第26話:波紋と、古びた手帳
昨夜の激闘……あるいは「大掃除」が嘘のように、豊村には再び穏やかな陽光が降り注いでいた。
ロルフはいつものように、つぎはぎの作業服に身を包み、縁側に腰を下ろして、昨夜手に入れた「戦利品」を眺めていた。一つは、儀式師の懐から掠め取った古びた革の手帳。もう一つは、不気味な茨の紋章が刻まれた銀のブローチだ。
「ロルフ様、お茶が入りました。……それと、昨日の泥だらけの服、洗っておきましたよ。一体どんな『害虫』と戦ったら、あんなに煤だらけになるんですか?」
リゼットが、呆れたような、けれどどこか楽しそうな顔で大ぶりなマグカップを差し出す。
「ありがとう、リゼット。いやあ、ちょっと頑固な根っこがあってね。シオンに手伝ってもらって、なんとか引き抜いてきたんだ」
「ロルフ様の『ちょっと』は、大体村一つ救う規模ですからね……。シオン君、あんなに晴れ晴れとした顔をしてますし」
リゼットが視線を向けた先では、シオンが庭先で一生懸命に大根の種を蒔いていた。昨夜、自分の「毒」がロルフの手によって誰かを守るための力へと変換された経験は、彼の中で大きな転換点となったらしい。その手つきには、かつての迷いや恐怖は微塵もなかった。
「……さて、こっちは少し根が深そうだ」
ロルフは冷めた茶を一口啜り、手帳を開いた。
そこには、昨日の儀式師が個人的に記録していた、呪術の配合や魔力の波長データがびっしりと書き込まれていた。だが、ページをめくるうちに、ロルフの瞳から「のんびりした農夫」の光が消えていく。
(……魔導院、第十三支局。計画名『神子の再精錬』か。……やれやれ。あいつはただの野良魔導師じゃなくて、王都の公的な組織から派遣された『庭師』だったわけだ)
手帳に記されていたのは、シオンの「神子の力」を抽出し、それを強力な広域殺傷兵器……「浄化と腐敗の魔弾」として軍事利用するための実験記録だった。儀式師が村に撒いた毒の粉は、そのためのデータ収集に過ぎなかったのだ。
「国全体が、自分たちの庭を腐らせてまで武器を作ろうとしてるのか。……これは肥料を撒くだけじゃ、土は元に戻らないね」
同じ頃、王都の魔導院。
その最深部にある円卓会議室では、異様な緊張感が漂っていた。
「……失敗した、だと? 第十三支局の主任儀式師が、魔具をすべて破壊され、命からがら逃げ帰ってきたというのは事実か!」
円卓の主座に座る、冷徹な瞳をした中年男性――魔導院副院長のボルツが、報告書を机に叩きつけた。
「は、はい……。彼は現在、ひどい錯乱状態で『農夫が、農夫が……』と繰り返すばかりで、聴取が不可能な状態にあります。魔力そのものは残っていますが、長年愛用していた黒檀の杖は、跡形もなく『植物の苗』に変換されていたとのこと……」
報告を行う若き魔導師の言葉に、場がざわめく。
魔導具を物理的に破壊するのではなく、その構成情報を書き換え、別の生命体へと「変換」する。それは現代魔術の理論を根本から覆す、禁忌の業に近い。
「神子の力が、我々の想像を超えて覚醒したのか? それとも……あの村に、何者かが潜んでいるのか」
ボルツは、手元の地図に記された「豊村」の地点に、鋭い爪を立てた。
「その村を、直ちに『特級危険区域』に指定しろ。調査団ではない。……騎士団と、精鋭の対魔導師部隊を動かす。神子の力は、我々の管理下にあるべきだ。……もし邪魔をする雑草がいるなら、村ごと焼き払え」
王都の権力者たちが、自分たちの「正義」の名の下に、静かな村を蹂躙しようと動き出す。それは、昨日の儀式師のような一人の悪意とは比較にならない、巨大な「システムの暴力」だった。
そんな王都の暗雲を知ってか知らずか、豊村のロルフは、シオンの「教育」を一段階引き上げることにした。
「シオン、ちょっとこっちへおいで」
「はい、ロルフ様。次はどこを耕しますか?」
「今日は土じゃなくて、自分の中を耕してみようか。昨夜、君の毒を僕が変換した感触、覚えてる?」
シオンは真剣な表情で頷いた。
「はい。……僕の中から黒い熱が流れ出して、それがロルフ様のクワを通った瞬間、温かい……太陽のような力に変わるのを感じました」
「いい感覚だ。……等価交換の本質は、『価値の付け替え』なんだ。君の中にあるエネルギーは、放っておけば何かを壊す『毒』になる。でも、君がそのエネルギーに『育てる』という目的を与えてあげれば、それは最高の熱源になる」
ロルフは一株の枯れかけた苗を差し出した。
「これを、君の力で温めてごらん。壊すんじゃなく、命のスイッチを押してあげるイメージだ。……君の毒を、苗が欲しがる『養分』に変換して、等価に交換してやるんだよ」
シオンは緊張した面持ちで、苗に手をかざした。
ドクン、と黒い魔力が指先に集まる。だが、シオンはそれを放出する直前で、ロルフの教えを反芻した。
(これは毒じゃない。……この子が必要な『熱』なんだ)
次の瞬間、シオンの指先から出たのは、漆黒ではなく、微かに紫がかった「柔らかな光」だった。
枯れかけていた苗が、ググッと背筋を伸ばし、青々とした葉を広げる。
「……できた! ロルフ様、見てください!」
「うん、上出来だ。……自分の力を怖がる必要はない。使い道を決めるのは、力じゃなくて君自身だからね」
ロルフは優しくシオンの頭を撫でたが、その視線は村の入り口へと向けられていた。
そこには、昨日ロルフが植えたばかりの「防衛用の植物」がある。だが、その葉の先端が、不自然に黒く変色し始めていた。
(……やれやれ。昨日あいつを逃がしたのが、少し甘かったかな。……今度は『除草剤』をたっぷり用意した連中が来るみたいだ)
夕暮れ時。
村の境界線に停滞していた霧は完全に消えていた。だが、代わりに響いてきたのは、規則正しい鉄の蹄の音と、重厚な甲冑が擦れる金属音だった。
街道の先には、王宮直属の紋章を掲げた一団。
それはかつてエリザを迎いに来た騎士団とは、放たれる殺気の次元が違っていた。
「……ロルフ様?」
異変を察知したシオンが、ロルフの隣に立つ。
「シオン、リゼット。……夕飯は少し遅くなるかもしれない。……今のうちに、鍋の火は止めておいて」
ロルフは愛用のクワを手に取り、ゆっくりと村の入り口へと歩き出した。
手帳に記された組織の紋章と同じ旗が、風に棚引いている。
「せっかく大根の芽が出始めたっていうのに、土足で入ってこられるのは、本当に困るんだよね」
ロルフの背後に、村を守る「見えない陣」が展開される。
国家という巨大な権力が、一人の庭師と、一人の少年の平穏を奪いに来る。
だが、ロルフの瞳にあるのは、変わらぬ「やれやれ」という呆れと、それを遥かに凌駕する、大地のような不動の決意だった。




