第37話:波紋の兆し、静かなる包囲網
翌朝、職人街一帯は、小さな、しかし劇的な「変化」に揺れていた。
宿『枯れ木亭』の井戸に続き、スラムに隣接する数箇所の共有井戸で、脂が浮いていた水が突如として澄み渡ったのだ。人々は「昨夜の祈りが通じた」「教団の奇跡だ」と口々に喜び、教団の香炉にこぞって寄進を捧げている。
そんな喧騒を余所に、ロルフは宿の裏庭で、シオンに「土の層の診分け方」を教えていた。
「……いいかい、シオン。地表がどんなに綺麗でも、層の間に『淀み』があれば、いつか根は腐る。昨夜僕が通した道も、もう教団の力で押し潰されようとしている。この街の病は、想像以上に根深いよ」
ロルフは、自身の手入れが一時的な気付け薬に過ぎないことを冷徹に理解していた。バケツ一杯の水を海に撒いたところで、海の色は変わらない。だが、その一滴が波紋を呼び、王宮の奥深くで「風」を待つ者たちに届こうとしていた。
王城の堅牢な執務室。隠密のカイトが、エリザとメビウスの前で跪いていた。
「……魔法ではありませんでした。ただの一振り、それも魔法円も詠唱もなく、地中の汚泥を分解し、流れを変えたのです。あの男――ロルフ殿は、この王都そのものを『一つの巨大な植物』として診ておられます」
メビウスが驚愕に目を見開く中、エリザだけは静かに微笑んだ。
「……そう。やっぱり、ロルフ殿なのね。あの豊村での一ヶ月……私に『根を張る意味』を教えてくれた、あの人そのものだわ」
エリザの脳裏には、泥にまみれ、クワの重さに涙しながらも、ロルフと共に畑を耕した日々が蘇っていた。王女という身分を剥ぎ取られ、ただの「一人の人間」として土と向き合ったあの修行こそが、今の彼女の支えとなっていたのだ。
「メビウス、教団が気づく前に彼を迎えに行きましょう。父上の治療も、この街の浄化も、彼の手入れなくしては成し遂げられない。……今度は王女としてではなく、弟子としてお願いしに行くわ」
一方、王都の地下深くに位置する教団総本山の祭壇。そこには、国中のマナを強引に吸い上げ、貯蔵している巨大な「魔力のダム」が存在していた。
司祭たちが、一瞬だけ生じた「マナの逆流」の数値を見て、顔を青くしている。
「スラムの結節点が、一瞬で浄化されただと……? そんな魔術、聖典のどこにも記されていない!」
背後の闇から、教団の幹部が冷徹な声を響かせた。
「魔術ではないだろう。あれは『物理的な道理』を書き換える技だ。……あの村で我々の計画を狂わせた、あの庭師が来ている。理を奪い取る不純物は、芽のうちに摘み取らねばならん」
秘密結社としての牙が、王都の闇の中で音もなく研がれ始めていた。
市場での買い出しを終え、ロルフとシオンが人気のない裏路地へ差し掛かった時、数人の気配が背後に迫った。
シオンが緊張で身を固めるが、ロルフは振り返りもせず、籠に入れたリンゴの艶を確かめながら言った。
「……王女様が、こんな泥臭い場所に来るもんじゃないよ。服に土がついたら、洗濯が大変だって教えたはずだろ、エリザ」
物陰から現れたのは、粗末な麻の服で変装したエリザだった。彼女は一瞬、師匠の変わらぬ鋭さに苦笑し、それから豊村の時と同じように、深く、敬意を込めて一礼した。
「……お久しぶりです、ロルフ先生。一ヶ月、あなたの庭で学んだおかげで、この街の『不自然な甘い匂い』が、どれほど危険なものか気づくことができました」
エリザの瞳には、かつての迷いはない。
「お願いです。あなたのクワで……この腐りかけた王都を、そして正気を失った父を、手入れしてはいただけないでしょうか」
ロルフは溜息をつき、リンゴを一つシオンに渡した。
「……やれやれ。修行が終わったら、あとは自分で庭を整えるもんだよ、弟子。……でも、ここまで荒れ放題だと、放っておくのも寝覚めが悪いな」
ロルフが承諾の言葉を口にするよりも早く、路地の両端を教団の息がかかった「自警団」が塞いだ。
彼らは暗殺者ではない。教団の香で目を血走らせ、正義を信じ込まされた「一般の市民たち」だ。彼らの手には、教団から与えられた「聖なる炎(焼夷弾)」が握られている。
「……やれやれ。王女様を連れての逃走劇なんて、僕の仕事内容に入ってないんだけどな。それに、こいつらは『害虫』じゃない。ただの、手入れを忘れた『迷い枝』だ」
民を傷つけず、けれど一歩も退かずに道を切り拓く。
ロルフは静かにクワの柄を握り直した。




