第33話:月下の剪定、無慈悲なる夜
豊村の夜は、本来であれば虫の音だけが支配する穏やかな時間だ。
だが、今夜の空気はひび割れたガラスのように鋭く、冷たい。
ロルフは縁側に座り、月明かりの下で愛用のクワを研いでいた。砥石と鋼が擦れる乾いた音が、静寂の中に響く。
ふと、その音が止まった。
村の境界線。ロルフが張り巡らせていた感覚共有の蔦が、不自然な「断絶」を告げたからだ。
「……やれやれ。音も立てずに庭を囲むなんて、ずいぶんとしつけの悪い客だね」
暗闇の中から、十数人の影が滲み出した。教団直属の暗殺部隊「断罪の鋏」。彼らはこれまでの騎士団のように、名乗りも最後通告もしない。
彼らが手にした魔導具から、村を丸ごと焼き払うための「焼夷の結界」が展開されようとしていた。
ロルフの瞳から、隠居者の温度が消えた。
種を奪うだけでなく、畑そのものを焼き、証拠ごと灰にする。その明確な殺意に対し、ロルフが下した裁定は「剪定」だった。
暗殺者の一人が、ロルフの家の屋根に飛び移ろうとした。
だが、その足が瓦に触れることはなかった。
「あ――」
声にもならない悲鳴が漏れる。軒先から伸びた一本の蔦が、まるで精密な外科手術のように、暗殺者の喉元を正確に貫いていた。
それを合図に、静かな惨劇が始まった。
庭のあちこちから、音もなく硬質化した「根の棘」が突き出す。それは暗殺者たちの道具である毒をエネルギー「等価交換」の種火(燃料)にし、物理的な質量へと変換したものだった。
暗殺のための毒を、自分を貫く刃に変えられる。
暗殺者たちは、自分が何をされているのかも理解できぬまま、次々と夜の闇に飲み込まれていった。
「殺意を持って庭に入るなら、自分も肥料になる覚悟くらいはしてくるべきだよ」
ロルフは立ち上がることもなく、ただクワを一度、床板に叩きつけた。
ドォォッ、と地下で響く鈍い音。
地中の根が暗殺者たちの骸を絡め取り、一瞬にして土の奥深くへと引きずり込んでいく。そこにはもはや、血の一滴すら残らない。彼らは文字通り、豊村の土を肥やすための「有機物」へと変えられたのだ。
唯一、死の根から逃れた男がいた。部隊のリーダーだ。
彼は仲間の全滅を目の当たりにし、狂気に満ちた目で懐から紫色の「結晶」を取り出すと、それを噛み砕いた。
「おおおおおッ!」
爆発的な魔力が男の体を駆け巡る。結晶による強制的な活性化。男の剣が、重力を無視した速度でロルフの首筋へと奔った。
ガギィィィンッ!
火花が散る。ロルフは座ったまま、クワの柄でその一撃を受け止めていた。
「君の魔力からは、死んだ植物の匂いがする」
ロルフは冷徹な瞳で男を見据えた。
「そんな腐ったエネルギーで、僕の庭の枝を払えると思わないでほしいな」
ロルフがクワを軽くひねる。それだけで、男が結晶で高めたはずの魔力の波長が、完全に「中和」された。
等価交換――男の命を削ったもの、それは毒だった。ロルフは瞬間に「男を拘束するための質量」へと変換したのだ。
男の四肢に、地面から伸びた太い蔦が絡みつく。男は叫ぼうとしたが、顎まで蔦に覆われ、一歩も動けなくなった。
「君だけは生かしておくよ。主(教団)に伝える言葉が必要だろうからね」
翌朝。
豊村の空気は澄み渡り、昨夜の惨劇など嘘のように平穏だった。庭の土は心なしか昨日よりも黒々と肥え、瑞々しく輝いている。
ロルフは、駆けつけたメビウスの前に、蔦でぐるぐる巻きにされた暗殺リーダーを放り出した。
「ロルフ殿……これは……?」
「庭の害虫だよ。メビウスさん、悪いけどこの『結晶の出どころ』について、こいつから詳しく聞いておいてくれるかい?」
呆然とするメビウスを余所に、ロルフは家の物置の奥から、色褪せた、しかし手入れの行き届いた「職人の道具袋」を引っ張り出してきた。中にはクワを研ぐための特殊な砥石や、土壌を分析するための天秤、そして数種類の「古い種」が収められている。
家の前では、体調が安定し始めた「偽の神子」の少年と、彼を支えるシオン、そして心配そうに見守るリゼットが立っていた。
ロルフは使い古した帽子を深く被り、肩にクワを担いだ。
その視線は、豊村ののどかな景色を通り越し、遠い王都の空に向けられている。
教団が広める「甘い毒」。依存し、腐っていく人々。そして、それを利用して命を道具にする傲慢な連中。
受動的に待っているだけでは、この「病」はいつかこの村の平穏さえも食い荒らすだろう。
「ロルフ様、どこへ行くんですか……?」
シオンが不安げに尋ねる。
ロルフは、いつものように「やれやれ」と溜息をつき、けれどその瞳に確かな決意の火を灯して微笑んだ。
「シオン、リゼット。……少し長めの出張に行ってくるよ。王都の庭が、ずいぶんと荒れ放題みたいだからね」
ロルフは一度だけ家を振り返り、力強い足取りで歩き出す。
「……剪定しに、行こうと思う」
それは、国家という名の巨大な庭を耕し直す意思だった。




