モニカでコーヒーを
家から駅までは、歩いて10分もかからない。こんなに立地のいいマンションに住んでるなんて、正直、ずるいと思う。……まあ、それはさておき。
駅前の喫茶店 《モニカ》は、カントリー調のインテリアで統一されていて、西海岸風のゆるやかな空気が流れている。アメリカ留学中、ロサンゼルスで過ごしていたからか、ここに来るとどこか懐かしい気持ちになる。だから私は、ときどきこの店を訪れる。
店主の康夫さんと奥さんの歩美さんが、初めて出会った場所が「サンタモニカ」だった。それがこのお店のコンセプトになったのだという。店名の由来を初めて聞いたとき、なんだか胸が温かくなった。
「歩美さん、こんにちはー」
「いらっしゃーい!」
「ミルクティーとホットコーヒー、あとトーストとメープルパンケーキ、お願いします」
「はいはい! 美玲ちゃん、久しぶりね。今日は彼とデートなのね?」
「彼じゃなくて、上司なんですけどね」
「あら、“上司”とモーニングなんて、贅沢ねえ〜」
わざとらしく人差し指と中指をクイっと曲げ、エアクォーツを混えながらからかってくる。さすが、長くアメリカにいた人は違う。
「歩美さん、本当に思ってるような関係じゃないんです。海堂さんは、私の部署の部長で……」
「あら、海堂さんね?美玲ちゃんはお仕事以外でもちゃんと楽しめてる?ここにいるときも、いつもPC開いて調べ物かガイドブックばっかり見てて、息抜きが足りないのよ」
そう言いながら、ちゃっかりと海堂さんの隣の席に腰をおろして、眉を下げて「困ったわぁ」なんて顔をする。
「歩美さん、あの……コーヒーを……」
「心配しなくても、ヤスに美玲ちゃんの声ちゃんと聞こえてるわよ。そのうち持ってくるから安心して」
カウンターの奥に視線を向けると、康夫さんがパンケーキを焼いているのが見えた。あの柔らかい手つきが、なんとも癒やされる。
「美玲ちゃんがここに通うようになって、もう何年かしらね。浮いた話の一つもなく、やれビバリーヒルズだのラスベガスだの。最近はサンディエゴの話もしてたわよね?」
「実は、社内選考を受けてるんです。それが通れば、担当エリアが拡大されて……役職は変わらないけど、収入にも反映されて。まぁ、事実上の昇格です!」
「仕事ばっかりしてたら、いい男はみんな売れてっちゃうのよ!」
「私は……恋より仕事に生きたいって、思うことのほうが多いんです!」
そんなやり取りをしていたところで、康夫さんがコーヒーとミルクティー、トースト、それからパンケーキを運んできた。
「海堂さんも、美玲ちゃんの背中押してあげてくださいな」
突然話を振られた海堂さんは少し驚いた顔を見せたが、すぐに表情を緩めアイスティーを持った手を軽く揺らしながら口を開いた。
「神崎さんのことは、僕もすごく頼りにしてるんですよ。彼女が作る資料はいつも完璧で、上層部の信頼も厚いですし。プライベートまで詰めてるとは思いませんでしたが……それに、契約を取ってくるホテルや観光地の人たちが『神崎さんじゃなければOKしていない』って言うんですよ。本当、どんな魔法を使ってるのか……僕も見習いたいぐらいです」
その言葉に、思わず頬が熱くなった。顔を伏せるのも恥ずかしくて、ただ、手元のトーストを見つめるしかなかった。
「最近はこうしてプライベートでも少し関わるようになりましたが、その時は特に仕事の話もしないので……喫茶店で煮詰まってることは知らなかったですね」
「海堂さん……あなた……」
歩美さんが、なぜか頬を染めて海堂さんの横顔をじっと見つめていた。
「美玲ちゃん!海堂さんにしなさい!私は海堂さん以外、お婿さんとして認めません!」
「ちょっ、歩美さん何言ってるんですか!」
「海堂さん、美玲ちゃんのこと、よろしくお願いしますね」
「もー!海堂さん、早く食べて出ましょう!」
「美玲ちゃんも春が来たわ〜」と浮かれ気味な歩美さんを尻目に、私たちは食事を終えて、店を後にした。
「海堂さん、またいらしてくださいね」
「ええ、ぜひ。また来ます。この辺りに住んでいますから」
お店から駅へ向かう道を並んで歩きながら、私はさっきの言葉の真意を考えていた。どこまでが本音で、どこまでが営業トークなのか。付き合いが浅いとはいえ、ある程度は読めるつもりだった。
「海堂さんの二面性には、慣れたと思ってたんですけどね。さすがですね」
「お前が現地で乗り継ぎ便間違えてアポすっぽかした話とかした方がよかった?」
「うっ……。いや、大丈夫です……」
「まぁ、お前が思ってるより、本音は多いよ」
「え?」
「じゃ、俺は一回帰る。また月曜日」
「えっ、あ、はい。お疲れ様です」
その言葉の意味が頭の中でずっと反芻されているのを感じながら、電車に揺られて自宅へ向かう。
車窓からの風景は、いつも通りの街並み。でも、頭の中はずっと、あのパントリーで見つけた数枚の写真のことでいっぱいだった。
「まさか、海堂さんと諒太が……。そういえば、海堂さんがどこの大学出身かなんて、聞いたことなかった」
写真の中の諒太は、私が知っている彼とはまるで違っていた。あんな自然な笑顔、私は一度も見たことがない。
「あんな笑顔、私は一生見られないんだろうな……」
私と諒太がふたりきりで過ごした日は、たった一日、撮った写真は一枚だけ。それが私の全て。その一枚を思い浮かべながら、そしてパントリーの中で見た、あの別の笑顔を比べて、私は浅い眠りについた。