そう伝えてください」
男は何も言わなかった。
階段を、上がっていった。
ロルフは根に絡まったままの男たちを一瞥してから、広間の中央に戻った。
足元から、ゆっくりとした振動が伝わってくる。
地面の深い場所から。
水路の詰まりが抜けていくような。根が土の隙間を押し広げていくような。長い年月ぶりに、何かが動こうとしているような——。
(地脈が、動いている)
ロルフはクワを、静かに石床に当てた。
感触が変わっていた。さっきまでの、詰まった重さがない。代わりに、遠くまで繋がっていく感覚。根を土に挿したときのように、どこまでも続く大地の呼吸が、クワを通して手のひらに伝わってくる。
(——王都全体の地下が、今、動き始めている)
岩塊が、崩れた。
音もなく。ゆっくりと。まるで砂が崩れていくように、灰色の石の山が内側から溶けていった。教団の刻印が、最後のひとかけらまで白んで消える。
その瞬間——光が来た。
白金色の、光の柱。
広間の中央から天井へと、一本の柱のように、まっすぐに伸びた。天井の岩盤に当たって、そこから細い亀裂が入り、その亀裂の先から、土のにおいが降りてきた。
聖灰の甘い腐れた香りではない。
水と、黒土と、古い石の混じった——大地の息吹。
シオンが、両手を胸の前に引き寄せた。
岩塊は跡形もなく消えていた。祭壇の中心部に、低い窪みが現れている。その窪みの底から、白金色の光が静かに湧き出していた。
シオンは、その場に膝をついた。
倒れたのではない。ゆっくりと、自らの意志で膝をついた。
ロルフが傍に来て、肩に手を当てた。シオンは振り仰ぎもしなかったが、小さく、「……ありがとうございます」と言った。声が、掠れていた。
「立てる?」
「……はい。少し待てば」
ロルフはシオンの背中に手を当てたまま、石扉を見た。
扉が、動いていた。
内側から、ゆっくりと押し開かれていく。一センチ、二センチ——軋みもなく、ただ静かに、重い石の扉が口を開けていく。
扉の向こうから、光が漏れた。
白金色ではない。もっと色の薄い、かすかな光。古い燐光石か何かが壁に埋め込まれているのか——石造りの狭い空間の輪郭が、ぼんやりと浮かんだ。
そして、人影が現れた。
老人だった。
身の丈は高くない。ひどく痩せている。白い衣をまとっているが、それも古びて、所々がほつれている。壁に手をついて、一歩ずつ、確かめるように歩いている。
頭に積もった白髪が、かつては銀色だったとわかる輝きを、まだわずかに残していた。
そして——目が、金色だった。
シオンのものと、同じ色。
だがシオンの目が夜明け直前の空のような金色なら、老人のそれは夕暮れどきの色だ。長く燃えて、少しずつ色が深くなった金色。疲れている。それでも、光を失っていない。
老人はロルフを見た。
それから、シオンを見た。
シオンが膝をついたまま老人を見上げて、息を飲んだ。
何かを言おうとした。言葉が見つからないように、口が少し開いて、閉じた。
老人は、ゆっくりと歩いてきた。シオンの前で足を止めた。
しゃがもうとして——膝が笑った。ロルフが咄嗟に腕を貸すと、老人は素直にそれを掴んだ。軽かった。枯れ枝のように、乾いた腕だった。
老人はシオンを見下ろして、一度だけ、深く息を吸った。
「……遅かった」
掠れた声だった。しかし、遠くまで通る声だった。
「いや——」
老人は、かすかに笑った。目の端の皺が、深くなった。
「……ちょうど良かった、か」
シオンの目が、揺れた。
何かが、堰を切ったような顔だった。声は出なかった。ただ、両手をひざの上で握りしめて、老人を見つめていた。
老人はロルフの腕を借りたまま、ゆっくりと視線をロルフに向けた。
「……庭師か」
「農夫ですよ」とロルフは言った。「追放された、元王立植物園の」
老人はしばらく、ロルフの顔を見た。
それから、クワを見た。
「……そうか」
何かを、納得したような声だった。
老人がシオンに手を伸ばした。シオンが、反射的にその手を取った。老人の指がシオンの手の甲を包む。乾いた、薄い指。
「教えなければならないことが、ある」
老人の声が、静かに言った。
「封印が解けたのなら——時間は、多くない」
広間の天井の亀裂から、土のにおいが流れ込んできた。
白金色の光の柱の中に、初めて、大地の息吹のにおいが混じっていた。
地の底で、長い眠りについていた何かが、今、目を覚ましていた。




