流刑
夜明け前に叩き起こされた。
夢を見ていた気がする。
だが、目を開けた瞬間、夢は溶けた。
現実だけが残る。
「立て」
神殿兵の声は短い。
説明をする声じゃない。命令を投げる声だ。
俺は鎖の音を立てて立ち上がる。
手首は、もう自分の身体じゃないみたいに冷たい。
歩きながら、ふと気づいた。
――誰も、俺の名を呼ばない。
「被収容者」
「反逆者」
「そいつ」
言葉が変わっただけで、世界は変わる。
呼ばれるための名前は、もう存在しない。
昨日、審問室で署名したはずなのに。
アレイン・ルグラン、と。
だが署名は、記録に残るだけだ。
人間として呼ばれるための名ではない。
神殿の裏門から外に出ると、王都の空気は冷たかった。
冬の冷たさじゃない。
他人の無関心の冷たさだ。
馬車に押し込まれ、再び揺られる。
窓はない。
見えるのは、板と鉄と、揺れだけ。
それでも音は入ってくる。
遠くで鐘が鳴っている。
人のざわめき。
何かを待つ、熱のある声。
祝勝の準備だろう。
英雄ガルドのための。
俺を踏み台にして、彼はさらに「英雄」になる。
俺が何をしたか。
何をしなかったか。
そんなことは、誰も興味がない。
興味があるのは、
「正しい物語」だけだ。
馬車が止まった。
扉が開くと、潮の匂いがした。
湿った風が頬を叩く。港だ。
その匂いに、かつての遠征を思い出しかけて、すぐにやめた。
思い出は、ここでは役に立たない。
神殿兵が俺の腕を掴んだまま歩かせる。
終わった奴か。
誰も石を投げない。怒鳴りもしない。
ただ、俺の存在を「処理済み」として確認していく。
船が待っていた。大きくない。
商船のように見えるが、匂いが違う。
人を運ぶ船じゃない。物を運ぶ船だ。
俺は「物」として運ばれる。
甲板を踏むと、木が軋んだ。
神殿兵が短く指示を出す。
「下だ」
甲板下へ降ろされる。
狭い通路。湿った空気。扉がひとつ。
開く。
中は、独房だった。
寝台の板。水桶。それだけしかない。
同乗者はいない。
囚人の群れもいない。
それが、逆に恐ろしかった。
争いも会話も、情報の交換も、
すべて遮断する。
扉が閉まり、鍵が回る。
――カチリ。
その一音で、盤面が固定された。
船が動き出すと、揺れが始まった。
波の音が、壁越しに響く。
俺は座ったまま、目を閉じる。
逃げられるか。
この問いを自分に投げるのは、
習慣みたいなものだ。
戦術士は、いつだって
「経路」を探す。
だが答えは、すぐに出た。
――無理だ。
ここは海の上だ。
鍵は外にある。
見張りは二人以上いる。
足音の間隔で分かる。
交代は一定。
巡回は規則的。
崩れる気配がない。
足音が聞こえる。
金属が擦れる音。鍵束が揺れる音。
見張りは鍵を腰に下げている。
歩くたびに、小さく鳴る。
その音が一定であることが、癖を示している。
癖は、穴だ。
その穴を、いつか突く。
だが――
まだ、開かない。
船は進み続けた。
昼か夜か分からない。
光が届かない。
ときどき扉が開いて、水や食事が置かれる。
言葉はない。
ただ、看守の手が一瞬だけ見える。
節くれだった指。
それが、胸の前で小さく動くのを見た。
祈っている。
祈りの仕草をしながら、人を閉じ込める。
それが神殿の、自然な呼吸なのだろう。
祈りは、状況を変えない。
ただ、思考を止める。
俺は祈らない。
代わりに、数える。
水が置かれる間隔。
巡回の間隔。
足音の数。
揺れの周期。
世界が狭くなるほど、情報は濃くなる。
濃い情報は、盤面を描く。
どれほど時間が経ったのか分からない頃、
揺れが変わった。
波が弱くなる。
船体の軋みが減る。
風の音が、壁越しに変わる。
港だ。
扉が開き、眩しさが刺さった。
俺は思わず、目を細める。
「上がれ」
甲板に出ると、霧があった。
海の上に薄く漂い、
音を吸う霧。
その向こうに、黒い影が見える。
島。
黒い岩が突き出し、
そこに要塞が食い込んでいる。
城だ。
――いや。
城の形をした牢獄だ。
壁には神殿の紋。
逃げ道がないというより、
逃げる前提がない。
港は一つ。
道も一本。
その先に、門がある。
船が接岸する。
縄が投げられ、引かれ、固定される。
俺は降ろされた。
足が地面を踏んだ瞬間、
湿った冷気が靴裏から上がってきた。
島が冷たいのではない。
ここにいるもの、すべてが冷たい。
門をくぐると、すぐに手続きが始まった。
名前は、聞かれない。
代わりに紙が差し出される。
番号だけが書かれている。
俺の世界は、番号になる。
私物は没収され、服は替えさせられた。
髪も短く切られる。
人間から「外側」を剥いでいく作業。
最後に残るのは、呼吸と、思考だけだ。
看守が告げた。
「ここで懺悔を続けろ」
別の看守が続ける。
「赦しは、神が決める」
俺は返事をしなかった。
赦しを待つ気はない。
戦場では、待てる者だけが勝つ。
俺は――
その時を待つ。
(次回:牢獄内部)
【第一章・あとがき】
第一章「虚構の裁き」ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この章では、
「正しさが積み重なるほど、人は救われなくなる」
そんな世界を描いています。
主人公アレインは、
剣で戦う英雄でも、奇跡を起こす賢者でもありません。
盤面を読むことはできても、
物語を語る側にはなれなかった。
だからこそ、裁かれる役に回されました。
第二章から舞台は牢獄へ移ります。
ここでは正義も弁明も意味を持ちません。
代わりに必要なのは、
観察し、耐え、そして実行する力です。
※補足
本作は、アレクサンドル・デュマの古典小説
『モンテ・クリスト伯』に着想を得ています。
冤罪で全てを失った男が、
時間と知恵を武器に立ち上がる――
復讐譚の原型とも言える物語です。
未読の方でも問題なく楽しめる構成にしていますので、本作として読み進めていただければ幸いです。
引き続き、お付き合いいただけると嬉しいです。




