第40話:偽りの庭、地の底の呼び声
鉄扉が開いた。
重い軋みとともに、王立大農園の内側が姿を現した。
ロルフは荷馬車の荷台から、その光景をじっと見つめた。
最初に感じたのは、においだった。
甘い。
焦げた砂糖に、白い花の蜜を混ぜたような、ねっとりとした甘さ。搬入口の外では風に薄められていたそれが、扉の内側では濃密に空気に溶けていた。
隣でシオンが小さく息を詰めた。
「大丈夫?」とロルフが耳打ちすると、シオンは目を細めてこくりと頷いた。
(甘い……けど、これは毒だ)
ロルフの鼻腔を満たす甘さは、彼の身体の中で即座に分解され、ほんのりとした熱のようなものに変わって消えていく。胃袋が勝手に処理しているような感覚。食べると知らずに毒を食べてしまったとき、身体が自然と解毒を始めるあの感覚に似ている。
(ここ全体が、香炉の中みたいなものか)
馬車は緩やかに進んだ。
搬入口の通路を抜けると、視界が一気に開けた。
広かった。
見渡す限りの畝が、整然と並んでいた。
トマト、キュウリ、カブ、葉物野菜。どれも異様なほど大きく、色が鮮やかで、朝露をまとって宝石のように光っている。
並の農夫が見れば、思わず声を上げるような光景だ。これほど見事な作物が、これほどの規模で育っているなど、普通の農業では考えられない。
だが——
(死んでいる)
ロルフには、それがわかった。
作物の茎が、太すぎる。葉の緑が、濃すぎる。果実の表面に、本来あるはずの細かな傷や産毛の跡がない。自然の農園で育てば必ずつく「生きた証」が、何一つない。
まるで、精巧に作られた蝋細工だ。
(強制的に成長させた。土の寿命を前借りして、細胞を無理やり膨らませている。見た目だけ、完璧に整えた作物。中身は水と空洞だ)
それよりも、ロルフの目を引いたのは土だった。
畝と畝の間の通路。踏み固められた土の表面に、うっすらと白い粉が積もっている。
聖灰。
ここではそれが、まるで雪のように、農園の全体に薄く散布されていた。風で飛ばされないよう、細かく土と混ぜ込まれているのか、通路の端では土そのものが白みがかって見える。
(これが「根」か。この灰が土に染み込んで、地脈の流れを歪めている。木の根がコンクリートに阻まれるように、王都のマナがここで全部せき止められている)
馬車が搬入口の荷捌き場に止まった。
御者の業者が荷台を下ろし始めたとき、ロルフはシオンの袖を軽く引いて、荷台の陰に滑り込んだ。業者は一瞬こちらを見たが、頷いて視線をそらした。メビウスが手を回してくれていたのだろう。
二人は荷捌き場の端にある物置小屋の陰に入り、農園の内部を見渡した。
「どう見える?」とシオンが静かに言った。
「庭師から見れば?」
「ええ」
ロルフはしばらく考えてから答えた。
「根が腐った木が、枝だけ青々と茂っているような状態だね。見た目はきれいでも、根元を見ればもう立っていられない。嵐が来れば一発で倒れる」
「……そんなに、ひどいんですね」
「ひどい、というよりは」
ロルフはトマトの畝に目をやった。
「丁寧に作られた、残酷な庭だよ」
シオンが黙った。ロルフも少し間を置いてから、言い直した。
「設計した者は、農業をわかっている。そうでなければ、これだけの規模でこの状態を維持できない。意図的に、土の声を無視した作り方を選んでいる」
「……使い捨てにする気で、作ってるんですね」
「王都ごと」
シオンの手が、静かに握られた。
二人は物置小屋の陰から、農園の奥へと目を向けた。
農園の中心部には、小高い丘のような構造があった。草に覆われた斜面に、石の段が刻まれている。丘の頂上には、白い大理石の建物——礼拝堂だろうか——が建っていた。
その周囲だけ、白い煙のようなものがゆっくりと漂っている。香炉の煙にしては量が多い。まるで、何かが地面から滲み出てくるように。
「ロルフさん」
シオンの声が、少し変わった。
「あの丘の下……に、あります」
「聞こえる?」
「聞こえる、というか……」
シオンは自分の胸の中心を、そっと手で押さえた。
「引っ張られる感じです。磁石みたいに。ずっと遠くから感じていたのが、今はもうすぐそこみたいで」
ロルフはしばらく丘を見てから、農園内の人の動きを観察した。
いくつかのグループが、畝の世話をしている。白い作業着の者たちだ。顔つきがぼんやりとして、目の焦点が少し遠い。彼らの動きには無駄がなく、むしろ機械的なほどに整然としている。
(聖香の影響下にある作業員か。命令に従うだけで、自分で判断しなくなっている)
礼拝堂の出入りは、白い作業着ではなく黒いローブを着た者が担っていた。彼らは農園の作業員とは別の動き方をしていた。
(あれが幹部か、儀式担当の者か)
ロルフは丘への経路を確認した。正面の石段を行けば目立つ。左手の作物の畝の間を縫えば、丘の裏側に出られるかもしれない。
「シオン、少し待って。畝の列を使って裏側に回ろう」
「はい」
「香が濃くなっても、平気?」
シオンは少し笑った。目に、静かな決意があった。
「旦那様の隣にいれば、全部エネルギーに変えてもらえるんでしょう?」
「まあ、そうだね」
「なら、大丈夫です」
二人は畝の間を、腰をかがめながら移動した。
トマトの赤。キュウリの緑。どれもが作り物めいた鮮やかさで、近くで見ればよけいに不自然だった。茎に触れると、妙に水っぽい弾力があって、本来の植物のもつ繊維質の張りがない。
ロルフはすれ違いざまに、一本のキュウリに指を当てた。
(エネルギーの残量……ほぼゼロ。外側の細胞は膨らんでいるが、内部の維管束は機能していない。あと数日で全部、自重で潰れる)
摘み取る前に倒れるだろう。それでも教団は次の灰を撒いて、また次の作物を育てる。
土は何も言わない。言えない。ただ、削られていくだけだ。
(……必ず、ひっくり返す)
畝の列を二十ほど越えたところで、丘の裾野に出た。
草の間に、石の小道が続いている。丘の裏側を回るように、ゆるやかに登っていく細い道だ。
ロルフは一歩踏み出して——止まった。
小道の入口に、石の標が立っていた。
彫られていたのは、教団の紋章ではなかった。
もっと古い——王国の農業が始まるよりも前、この地に人が住み始めた頃から続くような、古代の文様。螺旋を幾重にも重ねた、毒草と穀物を抱き合わせた意匠。
(これは……)
ロルフはその文様を見た瞬間、胸の奥で何かが共鳴するような感覚があった。
クワが、かすかに熱を持った。
「ロルフさん」
シオンの声が、掠れていた。
振り向くと、シオンの金色の瞳が、ほんのわずかに発光していた。
夜明け直前の空の色に似た、白みがかった金色の光。
「これ……この紋章、知っています。知っている、というか」
シオンは標の文様を指でなぞった。
「僕の夢に、何度も出てきたものです」
風が吹いた。
丘の上から、聖香の甘い煙ではなく、もっと古くて清潔な、土と水の混ざったにおいが流れてきた。
ロルフは一瞬目を閉じて、そのにおいを感じ取った。
(地脈の息だ。塞がれているのに、ここだけ……漏れている?)
何かが、ある。
丘の下に。
二人が小道を登り始めて、五分も経たないうちだった。
草の斜面の向こうから、人の声がした。
「おい、そこの者。通行許可証を見せろ」
低い、威圧的な声。
ロルフが立ち止まって振り返ると、黒いローブの男が二人、丘の中腹から下ってくるところだった。腰に短剣を帯び、片方は杖を持っている。顔つきは、作業員の虚ろなそれとは違う。正気で、訓練された目をしていた。
(精鋭か。気配を読んでいる。普通の聖騎士ではない)
ロルフはクワを腰の横にやりながら、農夫らしく頭を少し下げた。
「すみません、新入りなもので。道を間違えてしまったようで」
「新入り? 今朝の搬入は人員追加の予定はない。名前と証明書を」
男の手が短剣の柄に触れた。
(交渉不可能と判断した。こちらの正体を知っているかどうかわからないが、疑いを持った時点で行動を起こすタイプだ)
ロルフは一瞬だけシオンを見た。
シオンは頷いた。
その目が、静かに言っていた。
——いつでも、どうぞ。
ロルフはクワの石突きを、斜面の地面に、静かに当てた。
聖灰が染み込んだ土が、ロルフの触覚を通して、一瞬で読み取れた。
深さ。硬さ。地下の空洞の位置。
そして——その空洞の先に、脈打つように流れる、せき止められた大きな何か。
(ここだ)
ロルフは目を上げて、黒ローブの男たちを静かに見た。
「……少しだけ、眠っていてもらいます」
「なに?」
次の瞬間、男たちの足元の土が静かに波打った。
聖灰が、一瞬にして無害な灰に変換される。固まっていた土が柔らかくほぐれ、根が解放される。
丘の斜面全体に、ごく短い沈黙。
それから、草が一斉に伸びた。
足首、膝、腰——柔らかな草の束が、男たちの動きを静かに封じていく。刃物を振るうほどの余裕もなく、二人はゆっくりと、草に絡まれたまま斜面に横たわった。
意識はある。ただ、動けない。
ロルフは彼らの傍らを静かに歩いて通り過ぎながら、軽く会釈した。
「聖灰の分だけ、草が喜んでいるだけです。しばらくしたら解けます」
男たちが目を白黒させている。
シオンがついてきながら、こっそりと呟いた。
「……旦那様って、こういうとき本当に怖いですね」
「怖くないよ、草だから」
「そこじゃないんですけど」
丘の裏側、礼拝堂の背後に回ったところで、石造りの小さな扉があった。
苔に覆われた、古い扉だ。教団が増築した新しい構造物ではなく、大農園が作られた当初からここにあったと思われる石造りの扉。
それは少し、開いていた。
隙間から、冷たい空気が漏れていた。
甘い香の匂いではなく、深い土のにおい。水と石のにおい。
そして——ごく微かに、何か清らかなものの気配。
シオンがその扉の前で立ち止まり、金色の瞳をわずかに輝かせた。
ロルフは扉に手をかけた。
冷たい石の感触。
中は、暗い。
階段が、地下へと続いている。
「行こう、シオン」
ロルフがそっと言うと、シオンは静かに頷いた。
その声は、震えていなかった。
ロルフはクワを手に持ち直した。
地下から、かすかな光が見えた。
白金色の、光。




