第41話:血脈の祀り、封じられた源流
階段は、深かった。
一段、また一段と下りるごとに、空気が変わった。
農園に満ちていた甘い香の匂いが、少しずつ薄まっていく。代わりに満ちてくるのは、古い石と地下水のにおいだ。もっと根源的な、人が文明を持つより前からここにあるような、大地そのもののにおい。
ロルフは壁に手をやりながら、一段ずつ慎重に降りた。
壁面の石は、搬入口の増築された部分とは明らかに質が違った。丁寧に切り出され、精密に積まれた古い石組み。何百年——あるいはもっと長い時間、ここにあり続けたことを物語る、黒ずんだ石の肌。
(年代物だ。農園の設立より、ずっと古い)
「足元、気をつけて」
「はい」
シオンの返事は短かった。
農園の中を歩いているあいだとは、声の質が変わっている。何かに耳を澄ませているような、あるいは何かが近づいてくるのを感じているような、静かな緊張。
地下へ向かうほど、白金色の光は強くなっていた。
光源は見えない。壁も天井も石だ。それなのに、足元の空気がかすかに輝いているような、そんな感覚がある。
(地脈が近い。塞がれていても、ここではまだ、かろうじて息をしている)
階段を下りきると、広い空間に出た。
ロルフは思わず、足を止めた。
広間だった。
天井が高い。松明もないのに、壁面の石そのものが微かな燐光を帯びていて、空間の輪郭がぼんやりと浮かび上がっていた。
中央に、円形の祭壇があった。
直径は五、六メートルほど。なめらかに磨かれた黒い石の台座の上に、同じく黒石の柱が八本、等間隔に立っている。柱と柱のあいだには、かつて何かが渡されていたのか、金具の痕跡が残っていた。
その祭壇の中心部に——異物があった。
灰色の、大きな岩塊。
自然の岩ではない。人工的に積み上げられた、不規則な石の山。まるで何かを塞ぐために、慌てて詰め込んだような形。
その岩塊の隙間から、ときおりわずかな光が漏れていた。
白金色の、光。
(これが……「ダム」の正体か)
ロルフはゆっくりと祭壇へ近づいた。
岩塊の表面を確認する。削られた跡。焼かれた跡。そして——封印の文字。教団の紋章とともに、べたべたと刻み込まれた、呪縛の刻印。
(地脈の出口を、物理的に塞いでいる。それだけじゃない。この封印は流れを止めるためじゃなくて……吸い上げるための構造だ。ここから王都中のマナを集めて、上の農園に送り込んでいる)
養分を根元から奪い続ける、寄生の根。
ロルフは静かに怒りを感じながら、岩塊の周囲を一周した。
そのとき。
「——あ」
後ろで、シオンが短く声を漏らした。
振り返ると、シオンが祭壇の柱の一本の前で、立ち尽くしていた。
手は、まだ触れていない。
ただ、柱の前に立っているだけで——その目が、すでに焦点を失いかけていた。
「シオン?」
ロルフが近づくと、シオンがゆっくりと手を伸ばした。
指先が、柱の表面に触れた。
その瞬間、シオンの身体がびくりと震えた。
ロルフはすぐに腕を支える。シオンは倒れなかったが、呼吸が浅くなっていた。目は開いているが、見ているのはここではない。
「無理なら離して」
シオンは首を横に振った。
「……見えます」
声が、掠れていた。
「たくさんの、人が見えます。みんな僕と同じ髪と、目の色をしている」
「何をしてる?」
シオンは少し間を置いてから、答えた。
「ここに立って……柱に触れて……何かを、しています。僕と同じように」
また、間があった。
今度は長かった。
ロルフは急かさずに待った。
シオンの目が、かすかに揺れた。瞳の奥に何かが映っているような、しかし言葉にならないような——そういう顔だった。
「……何か、見えてる?」
シオンはゆっくりと口を開いた。
「見えます。でも……」
そこで、止まった。
喉の奥で何かが引っかかっているような、絞り出そうとして、出てこないような間。
「……うまく、言えなくて」
「言いたくなったら、でいいよ」
ロルフはそう言って、シオンの背中にそっと手を置いた。
それ以上は何も聞かなかった。
シオンが小さく息を吐いた。
「……ありがとう、ございます」
しばらく、広間に沈黙が満ちた。
ロルフはシオンを支えながら、祭壇の構造を観察し続けた。
柱の表面には、細かな紋様が浮き彫りになっている。螺旋と毒草の意匠——外の石標と、まったく同じ文様だ。
だがよく見ると、教団の刻印の下に、別の層が透けている。
教団の紋章とは異なる形。似ているが、違う。
教団の紋章は「光が放射状に広がる太陽」を模している。だが、その下の古い紋様は——太陽と、それを抱き込む螺旋。光と、渦。放射と、収束。
(二つで、一つか)
ロルフは眉をひそめた。
庭師の感覚で言えば、それは——花と根のようなものだ。地上に咲く花だけを「美しい」と切り取っても、根がなければ花は死ぬ。根があってこそ、花は咲く。
(教団の紋章は「花」だけを神聖視している。では「根」の部分は——)
視線をシオンに戻す。
シオンの金色の瞳が、岩塊の奥を、じっと見つめていた。
「……ひとつだけ、言えることがあります」
シオンが、ぽつりと言った。
「この封印には、二つの層があります。外側が教団のもの。でも内側の一番奥には——もっと古い、別の鍵があります」
「鍵?」
「僕の血じゃないと、開かない」
ロルフは少し考えてから、確かめるように聞いた。
「開けたら、どうなる?」
「地脈が……流れます。たぶん、かなりの勢いで」
「教団の封印ごと、吹き飛ぶ?」
「……はい」
シオンは岩塊を見つめたまま、少しだけ迷ってから続けた。
「一族の記憶の中に……やり方は、あります。ただ」
また、言いよどんだ。
今度の間は、さっきとは違う種類の重さがあった。
ロルフは黙って待った。
「……やっぱり、うまく言えなくて。すみません」
「謝らなくていいよ」
ロルフはそう言って、岩塊を見た。
「封印が開けられるなら、それで十分だ。理由は——あとで、ゆっくり聞く」
シオンが、こちらを見た。
何かを言おうとして、やめた。
そのかわりに、ロルフにはわからない何かをこらえるように、一度だけ深く息を吸って——頷いた。
シオンが岩塊の正面に立った。
両手を、石の表面にそっと当てる。
ロルフはクワを持ち直して、広間の入口に視線を向けた。今のところ、上から足音はない。
(急いだ方がいい。でも急かすものでもない)
視線を戻すと、シオンの手の下で、岩塊の表面がかすかに光り始めていた。
白金色。
教団の灰色の刻印が、じわじわと色を失い始める。まるで霜が溶けるように、端から端へと。
広間の空気が、変わった。
重さが、薄らいでいく。
地脈が——長い年月ぶりに、息をしようとしていた。
そのとき、ロルフの背筋に、何かが走った。
庭師の勘、とでも言うべき感覚。土を読むとき、根の状態を感じ取るとき、何かが「ずれている」とき——身体が先に知らせる、あの感覚。
ロルフはゆっくりと振り返った。
広間の奥、祭壇の背後の暗がり。
石の壁に見えていたそこに、縦に細い隙間があった。
扉、だ。
完全に閉じられた、古い石の扉。教団の増築ではない、元からある構造の一部。
その扉の隙間から、何かがこちらを——
(見ている)
ロルフはクワを構えかけて、止まった。
隙間から見えるのは、ひとつの目だった。
金色の、目。
シオンのものと、同じ色。
だが——年を取った、疲れ果てた、それでもまだ光を失っていない、金色の目。
それはロルフと目が合うと、静かに閉じられた。
扉の隙間から、紙切れ一枚が、音もなく床に落ちた。
ロルフがそれを拾い上げると、羊皮紙に短い文字が書いてあった。
古い字体。だが読める。
——子よ、最後まで。
それだけだった。
ロルフは文字を見つめてから、シオンの背中を見た。
封印の光が、強くなっていた。
そこへ——階段の上から、足音が聞こえてきた。
一人ではない。複数。それも、急いでいる。
ロルフは羊皮紙を懐にしまって、クワを構えた。
「シオン、足音が来た。続けて」
「……はい」
シオンの声は、揺れていなかった。
松明の橙色の明かりが、階段の曲がり角に揺れた。
ロルフは静かに息を吸った。
(来い。ここは俺が止める)
背後から、シオンの低い声が聞こえた。
言葉ではない。言語を持つ前の、血のふるえのような音。
それは祈りでも呪文でもなく——ただ、あるべき場所に帰ろうとする、命の声だった。
白金色の光が、広間を満たした。




