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師がくれる三つの武器

指先の皮が硬くなっていた。


最初の頃は、石に触れるだけで裂けた。

今は、ひび割れが幾重にも重なって、

古い傷と新しい傷の境目が分からない。


床の隅に溜まった白い粉は、もう小さな山だ。

日や週の区別は失われたが、

粉の量だけが、ここで過ごした時間を教えてくれる。


通路を流れる空気も変わっていた。

少し冷たい。

看守の上着が一枚増えた音がする。

持ち込まれる粥の湯気も、前より白い。


季節が、一度は曲がったのだ。


鐘が鳴る。

三回目の巡回が過ぎ、足音が遠ざかる。


俺は排水溝の格子を一度叩いた。

すぐに、一度返ってくる。


今夜も話ができる。


「今夜は掘る話じゃない」


ヴァルの声は低い。だが、迷いはない。


「外に出たあと、お前は三人と戦うことになる」


ヴァルは名前を順に挙げた。


「勇者英雄ガルド。会計ロルフ。神殿法務官セリオ」

「こいつらは剣や魔法じゃなく、別の物で人を殺す」


俺は黙って耳を傾ける。


「だから、お前にも三つの武器が要る」

「法。金。物語」

「これは力比べじゃない。“支配の道具”への対抗手段だ」


言葉は静かだが、重い。


「まず、法だ」


ヴァルの声が落ち着いていく。


「セリオは“法廷の場”で勝っているんじゃない」

「もっと手前だ。申立てが書かれた瞬間。印が押された時。

 書類が誰の机で止まったか。その段階で勝負を終わらせている」


神殿法廷が脳裏に浮かぶ。

あのときの裁きは、最初から結論だけが決まっていた。


「法を剣みたいに考えるな」

「法は紙の上に引かれた“道順”だ。

 どの順番で誰が読むか。その道に乗った時点で、裁きの行き先が決まる」


「つまり――」


「戦術と同じだ」

「お前は戦場で『敵がどこを通るか』を読むだろう」

「法も同じだ。紙の上で敵がどこを通るかを読む」

「セリオより早く、あるいは違う道順を見つけられれば、それが武器になる」


俺は無言で一度叩いた。

肯定の合図。


「次は、金だ」


ヴァルの声音がわずかに硬くなる。


「会計ロルフ。あいつは帳簿で人を殺す男だ」

「剣を抜かずに、兵を飢えさせ、街を干からびさせる」


「帳簿は数字の羅列じゃない」

「“金の流れの地図”だ」


「金がどこから来て、どこで消え、どこに溜まるか」

「それが分かれば、ロルフが作った嘘の橋も、落とし穴も見える」


あの日、俺の罪として読み上げられた命令書。

「支出命令」「奇襲命令」という紙。

全て、あいつの地図の上で動かされていた。


「隠した金ほど、足跡が汚い」

「本来ないはずの支出。本来あるはずの収入の消失。

 そこを辿れば、ロルフの首輪になる」


ヴァルはためらいなく言う。


「そして最後が――物語だ」


勇者英雄ガルド。

民衆の歓声と笑顔が、記憶の底から浮かぶ。


「人は事実だけで動かない」

「“信じて気持ちのいい話”で動く」


「ガルドが握っているのは剣じゃない。

 『ガルドが世界を救った』という物語そのものだ」


俺は壁に背中をつけたまま、息をのむ。


「物語は力だ」

「民衆に届いた物語が、真実そのものを上書きすることさえある」


ヴァルは一息ついて続ける。


「今、お前は何者だ?」


答えはわかっている。

反逆者。裏切り者。

物語の中で、俺はそう決められている。


「物語は一つじゃなくていい」

「真実が一つなら、それに乗せる話はいくつあってもいい」

「ガルドの英雄譚を丸ごと潰す必要はない」

「別の話を用意してやればいい」


「たとえば?」


俺は聞く。


「『英雄は、自分の影に怯えていた』」

「『戦術士一人に勝てなかったから、法と金を使った』」


「そういう“別の物語”だ」

「そしてそれを裏付けるために、法の道順と金の足跡を揃える」

「証拠と数字と手続きが揃えば、民衆はそちらの話を選ぶ」


三つはバラバラではない。

一つが一つを補強する。


俺は指で石をなぞりながら、ゆっくりと理解していった。


「いいか、アレイン」

「外に出てからの戦場は、剣でも魔法でもない」

「紙の上。帳簿の上。人の心の中」

「お前の戦場は、そこだ」


沈黙の中で、俺は言葉を反芻する。


法。

金。

物語。


全部、戦術士の盤面に載せられる。


「安心しろ」

ヴァルがわずかに笑った。


「武器だけでは足りんときのために、

 もう一つ、燃料を用意してある」


「……財宝、か」


「そうだ」

「立っていられるだけの金」

「武器を振るうための“地面”だ」


看守の足音が近づく。

巡回のリズム。

俺たちは同時に口を閉ざした。


足音が通り過ぎ、鍵束の音が遠ざかる。

静寂。


ヴァルが一度だけ叩いた。

今夜はここまで、という合図。


暗闇の中で、俺は拳を握る。


外に出るだけでは終わらない。

そこからが、本当の戦場だ。


指先に残った白い粉を握り締める。

進捗の証。希望ではなく、情報。


盤面は、獄舎の外にまで広がり始めている。


(次回:宝の名)

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