第16話:直談判と「やれやれ」な提案
豊村の夜は深い。ロルフの家のリビングでは、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが響いていた。
着替えを済ませ、リゼットの作った温かい野菜スープを飲み干したエリザは、ようやく人心地ついたようだった。泥に汚れ、疲れ切ってはいたが、その背筋は驚くほど真っ直ぐに伸びている。
「……まずは礼を言うわ、ロルフ。それから、無断でこの場所まで押しかけた無礼を許してほしい」
「……別にいいよ。無事に着いたんなら、それで十分だしね」
ロルフは向かい合わせに座り、ハーブティーの湯気の向こうから彼女を見つめた。隣ではシオンが、万が一の事態に備えて(あるいはロルフに無礼がないか見張るように)影のように控えている。
「単刀直入に言うわ。王都に戻ってほしい。……あなたの力が必要なの。バルトロが遺した負の遺産……瘴気と腐敗が、今も都を蝕んでいる。あなたが残してくれた種も、誰が植えても、どんな魔導師が祈っても、一向に芽吹く気配がないのよ」
エリザの声には、切実な響きがあった。王女自ら、護衛もつけずに辺境まで足を運ぶ。それがどれほど命懸けの行為であるかは、ロルフにも分かっていた。自分から出向くのがせめてもの礼儀だと、彼女はそう判断したのだろう。
「……メビウスさんが頑張っているはずだけど、彼でもダメかな?」
「メビウスは必死にやっているわ。でも、今の王宮は……父様を含め、あなたの種を単なる『権威を取り戻す道具』としか見ていない。土を愛でるどころか、芽吹かない焦りを土にぶつける始末よ。これでは……これでは、あの都は本当に終わってしまう」
エリザは拳を握りしめ、ロルフを射抜くような目で見つめた。
「頼むわ、ロルフ。もう一度、あの都を救って」
沈黙が流れた。ロルフは視線を落とし、カップの中で揺れる茶葉を見つめる。エリザの必死な思いは痛いほど伝わってくる。だが、ロルフの答えは最初から決まっていた。
「……行けないよ、エリザ様」
「なぜ!? 報酬なら望むままに用意させる。爵位だって、土地だって――」
「そうじゃないんだ。……僕が行っても、また同じことの繰り返しになるからだよ」
ロルフは静かに首を振った。
「僕が【等価交換】でその場を浄化するのは簡単だよ。でもね、エリザ様。土っていうのは、そこに住む人の心を映す鏡なんだ。王様や貴族たちが、心根を変えずに『魔法のように一瞬で解決してくれる誰か』を待っている限り、僕が何を植えても、僕がいなくなった瞬間にまた腐り始める」
「それは……」
「種が芽吹かないのは、種が悪いわけじゃない。あの場所が、種に『拒絶』されているんだ。……僕という外科医が無理やり傷口を塞いでも、体の中から腐っていれば、またすぐに破裂する。……分かるだろうね?」
エリザは言葉を失った。彼女自身、薄々感じていたことだったのかもしれない。王都の腐敗は、もはや一人の天才の技術でどうにかなる段階を過ぎている。土壌そのもの……つまり、人々の意識という根底から変えなければ、何も変わらないのだ。
「……じゃあ、どうすればいいの? 私は、ただ枯れていく都を黙って見ているしかないの?」
エリザの瞳に、絶望の色が混じる。
その時、開け放たれた窓の向こうから、夜の静寂を破るような声が聞こえてきた。
「おーい、ロルフの旦那! 明日の朝、北の畑の灌漑を手伝ってくれねえか! 水路の魔力調整、旦那にしかできねえんだ!」
窓から顔を出して叫んでいるのは、先ほど魔獣を投げ飛ばしていた近所のおっさんだ。
「……明日ね! 分かったよ、早めに行くね!」
ロルフが適当に手を振り返すと、おっさんは「おう! 頼んだぜ!」と快活に笑って去っていった。 エリザはその様子を、呆然と眺めていた。
「……あんなに楽しそうな農夫、見たことがないわ。それに、先ほど見かけた村人たちも……。皆、何かに守られているような、不思議な力強さを感じた。それは、あなたが魔法をかけたからなの?」
「いいや、僕は何もしてないよ。土を整えて、美味しい野菜を作れるようにしただけ。……彼らはね、自分たちが耕している土を信じているんだ。そして、そこから育つ命を愛している。だから、土も彼らに応えて、力を貸してくれる」
ロルフは再びエリザに向き直った。
「エリザ様。王都の種を芽吹かせたいなら、君が知るべきなのは僕の居場所じゃない」
「……私が、知るべきこと?」
「そう。土の匂い、泥の重さ、そして命が芽吹くまでの『待つ』という苦しみだよ。……教えを請うだけじゃダメなんだ。君自身が、土と対話できるくらい、土に近い存在にならなきゃ。そうすれば、種は自然と君に応えるようになる」
エリザはハッとしたように目を見開いた。自分が今まで、どれほど「上から」奇跡を求めていたか。 自分から出向いたつもりでいて、結局は「ロルフという力」を持って帰ろうとしていただけではないのか。
彼女は自分の白く細い指を見つめた。王宮でペンを持ち、扇を持ち、着飾ることしか知らなかった手。 その手が泥にまみれたとき、初めて見える景色があるのではないか。
「……分かったわ。ロルフ、一つお願いがあるの」
エリザは立ち上がり、ドレスの裾を掴んで深く頭を下げた。
「私を、ここで働かせて。……一ヶ月。一ヶ月だけでいい。王女としてではなく、一人の農夫として、この土地で学びたい」
「……。ロルフ様、王女を農作業に従事させるなど、国際問題に発展しかねません。王都からの追手も黙っていないでしょう」
シオンが至極まっとうな懸念を口にする。リゼットも心配そうに「エリザ様、お体は大丈夫ですか……?」と小首を傾げた。
ロルフは、目の前で頭を下げ続けるエリザを見つめた。 一ヶ月。 彼女が国を空ける限界の期間だろう。その間に、彼女は何を掴めるのか。あるいは、何も掴めずに手荒れだけを作って帰るのか。
本来なら、断るべきだった。厄介事は真っ平らだ。王女を預かるなんて、面倒の極みでしかない。 王都から騎士団が来れば、せっかくの平穏な生活が台無しになる。
だが。泥だらけの靴で、震える足を支え、ここまでやってきた彼女の「土性骨」は、農夫として無視するにはあまりに惜しいものだった。
「……一ヶ月だよ。一分も負けないし、王女様だからって特別扱いはしない。……早起きはきついし、虫は出るし、日焼けもする。……それでもいいの?」
「ええ。望むところよ」
エリザは顔を上げ、挑戦的な、けれどどこか晴れやかな笑みを浮かべた。その表情を見て、ロルフは観念したように、今日一番の大きな溜息をついた。
「……やれやれ。王女様が草むしりなんて、手荒れしちゃうだろうね。……シオン、悪いけど、彼女用の作業着と……一番使い古した、軽いクワを用意してあげて。明日から、僕のトマト畑の雑草抜きをやってもらうから」
「……御意。ロルフ様がそう仰るなら」
シオンは不承不承といった様子で一礼したが、その目はどこか、新しい「門下生」を試すような光を宿していた。
「リゼット、彼女の寝床の準備をお願い。……一ヶ月、賑やかになりそうだね」
「はい! エリザ様、よろしくお願いしますね!」
こうして、豊村に前代未聞の「実習生」が加わった。王都の命運を握る一粒の種。それが芽吹くための戦いは、王宮の会議室ではなく、豊村の泥だらけの畑から始まることになったのである。




