音なき隣人
石が擦れる音がした。
壁の向こう。
一度。
二度。
三度。
間隔が揃っている。
偶然じゃない。
人間だ。囚人か。
音を立てることは危険だ。
この通路は反響する。鉄の扉と石の壁で、音が逃げない。
小声でも巡回が拾う。拾われたら終わりだ。
だから、言葉は捨てる。
短い打音だけでいい。
看守のいない時間を見計らう。
奴らの仕事は型通りだ。決まったことだけを、ただやる。
俺たちは生きている置物だと思われている。
だが、置物は数を数えない。
足音の周期も、鍵束の擦れる癖も、忘れない。
いまは大丈夫だ。
排水溝の格子に指先を置いた。
冷たい金属。床の鉄枠と繋がっている。
叩けば振動が走る。ただし長く叩けば響きすぎる。
だから、短く。
一度だけ叩いた。
すぐ返ってきた。
二度。
返ってきた音は壁側からだった。
排水溝じゃない。
つまり相手は、どこを叩けば響くか知っている。
俺より先に、この監獄の癖を覚えている。
生き残りだ。
俺はもう一度、壁を叩く。
一度だけ。
軍で仕込まれた合図。
一回は「いけ」「イエス」。
二回は「やめろ」「ノー」。
それだけでいい。
それ以上のやりとりは危険になる。
確認のために、もう一度排水溝を叩きかけた。
指を落とす直前。
壁の向こうが先に二回鳴った。
止めろ。
同時に、石が擦れる。
短く、強い。
叱るような音だった。
看守が近づいてくるのか。
――来た。
足音。
通路の奥から近づく。
巡回だ。いつもとは違う時間の巡回。
隣の囚人は把握していた。
足音、鍵束、鎧の擦れ。
それらの反響音。
一定のリズムで聞こえる間は、看守が近い合図だ。
だから今、音を出すな。
俺も合わせて音を止めた。
呼吸を小さくする。
足音が止まる。
別の牢が開く金具の音。
看守の短い声。
扉が閉まる。
また歩く。
反響が少しずつ薄れていく。
鍵束の音が遠ざかる。
やがて、静かになった。
安全域だ。
壁の向こうが一度鳴った。
再開の合図。
俺も一度返す。
ここまでで状況は整理できた。
隣に囚人がいる。
声は巡回に拾われる。
だから通信は「短い打音」だけ。
巡回が去った直後は安全になる。
しばらく息をこらして待つ。
ようやく、声が落ちてきた。
壁の隙間から漏れる息。
言葉だけが切り出されたような小声。
「しゃべるな」
老人の声。
続けて、条件だけが落ちる。
「夜だけだ」
「鐘のあと」
「三回目の巡回が過ぎたら」
要点だけ。
それ以上は切る。
老人は、もう一言だけ言った。
「おまえには思考の癖があるな。戦術士か……?」
俺は声で返さない。
一度だけ叩く。
了解、の合図。
老人は名乗りを最低限にした。
「ヴァルと呼ばれている」
それで終わると思った。
だが、最後にもう一つだけ。
言葉を投げてきた。
「排水溝を見ろ」
指示に従って、俺は排水溝を見た。
向こう側から白い粉が流れてくる。
石粉。壁を削った痕だ。
削れるということは、道具を持っているということだ。
そして、削り続けているということは――時間を持っている。
これは希望じゃない。
情報だ。
盤面に、もう一度駒が載った。
俺は立ち上がった。
(次回:老人)




