第12話:聖域の花と、剥がれ落ちた権威
静寂が、法廷を支配していた。鼻を突く瘴気の悪臭は、ロルフが指を弾いた瞬間に消え失せ、代わりに清らかなユリの香りが、場にそぐわないほど穏やかに漂っている。
「……説明せよ、メビウス」
王が、震える声で絞り出した。その視線は、王女の足元に咲く白銀の花と、それを「肥料」から創り出した青年――ロルフに釘付けになっていた。
「ハッ。……陛下、この御方こそが、かつてバルトロが『無能』と呼び、報告書からその名を抹消し続けていた、真の庭園管理者……ロルフ殿にございます」
メビウスは一歩前へ出ると、冷徹な響きで、しかしどこか自嘲気味に言葉を継いだ。
「今の王都で起きているバラ園の崩壊、水質の悪化、そして民の健康被害……これらすべては、ロルフ殿が独力で抑え込んでいた『国の毒』が、管理者を失って溢れ出した結果に過ぎません。……バルトロが虚偽の報告で着服していた予算の裏で、ロルフ殿はたった一人、無給同然の扱いでこの国を支えておられたのです」
「な……っ!? デタラメだ! そんなこと、ただの助手にできるはずがない!」
鎖に繋がれ、床に這いつくばっていたバルトロが顔を上げた。その眼は、自己保身と嫉妬で濁っている。
「陛下、騙されてはなりません!その男は、今しがたの魔獣も、バラの枯死も、すべて自分で仕組んだマッチポンプなのです!私を陥れ、王位を――」
「……黙れ」
メビウスの冷たい一喝が飛ぶ。さらにアルベルトがその首筋に剣を突き立て、言葉を封じた。
「貴殿の醜い叫びは聞き飽きたが、後ほどたっぷりと時間を割いてやる。……今は、その汚れた口を閉じていろ」
バルトロは喉を鳴らして沈黙したが、その目だけは未だに現実を拒絶していた。
王女エリザは、未だに現実感が持てずにいた。
(……私は、死ぬのだとばかり思っていました)
彼女は、少し前までの出来事を夢心地で振り返っていた。王宮で「心優しいお姫様」として育てられた彼女にとって、今日の裁判は、単なる好奇心の対象だった。父である王が、自分のお気に入りのバラを枯らした犯人を叱る。そんな、日常の延長線上にあるイベントだと思っていたのだ。
だが、バルトロが呪具を起動した瞬間、世界は一変した。床から溢れ出す黒い泥。心臓を直接握り潰されるような咆哮。騎士たちが弾き飛ばされ、父が腰を抜かして逃げ惑う姿。
(あのお父様が、あんなに情けなく……。ああ、誰も、誰も助けてくれないの……?)
逃げ遅れた彼女の目の前で、巨大な影が振り下ろされた。死の匂いがした。鋭い鉤爪が、自分の細い首を切り裂く感触まで予感した。
――その時だった。
バサリ、と重厚な外套の音が聞こえたと思うと、彼女の視界は「背中」で覆われた。大きな、けれどどこか温かみを感じる、農夫のような広い背中。
ガィィィン、という硬質な音。自分の命を奪うはずだった巨爪を、その男は事もなげに、片手で、受け止めていたのだ。
(え……?)
エリザが顔を上げると、フードの隙間から、驚くほど静かな瞳が見えた。怒りも、気負いもない。ただ、庭に生えた雑草を抜く前のような、ひどく日常的で、穏やかな眼差し。
『――やれやれ。……掃除したそばから、またこんな不潔なものを呼び寄せるとは。本当に、ここの管理体制はどうなっているんですか』
その呆れたような声を聞いた瞬間、エリザの胸を支配していた恐怖が、溶けるように消えていった。 彼が指を弾いた瞬間、世界が黄金の光に包まれた。不気味な怪物が粒子となって消え去り、自分の足元には、真っ白なユリが咲き誇っていた。
(この人は……神様なの? それとも、精霊様……?)
王宮の誰からも感じたことのない、圧倒的な「慈愛」と、揺るぎない「力」。エリザは、自分のドレスが汚れるのも構わず、咲き乱れるユリの中に座り込んだまま、その青年の横顔を食い入るように見つめていた。
王は、ようやく立ち上がると、震える指をロルフに向けた。
「ロ、ロルフと言ったか……。今すぐ、其方の力でバラ園を……いや、この都を浄化せよ! これは王命である!」
その傲慢な、けれど縋るような命令を聞いた瞬間。ロルフの隣に控えていたシオンが、低く不気味な笑い声を漏らした。リゼットもまた、冷ややかな目で王を見据える。
「……王様。勘違いしないでください。旦那様は、この街に『買い物』に来たついでに、掃除をしただけですよ?」
ロルフは溜息をつき、懐から小さな革袋を取り出した。彼はそれを、最前列で呆然としているメビウスへと手渡した。
「……メビウスさん。これを植えてください。今の王都の状況も、少しはましになります」
袋の中には、仄かに青白い光を放つ、見たこともない植物の種が詰まっていた。
「……これは?」
「【浄化草】の改良種です。瘴気を養分にして、綺麗な空気を吐き出します。……もっとも、今の王都の土壌でこれを育てるのは、並大抵の苦労ではありませんよ。管理を怠ればすぐに枯れますし、何より、育てる者の『心根』が腐っていれば、根すら張りません」
ロルフは、王を一度も見ることはなかった。彼が救いたいのは、腐った制度や傲慢な権力者ではない。この街で必死に生きている人々であり、そしてかつて彼が愛した「都の風景」そのものだった。
「これの管理は、メビウスさん、あなたに任せます。……バルトロのような人間に預けたら、また都が黒い泥に埋まりますからね」
ロルフはフードを深く被り直した。
「……ガラムさん、行きましょう。ここの空気は、体に悪すぎます。……ああ、王様。お騒がせしました」
ロルフは立ち尽くす王宮の人々を置いて、悠然と出口へ向かって歩き出した。王女エリザだけが、その背中に向かって、消え入りそうな声で呟いた。
「……待って……。あなたは、だれ、なの……?」
ロルフは足を止めず、ただ一度だけ、肩越しに少しだけ笑ったように見えた。
「ただの、農夫ですよ」
その背中が扉の向こうへ消えた時、王宮にはかつてないほどの喪失感と、そして「手遅れ」という名の絶望が、冷たく降り積もっていた。




