第35話:巨塔の影、王都の呼吸
天を突くような白亜の城壁が、落日に焼かれて長く巨大な影を街の外へと伸ばしている。王都の正門。そこには数百年変わらぬ王家の「獅子の紋章」が刻まれた旗が堂々と翻っていた。しかし、その威容とは裏腹に、門をくぐろうとする列の空気はどこか重く、弛緩していた。
ロルフは、使い古されたクワを杖代わりに突き、入都を待つ人々の背中を眺めていた。隣には、深くフードを被ったシオンが、王都から漂ってくる独特の風に鼻をひくつかせている。
「……やれやれ。獅子の足元で、妙な寄生虫が這い回っているね。それも、ずいぶんと行儀の悪いやつだ」
ロルフの視線の先、検問を行う兵士たちの様子が以前とは明らかに違っていた。彼らの革帯や剣の柄には、銀色に光る指先ほどの小瓶が吊るされている。兵士の一人が、交代の合間にその小瓶の蓋を開け、透明な液体を指先につけては、こめかみに塗り込んだ。その瞬間、彼の強張っていた表情が不自然なほど滑らかに解け、瞳に虚ろな輝きが宿る。
それは教団が「聖なる香」と称して街に流している、神経を昂揚させ、疲労を忘れさせる劇薬だった。強制された礼拝も、威圧的な教典の朗読もない。ただ、過酷な門番の仕事をこなすための「ささやかな癒やし」として、それは毒のように、しかし甘美に浸透していた。
ロルフがメビウスから預かった「古い職人用の通行許可証」を差し出すと、門番は眠たげな目でそれを一瞥し、指先に残った結晶の粉を払うこともせずに無造作に門を開いた。
「……通れ。次だ、急げ。日が暮れるぞ」
熱狂もなければ強要もない。ただ、誰もが少しだけ「ぼんやり」としている。その静かな違和感こそが、王都を包み始めた新しい空気の正体だった。
一歩王都の中へ入れば、そこにはかつてと変わらぬ、いや、それ以上の活気が溢れているように見えた。
石畳の目抜き通りを、金細工で飾られた貴族の馬車が音を立てて駆け抜け、露店からは焼きたてのパンや肉の芳香が立ち上る。一見すれば、教団の影響など微塵もない繁栄の都そのものだ。
だが、ロルフの鼻は、その賑わいの底に淀む「焦げた砂糖のような不自然な甘い匂い」を逃さなかった。
路地裏の物陰。高級な酒場の入り口。そして、疲れ切った人足たちが肩を寄せ合う広場の隅。そこには必ず、教団の末端が「善意」で配っているという聖なる結晶の残滓――紫色の細かな粉末が落ちていた。
「……シオン、あまり深く呼吸しちゃだめだよ。街全体が、見えない薄い膜で覆われているみたいだ」
人々は笑顔で談笑し、広場では音楽が奏でられている。しかし、よく見れば人々の肌の色はどこか土気色で、笑い声の合間には乾いた咳が混じっている。彼らは「信仰」に目覚めたのではなく、教団が提供する「安らぎ」という名の依存に魂を預けていた。
街路樹の根元をロルフがクワの先で突くと、土は不自然に乾き、微生物の気配がまるでない。教団の「灰」を肥料として与えられた植物は、死に物狂いで短期間の開花を繰り返させられ、大地から根こそぎ命を吸い上げられていた。
「見てごらん。街全体が、自分の命を薪にして暖を取っているようなものだ。このままじゃ、冬が来る前に灰になっちゃうよ」
同じ頃、王都の心臓部である王城の片隅。書類の山に埋もれた執務室で、メビウスは卓上のランプを灯し直した。
彼の前にあるのは、教団が王宮へ「寄進」した物資のリストと、それと引き換えに国庫から流出していく膨大な資産の記録だ。教団は決して表舞台に立とうとはしない。ただ、「病める陛下を支える善意の隣人」として、王の不安の隙間に少しずつ、確実にその根を伸ばしていた。
「……獅子の爪が、内側からボロボロに崩れている。これでは、戦う前に膝を突くことになるな」
メビウスが自嘲気味に呟いた時、部屋の扉が音もなく開いた。訪れたのは、王女エリザだった。彼女は華美な王族の装いを避け、地味な外套で身を包んでいた。
「メビウス、父上の様子はどう……?」
「……相変わらずです。教団が持ってくる『癒やしの薬』がなければ、陛下は朝起きることすらままならない。もはや、私や王女殿下のお顔も、霞の向こう側にあるようにお見受けします。教団を追い出せば、陛下はそのまま絶命しかねない……まさに、毒を薬として飲まされている状態です」
エリザは窓枠に手をかけ、夕闇に包まれていく王都を見つめた。
「ロルフ殿が、王都に来たという風の便りを聞いたわ。……あの人は、この泥沼をどう見るかしら。メビウス、私たちはあの方の『剪定』を信じて、ここで耐えるしかない。王宮が完全に腐り落ちる前に、新しい風が必要なのよ」
ロルフが選んだ宿は、煌びやかな中央通りから遠く離れた、古い職人街の端にひっそりと佇む『枯れ木亭』だった。
看板は煤けてひび割れ、今にも落ちそうだが、そこには街の至る所に置かれている教団の香炉も、怪しげな「聖薬」を売り歩く商人の姿もなかった。
「……ここなら、少しはまともな土の匂いがする。人間の垢と、古い鉄の匂いだ。こっちの方が、よっぽど健康的だよ」
宿の主人は、近頃流行っている「甘い匂いの薬」を何よりも毛嫌いする頑固な老職人だった。ロルフの使い込まれたクワと、その静かな、しかし確かな重みを感じさせる伫まいを見た主人は、黙って二階の奥まった部屋の鍵を貸し出した。
部屋に入り、人混みに当てられて疲れたシオンをベッドに休ませると、ロルフは窓際に立ち、夜の帳が下りた王都を見下ろした。
王城の向こう、闇の中にひっそりと、しかし巨大な蜘蛛のように鎮座する教団の礼拝堂。そこから、街の地下を走る「マナの道(地脈)」が、不自然な方向へとねじ曲げられているのが、庭師としての彼の目にははっきりと見えていた。
「……やれやれ。水路を曲げて、自分たちの池にだけ水を引くなんて。おかげで下流の土は乾ききっている。これは、ずいぶんと大きな剪定が必要になりそうだね」
ロルフは宿の裏庭に降りた。そこには石垣の隙間に、忘れ去られたように生えている枯れかけの一輪の花があった。教団の毒に当られた風を受け、今にも散りそうなその花に、ロルフはそっと指を触れた。
「……シオン。まずはこの街の『詰まった水路』から掃除していこうか」
指先から、シオンから預かった魔力を極限まで薄め、浄化の波長へと変換して流し込む。すると、花は眠りから覚めたように僅かに首を持ち上げ、夜風に瑞々しく揺れた。
ロルフの瞳には、かつてないほど静かで、深い怒りが宿っている。
秘密結社のように王都の血脈に入り込み、人々の命を啜る教団。その「毒」を、庭師の作法で一歩ずつ、確実に抜き取っていく。
「根っこを叩く前に、まずはこの街の息苦しさを取ってあげないとね。……さて、明日はどの枝から払っていこうかな」
王都という巨大な庭に、一人の農夫がクワを振るう。その静かなる戦いの火蓋が、今、切られた。




