歩行者。それを気取る銀色の二輪。
瑠璃子の仕事場であるスーパー・マーケットの前を通ってる道から、数本の横路を隔てた向こうには国道があった。
瑠璃子は通勤時や帰宅時には、途中でその国道を使うのだが、家と職場と保育園を行き来するには、いわゆる裏道を使った方が早いので、瑠璃子はいつも、娘の希未留を送り迎えする時には、そうした裏道を使っていた。
そして、それは今日も同じで、娘の待つ保育園へと向かう瑠璃子は、ワイパーを最速にしても見え憎い土砂降りの雨の中を、法廷速度よりも、やや遅い速度で車を走らせて行った・・・。
保育園の駐車場に着いた瑠璃子は、車のエンジンを切ると、傘を広げながら運転席のドアを開け、外に出た。そして、希未留を迎えに保育園の玄関へと歩いて向かった。
すると既に、女性の保育士と希未留が玄関まで来ていたのだった。
それは、保育園の窓から瑠璃子の車を見付けた保育士が希未留を連れて、先に二人で待って居てくれたからだった。
「ママ!」と言って駆け出そうとする希未留の両肩を、保育士は優しく押さえ「走ると危ないからね。希未留ちゃん」と言って一度留めた後、保育士は希未留と一緒に、ゆっくりと瑠璃子の前に来てくれた。
こうした感じの事はいつもだったが、瑠璃子は、そんな保育士を見て(優しい保育士さんだな)と、思っていたのだった。
「いつも、娘を良く見ていただいて、ありがとう御座います」
「いいえ。こちらこそお世話になって居ります。・・・それにしても、酷い雨ですねぇ」
「ええ。もう、こう大雨だと、ワイパーもライトもあまり効かなくて、怖いです、もう・・・」と、保育士と瑠璃子が話してると、それが待ちきれないのか「ママ!」と、希未留が大きな声で目の前の瑠璃子を呼んだ。
「はい。希未留!良い子にしてかな?」
「うん!きょうも、ちゃんと、あそんだよ!」
「ちゃんとしたのは、お勉強じゃないのかぁ?」と言って、瑠璃子は笑った。
そして保育士の方を見ると「では、どうもありがとう御座いました」と、笑顔でお礼を言うと、希未留も「ばいばい!あしたもね!」と、保育士に手を振った。
保育士は、そんな二人を「お気を付けて・・・」と、優しい笑顔で見送った。
瑠璃子は、玄関先で開いた傘の中に希未留を入れると、我が子を転ばさない様にと手を繋ぎ、気遣いながら自分の車へと歩いた。
そして車についた瑠璃子は、傘を差したまま、その左の後部座席のドアを開くと、座席に取り付けられたチャイルド・シートに希未留を座らせた。
普段なら希未留を座らせて直ぐに、ドアを開けたまま希未留にシート・ベルトを取り着けるのだが、今は大雨なので、瑠璃子は直ぐにドアを閉めた。そして、開いた傘を持ったまま右の後部座席のドアの前へと移動し、それを開いた。
それから瑠璃子は直ぐに傘を閉じながら、右の後部座席に乗り込むと、そこの座席に座って希未留のシート・ベルトを取り着けた。
「はい。ちゃんと着いた。」と瑠璃子が言うと、希未留は「うん。ありがとう!」と、元気に答えた。
希未留が『今日も無事に母が迎えに来てくれた事が嬉しい』のだということが、瑠璃子には痛い程伝わった・・・。
そんな希未留の言葉に笑顔でうなずいた瑠璃子は、閉じた傘を傘の紐で止めると、それを後部座席から助手席の足元へと身体を伸ばして置いた。
それから「じゃあ、ママは前に行くね」と言った瑠璃子は、またドアを開けると外に出ると、大粒の雨に打たれながら運転席へと移動したのだった・・・。
「今日は大雨で運転が危ないから、保育園でのお話は、お家に帰ってから聞くからね」と言った瑠璃子に、希未留は「えー・・・なんかしゃべりたい・・・」と、少し膨れた。
瑠璃子は「帰るまで10分ぐらいだから、ちょっと我慢してね」と、瑠璃子と自分が無事に帰宅できる事を優先した。
瑠璃子がルーム・ミラー越しに見る希未留の姿は不満いっぱいだったが、希未留も子供なりに理解してくれたのか、返事もせずに黙ったのだった。
「ごめんね。ママ、ちゃんと希未留を家に連れて帰りたいから」
瑠璃子が、そう言って謝ると、希未留は仕方無くって感じで「うん。わかった」と言った。
それから二人は、移動する車の中で無言のままとなった・・・。
瑠璃子は片側1車線の裏道から国道へ向かうのに、信号のある交差点で右折待ちをしていた。
大雨の中を走る対向車の多くが点灯するLEDヘッド・ライトが、今は少なくなったハロゲン・ライトの明かりよりも目を突き刺して辺りを見辛くさせてるので、瑠璃子はなかなか右折のタイミングを見極められないでいた。
瑠璃子の車を先頭に、後ろには同じ右折待ちの車が4台、ウインカーを出して待っていた。
右折先の横断歩道で待って居た数人の歩行者は既に渡り終え、他に待つ人は無い。
そうして瑠璃子が、対向車の列が途切れるのを20秒ほども待っていた時だった。
(今なら行ける!)と瑠璃子は思い、対向車が途切れたタイミングに合わせてアクセルを軽く踏み込むと、右折を開始した。
そして、横断歩道の手前に差し掛かった時だった。
突然、右後方から、何か金属的な反射が瑠璃子の右目の端に捉えられたのは!
瑠璃子は咄嗟に急ブレーキを掛けた!!
辛うじて捉えたソレが、路側帯を逆走して来た無灯火の自転車だと気が付いた時には、自転車は自分の車の鼻先を、まるで『当然の権利』として掠めるようにして通り抜ける寸前だった!
(止まれ!!!)瑠璃子は更に強くブレーキを踏んだ!!
しかし実際は踏力が、まだ足りてなかった!!
フル・ブレーキというのは、時々でも練習をしてなければ、意外と踏めないのだという事を、瑠璃子は知らなかったからだった・・・!
そして自転車が車の正面に来る寸前だった!
自動車のセンサーとは別に作動してる正面レーダーとカメラが、自転車の通過を捉えたのは!!
瑠璃子の車が衝突軽減ブレーキを急激に掛けたので、車内には、けたたましいモーター作動音が響き、ブレーキを含む瑠璃子の右足に軽い反動を伝えて来た!!
瞬間!!
瑠璃子の車のバンパーから僅か3センチにも満たない先を、自転車の左ペダルが掠める様にしながら通り抜けた・・・!!!
車が止まった瞬間。
瑠璃子は、こちらの車を咄嗟にかわそうとした事で、少しバランスを崩しながら、自転車を漕いで去ろうとしてる人を目で追った。
それは、20代前半ぐらいの、半透明のカッパを羽織った女だった。
女は自転車を止める事無く、焦りと不機嫌を織り混ぜた表情で瑠璃子の方を振り返った。そして、瑠璃子の運転を非難する眼差しを向けた後、さっと前を向くと、更に逆走を続けて走り去って行った・・・。
その終始、5秒にも満たない出来事に瑠璃子は驚き、声も出なかった・・・。
しかし直後、遠ざかった自転車の女を邪魔臭そうに躱した対向車が、左折のウインカーを出して迫って来るのが見えた。
(そうだ。このままじゃ邪魔になる!)と、やっとの思いで状況を整理した瑠璃子は、もう一度、横断歩道の周辺を確認すると、ゆっくりと車を出したのだった・・・。
(あの自転車・・もう、轢いたと思った・・・。)
後方に遠ざかるさっきの交差点をルーム・ミラーでチラ見した瑠璃子は、今更になった冷や汗が吹き出してくるのを感じた。
気が付けば、ハンドルを持つ手も少し震えている・・・。
後ろからは、法定速度よりも随分遅く走る瑠璃子の車を、煽りぎみに近寄る車が居た。
それは、さっきの交差点で左折して来た車だった。
瑠璃子はこのまま家に向かうのは危険だと思い、ハザード・ランプを点けると、左りに車を寄せ、路肩に車を停めた。
後ろから迫って来た車は、瑠璃子の車に対して短いクラクションを鳴らし追い抜いて行った。
車内には、ハザード・ランプの点灯を伝えるカチカチという音が響いていた・・・。
「ママ・・・大丈夫?」
「うん・・・びっくりしたぁ・・・」
「私もびっくりしたぁ。」
(あんな自転車なんて、こんな雨の日に見える分けない・・・)と思った瑠璃子は、「本当に怖かったぁ・・・」と、ハンドルに突っ伏し大きく息を吐いた。
それから瑠璃子は、その場で3分ほど休憩した・・・。
すると気持ちも落ち着いてきたので「ママ、もう大丈夫だから、帰ろうね?」と、後部座席に座る希未留に声を掛けた。
希未留は「うん。私も大丈夫だよ」と言った。
それは、娘が母を安心させようとの精一杯の返事だった。
娘のそれを感じ取った瑠璃子は「うん」と言って頷くと、後方を確認した。そして後続車が無いのを確かめると、右へのウインカー・スイッチを入れてからハザード・ランプ消し、周囲と後方を良く確認してから車をを発進させたのだった。
つ づ く