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宝の名前

指先の皮は、もう元の感覚を忘れていた。


ひび割れの上にひび割れが重なり、

硬い殻みたいになっている。


床の隅の白い粉は、小山になっていた。

日付は分からない。

だが、粉の量だけは時間をごまかさない。


ある日、粥の皿に、欠けた金属片が紛れ込んでいた。

スプーンの先だろう。

看守は気づかず、そのまま渡してきた。


俺はそれを布の端で包み、歯で少しずつ形を整えた。

石に当ててみる。

指の腹だけで削っていた頃より、粉の出方がわずかに増えた。


その夜、そのことをヴァルに報告すると、

石の向こうから短い言葉が落ちてきた。


「いい。だが忘れるな」


「道具はおまけだ」

「本当に削るべきは、石じゃなく“仕組み”の方だ」


牢の中で、社会の話をしている。

おかしい。だが、間違ってはいない。


鐘が鳴る。

三回目の巡回が過ぎ、足音が遠ざかる。


排水溝の格子を一度叩く。

すぐに、一度返ってくる。


今夜も、話が続けられる。


「前に言った燃料の話だ」


ヴァルの声はいつもより少しだけ低い。

だが、芯はある。


「三つの武器だけでは足りんときのために、

 お前が外で立つための“土台”だ」


「財宝のことか」


俺が小声で言うと、

石の向こうで、かすかに笑いが混じった息が漏れた。


「そうだ。まず、名前から教える」


一拍おいて、ヴァルは言った。


「“影の奉納庫”」


影の、奉納庫。


「それが、その金を呼ぶときの名前だ」


「……影?」


「表には出ないからな」


ヴァルは淡々と続ける。


「戦のとき、神殿と王は、敵国の財を“献納”と称して奪った」

「神像を壊し、宝飾を剥ぎ、

 敗残兵や民から取り上げた金貨や宝石を、全部だ」


略奪。

ただの略奪だ。


「だが、その全部を帳簿には載せられん」

「載せた瞬間、“正しさ”を問われる」

「だから、表の記録には一行も書かず、

 まとめて一つの倉に押し込んだ」


「それが、影の奉納庫か」


「そうだ」


ヴァルの声が少しだけ遠くなった。


「本殿から離れた小島に、小さな礼拝堂が建てられた」

「その地下が奉納庫だ」

「流刑船の航路から遠くはない。

 静かな入り江に、古い塔が一本立っている」


俺の記憶が反応する。

この島に送られる途中、船が通り過ぎた海。

水面の向こう、使われていない灯台のような塔が見えていた。


――あれか。


ヴァルは、細かく言葉を刻んでいく。


「礼拝堂の床に隠し扉がある」

「そこから階段を降りる。段数は二十と少し」

「途中に一度だけ踊り場がある。

 そこを過ぎれば、重い扉だ」


「扉には、神殿の文言が刻まれている」

「封を解くときの決まり文句もある」

「それを間違えなければ、鍵は“開けられる側”で開く」


それは、地図というより手順だ。

戦術士にとって扱いやすい種類の情報だ。


「その金は、誰のものなんだ」


俺は聞いた。


「そこが肝だ」


ヴァルは言う。


「記録の上では、“最初からなかった金”だ」

「神殿のものでもなく、王家のものでもなく、

 誰のものでもない」


「触ったら罪にならないのか」


「罪にしようとした瞬間、“ある”と認めることになる」

「そうなれば、昔の略奪まで掘り返される」

「だから誰も、正式には手が出せん」


簡単に言えば――


「全員が見て見ぬふりをしている金だ」


そうヴァルはまとめた。


法。

金。

物語。


さっき教わった三つの武器が頭をよぎる。


「俺は、戦の補給係だった」


ヴァルがぽつりと言う。


「兵糧、武具、医療品。

 どこから来て、どこへ送ったか、毎日数字をつけていた」


「影の奉納庫に運び込まれた荷も、

 本来“存在しないはずの荷”も、俺の前は通った」


「……見てしまったわけか」


「ああ。見てしまい、そして黙らなかった」


短い沈黙。


「俺は、当時“正しさ”の味方だった」

「不正を告発すれば世界が正されると思っていた」


「影の奉納庫の存在を公にし、

 略奪を裁き、金を元の持ち主に返すべきだと考えた」


「それでどうなった」


「こうなった」


石の向こうで、乾いた笑いが一つだけ鳴る。


「神殿に相談し、王都の監察にも文書を送った」

「結果、俺は“虚偽申告”と“神威への冒涜”で、ここだ」


世界は、正しさで動いていない。

それがこの牢の共通認識だ。


「影の奉納庫は封印されたという物語だけが残った」

「現物は、地下に眠ったままだ」


ヴァルの声が少し低くなる。


「だから、お前に渡す」

「俺が正しさに縛られて使えなかった燃料を、

 勝ち筋で生きるお前に」


「場所は、頭に入ったか」


「入った」


俺は即答した。


「塔。入り江。礼拝堂。階段。扉の文言。

 全部、盤面に置いた」


しばしの沈黙。

やがて、老人の息が少しだけ緩む。


「ならいい」

「外に出たとき、お前は“何も持たない囚人”じゃない」

「法と金と物語、それと影の奉納庫」

「この四つが揃っていれば、三人とまともに戦える」


勇者英雄ガルド。

会計ロルフ。

神殿法務官セリオ。


獄舎の中で、

復讐の盤面だけが静かに整っていく。


「俺はどうする」


気づけば、口が勝手に動いていた。


「俺は……ここで済ませることが残っている」


ヴァルが言う。


「お前を外に出す段取りだ」


「俺が死ねば、この監獄は一度、大きく揺れる」

「揺れたときに生まれる“隙間”がある」

「そこを、お前が抜ける」


それ以上の説明はなかった。

だが、十分だった。


石の向こうの老人は、

自分の死さえ盤面に載せている。


「戦術士、覚えておけ」


ヴァルが最後に言った。


「正しさで迷うな。死は誰にもやがて来る。

 まさか情に今更流されるものでもあるまい。

 状況を動かせるかどうかで決めろ」


俺は黙る。

ヴァルにも理解したことは伝わっているはずだ。


排水溝の向こうから、

石を叩く音が一度だけ聞こえた。


今夜は、ここまでだ。


俺は粉だらけの指を握り締める。


影の奉納庫。

存在しないことにされた金。


牢の外の盤面に、

金色の駒が一つ、確かに置かれた。


(次回:崩れる壁)

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