上司と一杯
「神崎?」
その声に振り向くと、1年前にイタリアでの海外赴任を終え、営業部の部長として戻ってきた海堂さんが立っていた。180センチのスラっとした身体とキリッとした一重の目が特徴的で、女性社員の間で人気が高い。私が所属するアメリカチームの係長が退職してから後任が決まらず、チームは一時的に海堂さんが兼任している。おそらく、今後本格的に就任するのだろう。
「お疲れ様です。海堂さん、珍しいですね」
「たまには帰りに飲んで帰ろうと思って。ここにはよく来るのか?」
「まぁ、たまにです」
「ふーん」
海堂さんは隣の席に腰をかけ、スコッチウイスキーを注文する。
「私、そろそろ帰りますよ」
「一杯くらい付き合えよ」
仕方なくブルームーンをもう一杯注文し、マスターに「伝票はこちらの男性に」と小声で頼むが、怒られるかもしれない。とはいえ、結局その前に飲んでいた分まで海堂さんが支払ってくれた。
「海堂さん、ごちそうさまです」
「お前みたいな部下を持つと、上司がかわいそうだな」
「次はロマネコンティ飲みたいです
「調子のんな」
海堂さんは地下鉄の駅まで見送りに来ると、そのまま来た道を戻って行った。
その後、毎週末ではないけれど、時々《President》でお酒を楽しみながら仕事の悩みを話すようになった。会社での海堂さんは、口数が少なくて、表情もあまり豊かではない。まさにとっつきにくい上司の典型だ。しかし、ここでは少し違う。話し上手で笑いのセンスもある。プライベートの悩みを相談することが少しずつ増えて、今では誰よりも頼りにしている。
ある日、いつも通りカウンターでお酒を嗜んでいると、入口の方から声をかけられた。
「ほんと、いつもいるな」
「海堂さんも、人のこと言えないじゃないですか」
「俺、家この辺だし」
「うわ、鼻につくエリート発言。稼いでる人は住む世界が違いますね」
「その言い方やめろ。鼻につく」
「マネしないでください」
海堂さんがバーボンをロックで注文し、ウエイターにスーツを預けている。私はカンパリオレンジを飲み干し、カウンター内のバーテンダーにおかわりを頼んだ。
「珍しいもの飲んでるな」
「今日は気分が違うので」
海堂さんが一口ウィスキーを飲んだ後、何気なく質問してきた。
「なんでこの店なの?会社の近くにも家の近くにもバーくらいあるだろう?」
「うーん、それは答え難き質問です」
「なんでだよ」
「女は少しくらい秘密があった方が美しくなれるんですよ」
「あっそう」
少しずつ酔いが回って、視界がぼんやりと滲んでいく。海堂さんとは笑いながら話していたけれど、心の奥ではずっと、薄れていく記憶がふわりふわりと浮かんでは消え、まるで幻のように揺れていた。