第32話:接ぎ木の少年と、甘い侵食
王宮騎士団が這う這うの体で撤退し、豊村にようやく静寂が戻った。だが、ロルフはその静寂の中に、言いようのない不快感を覚えていた。
泥濘と化した街道をクワで均しながら、ロルフは鼻をひくつかせる。
「……やれやれ。土の匂いに混じって、焦げた砂糖のような、嫌に鼻につく甘い匂いがするね」
それは騎士たちが身に纏っていた魔導甲冑や、彼らが口にしていた「聖なる携帯食」から漏れ出していたものだった。教団が騎士たちに配給したそれは、極度の疲労を忘れさせ、恐怖を麻痺させる「奇跡の糧」として、近頃王都の兵士たちの間で急速に広まっているという。
ロルフは、足元の土に混じったその「甘い粉末」を指で掬い、じっと見つめた。
土を肥やすどころか、微生物の活動を強制的に活性化させ、短期間で土壌の栄養を吸い尽くして枯死させる――。それは、生命の貯金を無理やり引き出させるような、呪いに近い性質を持っていた。
ロルフの家では、保護された「偽の神子」の少年が、シオンとリゼットの手厚い看病を受けていた。
少年はシオンと瓜二つの顔をしているが、その細い腕には、幾重にも重なる「接ぎ木」のような術式の傷跡が刻まれている。
戻ってきたロルフは、少年の額に手を当て、その魔力回路の深部を覗き込んだ。
「……酷いな。これは、魔力というより『命の芯』を削って燃やしている」
ロルフの診断は残酷だった。
少年は、教団が裏で広めている高純度の嗜好品――通称「聖なる結晶」を過剰に投与され、その薬理作用によって強制的にシオン(神子)と同質の波長を引き出されていた。
教団は、孤児たちにこの「毒」を打ち込み、一時的に神子の力を模倣させた後、体がボロ布のように使い物にならなくなれば、迷わず「廃棄」してきたのだ。
「ロルフ様……この人は、助かるんですか?」
シオンが、祈るように尋ねる。
「……根っこはまだ生きている。でも、この『甘い毒』に依存してしまった回路を治すのは、荒れ果てた荒野を一から耕し直すより骨が折れるよ」
その頃、王都の王宮では、王が震える手で小さな銀の小箱を開けていた。
豊村での騎士団の惨敗。エリザの忠告を無視したことへの後悔。そして、ロルフという「理解不能な農夫」への拭い去れない恐怖。
小心な王の精神は、すでに限界を迎えていた。
「……これだ。これがあれば、余は王として、泰然としていられる……」
王が小箱から取り出したのは、透き通った紫色の結晶だった。教団の司祭が「神の慈悲を形にしたもの」と称して献上したそれは、一口含めば、あらゆる不安が消え去り、全能感に満たされるという。
だが、その代償は王宮の静かな崩壊だった。王は「結晶」の供給を絶やさぬよう、教団の要求する無理な増税や、不当な特権を次々と承認し始めている。
王都の街角でも、この「毒」は形を変えて広まっていた。人々はそれを、日常の苦しみを忘れさせてくれる救いだと信じ、疑いもせずに魂を教団へ売り渡している。
深夜。ロルフの家で、少年が突如として激しくのたうち回った。
「あああああッ! くれ、それを……! あの、甘い光を……!」
少年は覚醒したが、その瞳に正気はない。血走った目でロルフの服を掴み、教団から与えられていた「結晶」を求める。
シオンが必死に彼を抑えるが、少年の体からは黒い霧のような、制御不能の「毒」が漏れ出し、部屋の床を腐食させていく。
「くれないなら……殺してくれ! 身体中が焼けるように痛いんだ! 闇が、闇が僕を食べている……!」
少年の叫びは、人間の尊厳を奪われた獣の悲鳴だった。
ロルフは眉一つ動かさず、自分が育てた「最も苦い野草」の煎じ薬を無理やり少年の口に流し込んだ。
「ぐ、がはっ……! 苦い……苦すぎる……!」
「……甘いだけの種は、中から腐って死ぬのを待つだけだ。君が自分を取り戻したいなら、その苦さを噛み締めて、自分の根っこで立ちなさい。……死ぬより辛いかもしれないけど、ここは僕の庭だ。僕の庭にいる限り、ゴミのように捨てられることは、僕が許さない」
ロルフの静かな、しかし鉄のように硬い言葉に、少年は僅かに力を抜いた。荒い呼吸を繰り返しながら、少年は涙を流し、眠りへと落ちていった。
嵐のような発作が収まった後、ロルフは一人、縁側に出て夜の森を見つめた。
クワの柄を握る手に、僅かな力がこもる。
森の深淵から、幾つもの「殺意」が、影のように村を包囲し始めていた。
失敗した騎士団とは違う。教団が育て上げた、音も立てずに標的を狩る暗殺部隊。彼らにとって、保護された「偽の神子」は、自分たちの非道を証明する生きた証拠であり、直ちに消去すべき不純物だった。
「……シオン。今夜は窓を閉めて、あの子の傍を離れないで」
「ロルフ様……?」
「……やれやれ。今度の客は、挨拶抜きで庭に踏み込んでくるつもりらしい。害虫駆除には、少しばかり強い煙が必要になりそうだ」
ロルフの視線の先。
月の光を反射しない黒い刃を携えた影たちが、音もなく村の境界線を越えた。
豊村の夜に、冷徹な「剪定」の時間が始まろうとしていた。




