再開の答え
「明日、夜。駅前の居酒屋、予約しといたから」
「え?はい?……なんでですか?」
「どうせ、いつもの店行くんだろ?」
「まぁ、行きますけど……」
「じゃあ、その予定は変更で。あとで店のURL送る」
「ちょ、ちょっと!」
海堂さんは一方的にそう言うと、嵐のように去っていった。私が反論する暇も与えずに。
――あの仮称・経費改ざん事件のあと、柏木さんは地方支社のカウンター業務へ異動となった。左遷、という言葉がぴったりだった。小林専務はというと、降格と減給処分。不倫の件は弁護士から奥さんに連絡が入り、今は離婚調停中だと聞いた。
以来、陰湿ないじめもなくなり、海堂ファンクラブも自然消滅……した、はずなんだけど。彼の後ろにはいまだに数人の追っかけが張り付いている。
初めて降り立った吉祥寺駅は、想像以上に賑やかだった。さすが「住みたい街」ランキング常連。駅前は人であふれ、商店街にはどこか懐かしい下町の風景が残っている。
スマホの地図を見ながら歩き、赤いのれんのかかった小さな居酒屋の前で足を止めた。
「……ここ?海堂さんにしては、庶民的な」
扉を開けると、「いらっしゃいませー!」と元気な声で厨房からスタッフが小走りでやってきて、私に問いかけた。
「何名様ですか?」
「あ、待ち合わせなんですけど……」
「お待ち合わせですね!」
中に入ると、カウンター席にテーブル席が五つ。奥には個室が見える。案内されたその個室へ向かい、私は扉を開けた。
「海堂さん、お待たせしまし――」
言葉の続きは、目の前に座っていた人物を見た瞬間、喉の奥に消えた。扉を閉めることも、何か言うことも忘れて、私はただ、ただ、まばたきだけを繰り返す。
「久しぶり」
10年ずっと聞きたかった声、ずっと見たかった顔。見間違うはずがない。あの日から忘れたことなんかない―――諒太だった。
「おい、地味に寒いから。さっさと閉めろ」
我に返り、私は慌てて扉を閉める。心臓の音がうるさくて、毛穴から汗が噴き出すのがわかる。頭が現状を受け入れてくれない。
「なにやってんの」
今度は海堂さんが扉を開けて、目の前に現れた。
「海堂さん?!なんですか!え、え?なに?普通にパニックなんですけど!」
「いいから、入れって」
「無理です!無理です!!」
海堂さんは、ため息をついて席に戻ってしまった。扉の向こうに彼が消えると、私の目の前には諒太が、再び現実として立っていた。
「驚かせてごめん」
彼は私の荷物を取って、背中にそっと手を回し、あのときと同じように優しく私を席に座らせた。
「いや、本当にまって……。海堂さん?説明してください!」
「わかったから、落ち着け」
「変な汗、めっちゃ出てるんですけど。……とりあえず、生で」
「飲むんだ」
ビールが届くまでの間、海堂さんと諒太は世間話をしていた。私は、ようやく目の前の現実を少しずつ理解し始めたところだった。
「もう全員気づいてたと思うけど、俺と諒太は学生時代の友達。神崎は会社の部下。そして、諒太と神崎は従兄弟。……この全貌が見えるまで、本当に苦労したんだぞ」
「……それで、なんで今日このメンバーが?」
「そろそろ鬱陶しいから」
「は?」
「二人が、ちゃんと話すべきだと思った」
私は、話すことなんてないと思っていた。この気持ちはずっと、心の奥に閉じ込めて、誰にも見せずに生きていくはずだった。海堂さんに話してしまったことは想定外だったけど、諒太から何かを聞きたいとも思っていない。
「俺、トイレ行ってくるから。さっさと話終わらせといて」
海堂さんが席を立ち、店のホールへと出ていった。静寂に包まれる気まずい空気。私は乾いた喉にビールを流し込んで、なんとか正気を保っていた。
「元気だった?」
諒太が、柔らかく笑みを浮かべて、何も変わらない声で問いかけてくる。
「……うん。諒太は?」
「俺も、元気だよ」
―――気まずい。
本当は、好きなものの話とか、楽しかった思い出とか、会社のこと、海堂さんとのこと、話したいことは山ほどあったのに。いざ本人を前にすると、何も言葉が出てこない。
「同級生だったんだね、海堂さんと。びっくりしたよ」
「俺もだよ。まさか友達の会社に美玲がいるなんてさ」
はは……と乾いた笑いがこぼれる。空気は少しずつ和らぎ、やがてふわりと軽くなる。
「仕事、頑張ってるんだってな」
「そんなことないよ、普通だよ」
「あの美玲が、営業やってるなんてなぁ。驚いたよ」
「ていうか来るなら言ってよ、今日すごい地味な服で来ちゃったよ……」
「似合ってるよ?」
「それは、私が地味ってこと?」
会話を重ねるうちに、少しずつ距離が近づいていく。
「ねぇ、アリアリゾートホテルのジョディさんって知らない?」
「知ってる!なんで知ってるの?」
「俺が留学してた時のホストマザーだったんだ。仕事でアリアに泊まったら偶然再会してさ。家に遊びに行ったら、美玲の写真が飾ってあったよ。サンタモニカのピアの前で撮ったやつ」
「あー、あのときのかな。現地ミーティングのあとに観光連れてってもらったんだよね」
「従姉妹なんだって話したら、どうりで波長が合うわけだって笑ってた」
楽しい時間だった。ほんの少し、あの頃に戻れたような気がして――このまま、ずっと続けばいいのにと、思った。
だけど……ふと、ある言葉が、頭の中に浮かぶ。
『もしあなたが私の最悪の時にきちんと扱ってくれないなら、私の最高の瞬間を一緒に過ごす資格はない』
私の“最悪の時”に、そばにいてくれたのは――。