president
大学を卒業してから、念願の大手旅行会社に就職した。入社から2年、海外営業部署に配属され、その1年後にはアメリカ西海岸の営業担当に抜擢された。人気エリアだったおかげで、売り上げは通年一位を記録。
――取引先からの信頼も厚く、その勤勉さはクライアントからも高く評価されている――今年の評価面談でその言葉を聞いた時、私は初めて自分の仕事に対するやりがいを実感した。
「神崎さん、来週のロサンゼルス支店とのミーティングの資料送っておきましたので、最終チェックお願いします」
「ありがとう、月曜日の朝までに確認しておくね」
「はい、それではお先に失礼します。お疲れ様です」
「お疲れ様」
時刻は夜8時。軽い残業を終えて、いつものように駅へと向かう。金曜日の夜、自宅へ帰るのとは逆方向、上り線ホームに向かって歩く。地下鉄に乗り、大企業が集まるオフィス街で降りるのがルーティン。
駅直結の、高層ビルの回転扉を通過してエレベーターに乗り込み、重厚な扉が静かに閉じて42階まで上がる。そのたびに、ふとあの日のことを思い出す――10年前、35階に入っている外資系のオフィスに足を運んだあの日を――
チーンと軽い音が鳴りエレベーターの扉が開くと、目の前には半透明の筆記体で小さく《President》と書かれたダイニングバーが店を構える。中に入ると落ち着きのあるクラシックが流れ、オリエンタルな匂いが漂う空間が広がっている。
「こんばんは、マスター」
「いらっしゃいませ。カウンターへどうぞ」
「ブルームーンください」
「かしこまりました」
「今日も、景色が綺麗ですね」
カウンターの後ろに広がる景色は、圧巻だ。磨かれた窓ガラスから見える夜景は、言葉を失うほど美しい。ここは『プロポーズで使いたいお店』で、ランキング1位を誇る場所。毎度、そんなことを思いながらその景色に見とれる。店内にはテーブル席もいくつかあるが、今の時間帯はいつも満席だ。みんな、大切な人とこの空間を楽しんでいるのだろう。
(私はここに誰かと来たことはない。)
私の中で諒太との思い出は数えるほどしかない。高校生の頃、一度だけ二人で過ごした日がある。知らない世界を知ることが輝かしい日常だったあの頃、諒太は新社会人として都内で働き始めたばかり。歳上の社会人なんて、学生の私にとっては憧れの存在だった。
「景色がきれいだから」と、休日にわざわざ会社まで連れてきてくれたけれど、残念ながら上司に一蹴され、その景色を見ることはかなわなかった。今の会社に入社してすぐの飲み会で、インテリ系の上司からこのビルの最上階にバーが入っていることを教えてもらい、私はそこに定期的に足を運ぶようになった。
私には、ここに来る理由があった――諒太に会えるかもしれないという、ほんの少しの希望を抱いて。
しかし、その希望は現実にはならない。むしろ、ニュースで見かけるようなストーカーのような自分に気味が悪くなり、最近はしばらく来るのを避けようかとも思っているところだ。