第19話:重なり合う光
約束の一ヶ月が、ついにその最後の日を告げようとしていた。
豊村の朝、ロルフの家の裏庭にある小さな実験用区画の前に、四人の男女が集まっていた。
中心に立つのはエリザだ。
かつては王宮の宝石と謳われた彼女も、今では日焼けした肌に逞しい腕、そして何よりも、大地の微かな呼吸を感じ取れる鋭い感覚を身につけていた。
彼女の目の前には、一ヶ月前に彼女自身が植えた一株の苗がある。それはロルフが「卒業試験」として託した、最も気難しく、最も愛情を必要とする【月下清浄草】の試作種だった。
「……できたわ、ロルフ。見て」
エリザがそっと土に触れる。その指先には、一ヶ月前のような焦りも、王女としての驕りもない。
ただ、命が芽吹くことを純粋に喜ぶ、慈愛に満ちた魔力が流れていた。
すると、土の中から吸い込まれるように光が立ち昇り、白く輝く花が、朝露を弾きながら凛と咲き誇った。
その芳香は、エリザがかつて身に纏っていたどの香水よりも気高く、それでいて懐かしい大地の匂いがした。
「……うん。合格だね、エリザ様。僕が教えることは、もう何もないよ」
ロルフが満足げに頷く。隣で腕を組んでいたシオンも、珍しく微かに口角を上げ、リゼットは「わあ、綺麗……!」と感嘆の声を上げた。
「これなら、王都にある『あの種』も、君に応えるはずだ。……君はもう、ただ奇跡を待つだけの王女じゃない。土を耕し、命を待つことができる『農夫』だからね」
「……ありがとう、ロルフ。あなたから教わったこと、一生忘れないわ」
エリザはその場に跪き、泥のついたロルフの手に、自らの手を重ねた。
それは臣下への礼ではなく、同じ大地を愛する同志への、最高の敬意だった。
彼女の指先に残る無数のマメは、この一ヶ月、彼女が王宮の快適さを捨て、真摯に命と向き合ってきた勲章だった。
一方、王都――。
状況は、もはや言葉を失うほどの最悪な段階に達していた。
かつてのバラ園は、今や異臭を放つ腐敗した粘土の山と化していた。
ロルフが一時的に浄化した空気はどこへやら、人々の不平不満、そして王の焦りが毒となって都に降り注いでいる。
その中心で立ち尽くすメビウスは、ボロボロの衣服で、虚ろな瞳をして土を弄っていた。
「……出ない。どうしても、芽が出ないんだ……」
彼はこの一ヶ月、不眠不休でロルフの種に向き合ってきた。
だが、王や貴族たちは毎日彼を急かし、挙句の果てには「無能」と罵り、土に下劣な魔力肥料を撒くことさえ強いた。
彼らの邪な心が、どれほど土を殺し、種の眠りを深くしているか――それを理解しているのはメビウスだけだった。
「メビウス殿! まだ芽は出ぬのか! 王女殿下が戻られるというのに、この惨状……! 万が一のことがあれば、貴様の首だけでは済まぬぞ!」
執政官の怒声が響く。
周囲の重鎮たちは、自分たちの失態をすべてメビウスに押し付けようと、血走った目で彼を睨みつけていた。
メビウスは反論する気力もなく、ただ、ロルフが渡してくれた種の「温もり」だけを信じて、乾いた掌を土に当てていた。
(ロルフ殿……。私には、才能がなかったのでしょうか。あなたの残した希望を、私は守りきれない。都は、このまま死んでいくのでしょうか……)
メビウスが絶望に目を閉じ、涙が土にこぼれようとした、その時だった。
腐った泥の向こう側から、王都のそれとは全く異なる、凛とした空気の波が押し寄せてきた。
「――そこまでよ。土をこれ以上、汚さないで」
広場に響き渡ったのは、鈴を転がすような、けれど雷鳴のような威厳を秘めた女性の声だった。
振り返った騎士や貴族たちが、一斉に息を呑む。
そこには、泥のついた作業靴を履き、日に焼けた姿で立つエリザ王女がいた。
彼女はかつての豪奢なドレスを脱ぎ捨て、豊村で身につけた質素な旅装のまま、真っ直ぐにバラ園の中央へと歩み寄った。
「殿下!? そのようなお姿で……! すぐに着替えと湯の準備を――」
「黙りなさい。今の私がすべきことは、虚飾に身を包むことではないわ。……メビウス。よく、一人で耐えてくれたわね」
エリザは王としての格式すら捨てて膝をつき、憔悴しきったメビウスの肩に手を置いた。
メビウスは顔を上げ、驚愕に目を見開く。
彼女の手のひらは荒れ、泥にまみれていたが、そこからは豊村で育まれた、圧倒的な「生のエネルギー」が溢れていた。
「……王女、殿下……? その手、その瞳……。あなたは、ロルフ殿のところで……真実を……」
「ええ。学んできたわ。……メビウス、あなたの努力は間違っていない。ただ、一人ではこの地の『不浄』を飲み込むには大きすぎただけ。……さあ、一緒にやりましょう。私たちの、土を」
エリザがメビウスの隣で、同じように土に手を触れる。王女が泥に触れる姿に、貴族たちは悲鳴を上げたが、彼女は気にしなかった。
彼女が豊村で得た、大地の確信。
メビウスが王都で守り続けた、不屈の忍耐。
二人の想いが重なり、ロルフが託した種へと流れ込む。
――その瞬間だった。
ドクン、と大地の鼓動が王都全体に響き渡った。
沈黙していた種が、黄金色の光を放ちながら、一気に殻を破った。
それは一本の芽ではない。瞬く間に白い蔦が走り、バラ園の腐敗を浄化しながら、真っ白な【浄化草】の花が爆発するように咲き乱れた。
「な……なんだ、この光は……!?」
「空気が……浄化されていく……!」
瘴気は霧散し、異臭は花の芳香へと変わる。
メビウスは、その光景を涙ながらに見つめていた。種が芽吹いたのではない。
二人の「心根」が、そしてロルフへの信頼が、この腐りきった土壌に打ち勝ったのだ。
同じ頃、豊村。
ロルフは畑仕事の手を止め、王都の方角にある空が、微かに白く輝くのを見つめていた。
「……お、旦那。なんか王都の方が光ってねえか?」
近くで作業していたヨハンさんが不思議そうに指差す。
「……やれやれ。あいつも真面目すぎるから、少し土を固くしてないか心配だったけど……。どうやら、良い肥料(協力者)が見つかったみたいだね」
ロルフは小さく笑うと、再びハサミを手に取り、トマトの脇芽を摘み始めた。
「シオン、リゼット。明日の朝は、今日より少し忙しくなるよ。……良い風が吹いてきた。野菜たちが、もっと水を欲しがりそうだ」
「承知いたしました、ロルフ様。……王都の雑音が、ようやく止んだようですね」
「ふふ、また美味しい野菜がたくさん獲れますね、ロルフ様!」
王都では英雄として語り継がれるであろう、王女と庭師の奇跡。
だが、その奇跡の生みの親は、変わらぬ静寂の中で、愛するトマトの苗に語りかけていた。
豊村の夜明けは、今日もまた、穏やかで清々しい。




