国道。すれ違い様《ざま》の水しぶき
(あの自転車・・もう、轢いたと思った・・・。)
さっきの交差点をルーム・ミラーでチラ見した瑠璃子は、今更に冷や汗が吹き出してくるのを感じた。
気が付けば、ハンドルを持つ手も少し震えている・・・。
後ろからは、法定速度よりも随分遅い瑠璃子の車を、煽りぎみに近寄る車が居た。
さっきの交差点で左折して来た車だった。
瑠璃子はこのまま家に向かうのは危険だと思い、ハザード・ランプを点けると、左りに車を寄せ、路肩に車を停めた。
後ろには迫っていた車は、瑠璃子の車に対して短いクラクションを鳴らして追い抜いて行った・・・。
「ママ・・・大丈夫?」
「うん・・・びっくりしたぁ・・・」
「私もびっくりしたぁ。」
(あんな自転車なんて、こんな雨の日に見える分けない・・・)と思った瑠璃子は、「本当に怖かったぁ・・・」と、ハンドルに突っ伏し大きく息を吐いた。
それから瑠璃子は、その場で3分ほど休憩した・・・。
すると気持ちも落ち着いてきたので「ママ、もう大丈夫だから、帰ろうね?」と、後部座席に座る希未留に声を掛けた。
希未留は「うん。私も大丈夫だよ」と言った。
それは、娘が母を安心させようとの精一杯の返事だった。
娘のそれを感じ取った瑠璃子は「うん」と言って頷くと、右へのウインカー・スイッチを入れてからハザード・ランプ消し、周囲と後方を良く確認してから車をを発進させたのだった。
それから少し車を走らせた瑠璃子は、国道に合流していた。
そこは、もう後5分も車を走らせれば、家に付ける場所だった。
4車線〔片側2車線〕の国道は少し混んでたが、流れは早かった。
それは、この辺の道も良く知る人達の多くが、帰宅を急いで運転してるからのだろうと思えた・・・。
さっき裏道から合流した瑠璃子も、その流れに乗って車を走らせてたのだが、とある信号のある交差点に差し掛かった時に、自分が先頭になった形で赤信号に止められたのだった。
(この時間は、車の数が多いのに流れが早いから苦手。それに、対向車の多さと大雨で路面がギラギラ白く眩しいのに・・・先頭か・・・)と、ここからは車列の先頭となる事が、瑠璃子に重圧を感じさせ少し不安になった。
それから瑠璃子は、自分側の信号が青に変わると、対向車のLEDライトの眩しさに目をほそめながら、ゆっくりと車を加速させた。
瑠璃子の自宅近くの脇道に入るまで、あと3分ほどの所に差し掛かった時だった。
そこには押しボタン式信号機があった。
瑠璃子は、さっきの自転車との事もあったばかりなので、誰か渡ろうとしる人は居ないかと思い、遠くから気を付けて見た。
すると、丁度その信号機の辺りですれ違いそうな対向車があり、それが中央車線寄りを走る大型トラックだと気が付いた。
瑠璃子は、この辺から左車線に入り、その先の左折に備えたかったのだが、周囲の車との位置関係で、まだ右車線を走っていた。
先のとおり、向かってくる大型トラックも、向こうから見て右車線だったので、互いの距離が近い状態ですれ違う事になる。
大型トラックのいくつもの車輪からは、モウモウと水煙が巻き上がっていた。
(あのトラック。少しスピードが早いかも)
瑠璃子はそう思い、水煙で一瞬視界が悪くなる事と、風圧に備えた。
それは、車を運転してる人ならば日常的な範囲であったろう。
にも関わらず瑠璃子は、それだけでは無い嫌な予感がした・・・。
そしてその予感は的中する。
押しボタン式信号機の近くには、大きな水溜まりが出来てたらしく、対向車の大型トラックは、船が水を切って走る時の様な、どっと大きな水しぶきを上げながら、瑠璃子の車とすれ違おうとしていた!
その水溜まりを見落としていた瑠璃子は、ハッとしてハンドルと強く握った!
瑠璃子の車のフロント・ガラスの向こうには、大型トラックの大きなタイヤに撥ね飛ばされた雨水が、大きなアーチを作って迫って来るのが見える!
(一瞬、何も見えなくなる!)と、瑠璃子は覚悟した・・・!
その瞬間だった。
それは、丁度さっきの横断歩道の白線上だった。
ゆっくりと横断歩道を渡る、親子連れの様な人形が浮かび上がったのは!!
それは、透明なアメ細工の様にも見えた・・・。
しかも、透明ながら色が付いていた。
見えたのは、グレーのスーツを着た男性と、黄色い帽子を被った女の子らしき子供の姿だった。
大型トラックのタイヤが、まるで高速で走る船が舳先で水を切ったかのように跳ね上げた雨水のアーチは、大人の男と小さな子供の人の形を保ったまま、瑠璃子の車へと迫った!!
(幻?!なに!?)
水が形作る二人は、手を繋いで横断歩道を渡ってたのだが、驚いた顔で瑠璃子の車を見ると、スーツ姿の男性は、子供を守ろうとして、その子に抱き付く様にして背を向けた。
(動いた!!)
瑠璃子は一瞬、もしかしたら跳ね上げられた水の向こうに人が居るのかもと思ったが、大型トラックが来る前に見た横断歩道とその周囲には人は居なかった筈だった。
(何が起きてるのか分からない!!)
だから瑠璃子は、直ぐにブレーキを踏めなかった!
しかし、突然!!
車はスピード・メーター部分の液晶モニターに真っ赤な警告を表示し、自動で急ブレーキを掛けた!!
警告音!
ABSブレーキの作動音!
高速でハザード・ランプが点滅する音!
そして雨水を蹴散らして鳴るタイヤの音が車内に響いた!!
瞬間。
瑠璃子は、父親らしき男に守られた少女と目が合った!!
ドッ!!!っという、嫌な音と衝撃が瑠璃子の血の気を一瞬で轢かせた!!
車体に衝撃があった後、瑠璃子が握るハンドルには『柔らかくて大きな物』を乗り越えた感触が嫌な感じに伝わった!!
全ては消魂しい音だった・・・。
気が付けば瑠璃子の車は、右車線の真ん中で停車して居た。
その事に気が付いたのは、後ろから来る車のクラクションで、瑠璃子は我に返ったからだった。
(ひと・・・人を轢いた!?)青ざめた表情のまま、瑠璃子は辺りを確認した!
泳ぐ目を必死に押えて、バック・ミラーやルーム・ミラーを見た!!
しかし、そこには自分が轢いた筈の人影は見当たらない!
さっき人を轢いたのに、後続車が止まってたりもしていないのも、きみょうだった。
(ど・・・どういう事なの!?)
自分が人を轢いたのに、それを見ていた筈の後続車は、轢かれた人を見捨てて行ってしまったと言うのだろうか?
混乱した瑠璃子が後部座席の方を振り返って見ると、希未留が硬直した姿で座って居た・・・。
幼い娘も、自分と同じ光景を見たのだと瑠璃子は確信した。
瑠璃子は希未留の事が心配だったが、今は轢いてしまった人がどうなったのかが大事であった。
ドライバーには、自分が起こした事故に対しての人命救助や通報の義務があるのは当然だったが、瑠璃子の頭の中には、そんな『義務』への思いよりも、純粋に親子の命を助けたいとの思いが強かった。
だから、直ぐにハザード・ランプを点け、もう一度、周囲を確認した。
今なら後続車も対向車も無かった。
(出よう!!)
そう決めた瑠璃子は、土砂降りの雨の中でドアを開いた。
まだドアの内側の取っ手を掴んでる右腕に大粒の雨が叩き付けられた。
それから外に出ると、瑠璃子はあっという間にずぶ濡れに成っていった。
しかし、今はそれどころでは無かった。
だから瑠璃子は、大雨に目を細めながら、車の後方を見た。
しかし・・・だった。
そこには青信号で光る押しボタン式信号機と横断歩道は見えるが、自分が轢いてしまった筈の人影は見当たらなかった。
(もしかして、巻き込んだ!?)
そう思った瑠璃子は、恐る恐る、車体の下を覗き込んだ・・・。
しかし、そこにも人影は無い・・・。
(どういうことなの?!私・・・確かに・・・!!)
そう思った瑠璃子は、今度は車の前を確認しに行った。
愕然とした。
車のフロント周りには、人と衝突したら出来る筈の『へこみ』も傷も・・・・それらしいものは、何一つ無かったからだった・・・。
(私・・・人を轢いたんじゃ・・・?!)
瑠璃子は呆然と立ち尽くして居た・・・。
そこに突然、バァーン!!っという強烈なクラクションが鳴り響き、瑠璃子をハット!させた。
それは、後方から迫って来た大型トラックからだった。
大型トラックは、繰り返しクラクションを鳴らしながら、立ち尽くして居た瑠璃子と、希未留が乗ったままの車の横を高速で掠めるようにして通った。
それは、瑠璃子の車の駐車場所が邪魔であり、何よりも危険だとの忠告だったろう。
(き・・・希未留!)
大雨の中、このま中央斜線に寄せて路上駐車し続けるのは、間違い無く危険だった!
瑠璃子は、まだ何が起きたのか分からなかったが、兎に角、車を安全な場所に駐車しなくてはと思い、急いで運転席へと戻った。
そして、ずぶ濡れのままシート・ベルトを着けると、後続車も対向車も来ないタイミングを見計らって、対向車線へとUターンをすると、そのまま路肩に駐車した。
そしてこの時、瑠璃子は薄々気が付いた。
(もし、本当に自分が人を轢いてたのなら、自分は今、車を運転できるのだろうか?)と・・・。
あれだけ現実味があったと思った人を轢いた光景と感触・・・。
瑠璃子は、それが急速に薄れて行くのを感じて居た・・・。
路肩に駐車したそこからは、瑠璃子がたった今、自分が親子を轢いた筈の、押しボタン式信号機のある横断歩道が良く見えた。
瑠璃子は、車内から事故現場である筈の辺りを見渡した。
しかし、そこには轢いた筈の姿が見当たらなかった・・・。
(自分は、自分に都合の良いものを見てるのだろうか?!)
(本当はそこに人が倒れてるのに、見えてないのだろうか?!)
自問自答した瑠璃子は「誰も・・・見えない・・よね・・・?」と、自分に言ってるのか、後部座席の希未留に言ってるのか分からない言い方をした。
力無い母の言葉を自分への問い掛けと思った希未留は「だれも、いないね・・・」と、小声で答えた。
チャイル・ドシートに固定されてる希未留も、後部座席から倒れてる筈の人達を探してたのだった。
「そう・・・だよね?」と、答えた瑠璃子はハットした!
さっき、事故直後に娘の方を振り返った時にもそう思ってた!
今、娘がそう言うのは、自分が見たものと同じものを娘も見たに違いないって事なのだと・・・・
「希未留も・・・見たよね?!」
瑠璃子は自分でも恐ろしい質問を娘にしてると思った。
自分が二人の人を轢いた瞬間を、娘に「見たのか?」と訊いてるのだからだ。
希未留は「うん。すごくびっくりした・・・。でもあの人たち、いないの?」と、瑠璃子に聞いてきた。
瑠璃子はもう一度、押しボタン式信号機の周辺の路上は勿論、路肩に至るまで、じっくりと落ち着いて見た・・・。
しかし。
そこに人影は無い。
途切れ途切れに来る、連なる車のライトにも、不自然なモノは何も照らし出される事は無かった。
それに、もし、瑠璃子が本当に人を轢いたなら、路上に横たわってる筈の人を、他の車が避けない訳もない筈だった。
(本当に私は・・・・。)「人を轢いてない・・・・・!」
瑠璃子は心底ホッとした。
すると涙が溢れてきたのだった・・・。
「私ぃ・・・人を轢いてない・・・!!!」
嗚咽を漏らす母の姿に驚いた希未留は「ママ!・・・・ママー!!」と言って、一緒に泣いた・・・。
つ づ く