第13話:帰路の害虫(イナゴ)と、最強の肥料作り
王都を離れ、ガラムの商隊が仕立てた馬車が街道を軽快に進んでいく。石畳の硬い振動が土の柔らかな揺れに変わったあたりで、ロルフは椅子の背もたれに深く沈み込み、肺の空気をすべて吐き出すような溜息をついた。
「……やれやれ。やっとあの空気から解放されたよ。やっぱり僕には、こっちの土の匂いの方が合っているね」
「お疲れ様です、ロルフ様。あんな窮屈な場所、二度と行く必要はありませんよ。ロルフ様の価値も分からぬ連中など、放っておけばいいのです」
隣に座るシオンが、淀みのない声で深く頷いた。以前の刺々しさは消え、今やその瞳にはロルフに対する純粋な心酔の色が宿っている。
「ふふ、シオンったら。でも本当だね、ロルフ様。あのバラ園、見た目だけは着飾っていたけれど、根っこがどれも泣いていたもの。あんな環境で『美しい』なんて言われていたなんて、植物たちが不憫でならないよ」
リゼットも同意するように微笑む。彼女にとっても、王都の華やかさは表面的な取り繕いにしか見えなかったようだ。
「まあ、種は渡してきたし、あとは彼らが自分たちの足元を見直すかどうかだよ。僕はもう、村のトマトの様子が気になって仕方ないんだ。早く帰って脇芽を摘まないと、実が小さくなっちゃうだろうしね。シオン、帰ったらすぐに手伝ってくれるかな?」
「はい、ロルフ様。仰せのままに。水汲みでも土運びでも、何なりとお命じください」
シオンは迷いなく、そしてどこか嬉しそうに頭を下げた。ロルフにとっては「やれやれ」と言いたくなるような重たい忠誠心だが、今はその真っ直ぐさが心地よかった。
馬車が数時間進み、国内有数の穀倉地帯に差し掛かった時のことだ。前方の村から、逃げ惑う人々が街道に溢れ出してきた。その表情には、王都で見かけた権力争いの醜さとは違う、純粋な絶望が張り付いている。
「止まってくれ! 頼む、この先はもう地獄だ!」
煤に汚れた村長らしき老人が馬車を遮った。
「……今度はなんだろうね。ガラムさん、ちょっと様子を見てくるよ」
ロルフが馬車から顔を出すと、空の彼方から「黒い巨大な雲」が押し寄せてくるのが見えた。それは『魔蝗虫』の群れだ。作物を根こそぎ食い尽くすだけでなく、通り過ぎる際に土を殺す「腐食性毒素」を撒き散らす。一度これに襲われれば、土地は数年にわたって不毛の荒野と化す。
「騎士団に伝令を出したが、都はそれどころではないと追い返された……。もう、この土地は終わりだ。我々は捨てて逃げるしかないんだよ……!」
村人の悲鳴を聞いて、ロルフは少しだけ目を細めた。王都の身勝手な騒動には冷淡でいられる彼だったが、真面目な農夫が、ただの羽虫に土地を奪われるのは我慢がならない。それは彼の「農夫としての矜持」を真っ向から挑発していた。
「……シオン。少し降りようか。このまま通るにしても、この虫はあまりに不潔だよ。掃除が必要だね」
「掃除ですね、承知いたしました。ロルフ様の手を煩わせるまでもなく、私がすべてを塵に……」
「いや、殺すだけじゃ勿体ないよ。リゼット、準備をお願いできるかな?」
「はい、ロルフ様!」
街道に降り立った三人の前に、空を埋め尽くさんとする黒い渦が迫る。数百万という羽音が、大気を不気味に震わせていた。
「シオン、君の魔力で奴らを一点にまとめて。一番いい『餌』がそこにあるって、勘違いさせてやればいいから。できるかな?」
「容易い御用です、ロルフ様。……下劣な羽虫ども、ロルフ様の静寂を乱した罪、その身で贖わせましょう」
シオンが一歩前に出ると、その小さな体から、王宮の魔導師さえ戦慄するほど純粋で濃厚な「魔力の香気」を放出した。 魔蝗虫の群れが、一斉に向きを変える。凶悪な食欲に突き動かされた黒い渦が、シオンという一点を目指して収束していく。
「リゼット、周りに『煙幕草』の成分を撒いてくれる? 奴らが持っている毒を逃がしちゃうと、あとで土を戻すのが面倒だろうしね」
「分かりました! ……えいっ!」
リゼットが調合した特殊な薫香が、群れの退路を断つように包囲する。準備は整った。シオンが引きつけ、リゼットが封じ込めた中心には、今や数百万匹の魔蝗虫と、それが抱える膨大な「腐食毒」が高密度に濃縮されている。
ロルフは軽く右手を掲げ、対象の構造を解析した。 不必要な負のエネルギーを、必要な正の資源に書き換える。それがロルフ流の「整理整頓」だ。
「……ったく、ただの害虫のくせに、これだけの毒を溜め込んじゃってさ。農業を舐めるのもいい加減にしてほしいよ。――【等価交換】。不潔なゴミは、資源に作り変えてあげるね」
刹那、世界が黄金色の閃光に染まった。 キィィィィン、という澄んだ音が響き、空を覆っていた黒い絶望が一瞬にして砕け散る。
しかし、落ちてきたのは虫の死骸ではない。空から降ってきたのは、宝石のように輝く黄金の粒――魔蝗虫の肉体と、土を殺すはずだった毒素が、その属性を完全に反転させ、高濃度の栄養素へと凝縮されたものだった。
「……な、なんだ、これは……」
足元に降り積もる黄金の粒を拾い上げ、村長が震える。かつての毒気は微塵も感じられず、そこからは生命を育むための力強い「大地の香り」だけが漂っていた。
「村長さん。その肥料をすぐに土に混ぜて。害虫が食い散らかした分くらいは、これで取り戻せるはずだよ。……いや、前よりもずっといい麦が育つかもしれないね」
ロルフは、手に付いた砂をパンパンと払うと、驚愕する人々を置いてさっさと馬車へと戻り始めた。感謝の言葉を聞くのも、英雄扱いされるのも、彼にとっては「やれやれ」な出来事でしかないのだ。
馬車が再び動き出す。背後では村人たちが地面に跪き、奇跡への感謝を捧げる叫び声が響いていた。
「ふふ、やっぱりロルフ様は凄いです。あの瞬間に毒素の配列をいじって、完全な正の魔力に書き換えておられましたね」
「……ただの害虫駆除だよ。あんなので土を殺されちゃったら、農夫の名が廃るからね。……それよりシオン、さっきの魔力の出し方、少し荒かったよ。帰ったら水汲みをして、魔力の精密制御をやり直してね」
「 申し訳ございません、ロルフ様。不徳の致すところです。帰宅後、直ちに全力で任務(水汲み)に当たります!」
「いや、そこまで気合を入れなくていいんだけど……」
シオンの過剰なまでの「はい!」という返事に、ロルフは苦笑いしながら窓の外を眺めた。遠くに、馴染み深い森の境界線が見えてきた。
「――やっと、帰ってこれたね」
ロルフは、ようやく訪れた日常の気配に、この日一番の、肩の力が抜けた穏やかな笑みを浮かべていた。




