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アネモネ  作者: Miley
強さを磨こう
14/19

バタバタの毎日


「すみません神崎さん、先方に提出する資料なんですが、チェックお願いできますか?」

「ごめん、後で見とくからデータ送っといてくれる?」

「はい!」


「神崎さん!アリアリゾートホテルのジョディさんから、明日朝7時からオンライン会議可能か連絡きてますが、どうでしょう?」

「スケジュール見て問題なければ受けて大丈夫!」


「LA支店から急ぎで電話入ってます!繋いても大丈夫ですか?」

「あー……OK、転送してくれる?」


 オフィスの中でも、とりわけ騒がしいのが私の所属する海外営業部だ。繁忙期ともなれば、泊まり込みで仕事する人が出るほど業務量は多く、現地顧客との時差の関係で昼夜問わずミーティングが入る。静かな時間なんて、どこにもなかった。


 この日も、自宅に帰り着いたのは日付が変わった頃だ。


「あー無理、眠い、お風呂、メイク、眠い……」


 玄関を入るなりカバンを放り出し、私はそのままソファへと倒れ込んだ。


「明日は7時だから、6時半には会社着きたい……ってことは5時起き?無理だ。ストッキング洗ってないし……新しいの使おうかな」


 こんな生活がかれこれ一ヶ月は続けている。部屋の中はもはや廃墟のようで、床には服が山積み、テーブルの上にはここ数日、しまわれることのないコスメが散乱している。


「……海堂さんの部屋とは大違いだ」


 自嘲気味に笑って、重たい体を引きずるようにしてバスルームへ向かう。


 海堂さんの家に行ってから、自分の部屋の散らかり具合がやっと目に入るようになった。もともと整理整頓は好きなほうだったのに、最近は業務の”大掃除”に加え定例業務も切迫して、帰宅するだけで精一杯。


 髪を乾かし、翌日の準備を終えてようやくベッドへ潜り込む。


「……おいで」


 夢の中で、名前を呼ばれた。顔の見えない、けれど優しい声の男性にそっと抱きしめられて、私は安心した。懐かしいような、でも初めてのような温もりに包まれて──。 


 アラームの音で、朝が来た。 


「ねむっ……」


 時間がない朝は、紅茶もトーストも諦めて、ヨーグルト片手にメイクをする。新品のストッキングをビニールから引っ張り出し、ハンガーにかけていたスーツを身につける。


「やば……行かないと」


 鍵とスマホを握りしめ、駅まで駆け足。家を出てから会社のデスクに着くまで、わずか1時間。早朝勤務の日の朝は、いつだって戦争だ。


 資料を確認して、身だしなみを整えていると、あっという間に7時だ。アリアリゾートホテルとのオンライン会議が始まり、その後も資料のダブルチェック、メール対応、通常業務と、次から次へと仕事が押し寄せてきた。


「もう13時かー。お腹すいたー」

「朝から詰め込みすぎですよ。ランチ、2時間くらい行ってきたらどうです?」

「んー、予算会議が16時からか。じゃあ……お言葉に甘えて、少し多めに休憩もらおうかな」

「ぜひぜひ!美玲さん、顔が疲れすぎてて覇気ゼロですよ。チームの士気に影響しますって」

「そんなに?それはまずいな。じゃあ、ちょっとリフレッシュしてくるね」

「いってらっしゃい!」


 みんなの気遣いに甘えて、今日は少しだけ長めのランチ。どこに行こうかなと考えながらエレベーターで一階へ降り、セキュリティゲートを抜けたところで、背後から声をかけられた。


「おい、これから飯?一人なら付き合えよ」

「……海堂さん。その選択肢を与えない誘い方、パワハラって言うんですよ」

「なんで」

「一人でご飯食べたい日だってあるじゃないですか」

「いつも一人なんだからいいだろ」

「今日は昼休みに寝るって決めてるんです」

「寝てればいいじゃん」


 エントランスホールで、しょうもないやり取りを交わしながら回転扉を抜ける。……その時、エレベーターホールの向こうでこちらを見つめる視線に、私はまだ気づいていなかった。


 なんだかんだ言っても、気づけば海堂さんの行きつけのイタリアンまで歩いていた。きっとここだろうなとは思っていたし、むしろ一緒に来ればランチ代が浮くかも、という打算もあった。この魂胆がバレると面倒なので、最近では演技力だけが磨かれていく。


「海堂さん、何にします?私は日替わりにしようかなぁ。あ、今日はクリームパスタだ!うん、これにしよう」

「同じやつ」

「すいませーん! 日替わりパスタ二つと、アイスコーヒーとミルクティーください」


 店員さんは注文を受けるとすぐにセットのサラダとドリンクを運んできてくれた。海堂さんの前にはアイスコーヒー、私の前にはミルクティー。こんなドライフェイスでウイスキー愛好家の海堂さんだけど、ランチのときだけミルクティーを飲むというのを、少し前に知った。普段のドライな雰囲気とギャップがありすぎて、未だにちょっと慣れない。


 お昼時で混雑しているし、料理が来るまで20分はかかるだろうと思っていたけれど、10分ほどでパスタが出てきた。


「いつも思うんですけど、ここ提供早くないですか?」

「そう?こんなもんじゃない?」


 厨房の方に視線を向けると、シェフの男性と数人のウェイトレスが、こちらを見ながらほのかに赤くなっていた。


「……なるほど」


 なぜここのサービスが妙に手厚いのか、何度も来ているのにようやく腑に落ちた。


「海堂さん、夜道には気をつけたほうがいいですよ」

「何言ってんの」

「私なりの親切心です」


 パスタを食べ終え、食後のティータイム。ふと顔を上げると、海堂さんの表情が少しだけ疲れて見えた。


「なんだか、疲れてます?」

「べつに」

「海堂さん、私に嘘つけないんだから正直に言ったほうがいいですよ」

「なんで嘘つけないの」

「それは私が魔法使いだからですね」

「意味わかんない。早く飲め」

「じゃあ当てます。うーん、私にくれたアメリカのシリアルが実はお気に入りで、後悔してる!」

「あれ、ほんと好きじゃない」

「じゃあ、ステーキが食べたいのに口内炎が痛い!」

「お前ほんとバカだな」


 本気で呆れたようにミルクティーのストローをくるくる回す彼の姿に、ふと胸の奥がじんとする。ため息まじりの彼の背中が、いつもより小さく見えたからだ。最近の"大掃除"の結果でも、教えてあげようかな。


「海堂さん、最近帰れてますか?」

「なんで?」

「ワイシャツ、また新しいのに変えましたよね。小林専務に関係ない仕事押し付けられてません?」

「なんで知ってんの」

「やっぱり。最近、専務の機嫌がやたら良くて残業少なかったから、おかしいと思ったんですよ。柏木さんって、海堂さんのファンクラブ会員なんですけど、小林専務と不倫してますよ。で、海堂さんに恨み買ったんだと思います」

「は?不倫?」

「たぶん、2年前くらいからですね。ブランド品とか高級寿司とか、ずいぶん貢いでるみたいです。奥さんもお子さんもいるのに情けないですよね」

「なんでそんな詳しいの」

「貢ぎ物の話は、柏木さんが食堂で自慢してたんです。その他は……まぁ、調べました」

「調べた……?」

「この前、経理に領収書出しに行ったとき、給湯室で専務が誰かと電話してて。取引先とのトラブル、自分のせいなのに海堂さんの責任にしようって話してたんですよ。声かけられなかったけど、私、外堀から埋めていくタイプなので」


 柏木さんは独身だけど、小林専務は既婚者。社内告発すれば終わりだ、という言葉は飲み込んだ。表情を変えず聞いていた海堂さんの瞳に闘魂が見えた気がしたからだ。


「……お前は何もするな。情報だけ買わせてもらう」

「買う?」

「気にするな。それより……まだあんの、ファンクラブ」

「着々と、規模が拡大してます」


 そんな会話を交わしながら、ランチを終えて会社へ戻る。オフィスには直行せず、食堂でコーヒーを飲みながら、みんながくれた貴重なランチ延長をゆっくり楽しんでいた。SNSをチェックしていると、テーブルの前にふと人影が映り、顔を上げると数人の視線が私をじっと見下ろしていた――。


「ねぇ、なんであんたが海堂部長とランチに行けるのよ」


 話題の人、柏木さんだった。取り巻きを数人連れて、どうやらランチに向かう途中だったらしい。視線を少しずらすと、うちの部署の若林さんが後ろに立っていたけれど、私に気づかれたくないのか、影のように縮こまっていた。


 柏木さんの手にはランチバッグとピンクの水筒。中身はいつも白湯だっていうのを、以前パウダールームでこれ見よがしに大声で語っていたから覚えている。


「仕事の付き合いですよ」


 努めて冷静に答えると、柏木さんは顔をしかめて、わざとらしく溜息をついた。


「断りなさいよ。海堂部長とランチなんて、お金払ってでもその時間が欲しい人が山ほどいるのよ。あなたが独り占めしていい人じゃないの」

「そんなこと言われても……」

「そもそも配属がおかしいのよ。神崎さん、あなた国内事業部に異動希望出しなさいよ」

「柏木さん、言ってることが支離滅裂ですよ。少し冷静になってください」

「ムカつく」


 最後に吐き捨てるように言って、彼女は踵を返し、オフィスへ戻っていった。


 これまでもファンクラブメンバーからの無視や陰口程度の嫌がらせはあったけれど、こんな風に真正面から文句を言われたのは初めてで、さすがに困惑した。――にしても、本当に面倒くさい人だ。


 彼女は昔、六本木のクラブで働いていたことを誇らしげに話す癖があり、会話のたびに「六本木では~」を挟んでくるから、私はあまり彼女と話したことがない。噂によると“パパ”がたくさんいるらしく、持ち歩いているブランド物はすべてその貢ぎ物らしい。もちろん、小林専務もその中の一人だ。


 そんな一件のあと、一ヶ月ほどは嵐の前の静けさのように平和な日々が続いた。海堂さんは相変わらず忙しそうで、デスクにいたりいなかったり。毎日違うワイシャツを着ているけど、顔は日に日にやつれていっている。《President》にも姿を見せなくなっていた。……告発、しないのだろうか。


 昼休み、外に出ようとエレベーターホールに向かう途中で、経理部の赤橋部長に声をかけられた。


「神崎さん、ちょっといいかな」

「あ、はい!大丈夫です!」


 後ろをついて行くと、小さな会議室に案内された。中には海外事業部の立花本部長もいた。


「……」

「どうされましたか?」


 赤橋部長が無言で紙を3枚机に並べる。それは経費の明細と出勤表のコピーだった。


「これはどういうことだろうか?」


 その言葉と同時に、嫌な汗が背中を伝った。


「架空残業、経費改ざん、架空の領収書も多数……。この半年、欧米の予算残高が合わない原因、君じゃないのか?」

「え、なんですかこれ……?」

「君の名前で提出された書類だ。こんな立派な横領罪……大ごとにしたくなければ、始末書と降格、減給で済ませるが?」

「待ってください。身に覚えがありません!」


 口ではそう言いながらも、目の前の書類には私の名前、印鑑、日付、金額……すべてが“本物”のように揃っていた。そういえば、印鑑がデスクから2日ほど消えていたことがある……。あの時、もっとしっかり探せば良かった。


「立花本部長!私は絶対にこんなことしません!」

「神崎さん、君が真面目にやっているのは知っている。でも、ここまで証拠が揃ってしまうと……」


 赤橋部長は淡々と資料を指で叩きながら話を続けた。本部長は困ったように私と赤橋部長を交互に見ている


 私は心の中で歯を食いしばった。――こちらも証拠が必要だ。言葉じゃ何も変えられない。


「赤橋部長、この書類目を通してよろしいでしょうか」

「ご自由に。立花本部長、あとはよろしく」


 赤橋部長が出ていったあと、立花本部長がため息をついた。


「神崎さん、こうなってしまっては仕方ない。しばらく村上くんに仕事を任せて、1週間休暇をとったらどうだ?」

「休暇?結構です。その代わり、本日午後休をいただけますか?この件、片付けます」


 深く一礼して、私は会議室を出た。周囲の喧騒すら耳に入らないほど、頭の中は冷静だった。次にやるべきことが、チェックリストのように浮かんでくる。


 ――私は今、ものすごく怒っている。


 怒りが冷静さを連れてくるということを、私は昔から知っていた。感情的になっても時間の無駄。最速最短でタスクをこなす。


 資料と持ち出し用のPCを抱えて会社を出る。荷物をまとめていると、村上くんが心配そうに声をかけてきたけれど、私は冷たく対応してしまった。後日お詫びにランチでも奢ろうと心に誓う。


 向かった先は、歩美さんのカフェだ。家にこもるのが理想だったけれど、一人きりだと壊れてしまいそうだったから。


「いらっしゃい、あら美玲ちゃん! 平日に珍しいわね」

「歩美さん……すみません。少し、一人になりたくて」


 一人になりたいのに、知り合いのカフェに来るという矛盾。でも、歩美さんはすべてを察したように頷き、奥の角席に案内してくれた。


 コーヒーを運んできたあと、まわりのテーブルに“reserve”の札を並べてくれた。ありがたくて、泣きそうだった。


 提出した経費の明細は自分のシステムにすべて残してある。領収書のコピー、航空機代とホテル費の控え、勤怠は家計簿と一緒にファイルしていた。K航空の営業担当、町田さんに連絡して、航空券のレートと搭乗履歴を、ホテルにもデータ提供を依頼。


 しかし、アメリカが過去の宿泊履歴をどこまで残しているかは不明……。履歴がなければ、せめて部屋の写真と平均価格を揃えよう。


 ……というか、架空の領収書の証明って、どうすればいいのよ。


 作業を進めながら、自分の行動を一つ一つデータ化していく。その過程で、何が無駄で、どこをもっと頑張れたかが見えてきた。悔しさと怒りを前に、でも私は――負けない。


 2時間が経ったころ、まだ怒りは収まらず、頭が冴え渡っていた。


「……顔が怖い」


 その声に顔を上げると、そこには息を少し切らせた海堂さんが立っていた。


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